* 下がり葉の猫、第11話 *


5.


「先月は本当に、ありがとうございました」
 佐織が頭を下げて三度目になっていた。カフェのティーセットをオーダーし終え、木製のチェアに座った文乃はその姿を見て苦笑する。彼女は待ち合わせの場所に着いた瞬間から、文乃に恐縮する態度を戻さないのだ。
「いえいえ、こちらこそ素敵な披露宴にご招待いただき、ありがとうございました」
 こうしたときは、当たり障りのない言葉を返したほうが無難だ。文乃が手伝いをした結婚式披露宴の件にあわせ、着付けの個人指導を当分休むことが、彼女をそうした気持ちにさせてしまうのだろう。大振り袖は親戚からも大好評だったという話はすでに聞いていた。年末年始に向かう新婚生活の中で忙しい佐織が、時間を割いてきていることも知っている。文乃はここからどう話を進めるべきか、店内を見回した。
 腰を落ち着けている現在のカフェにたどり着くまでの間、佐織はまずはじめとして文乃の仕事に関することを話してくれた。いつも物事をはっきり伝えてくれる姿勢は、彼女が信頼できる取り柄の部分だ。そもそも佐織と外で会うことにしたのは、この二点の話題にまつわっている。佐織からの誘いを断らなかったのは、電話よりも面として向かったほうが彼女も気が楽になるだろうと思ったことと、買い物のついでとして都合が良かったからだ。理由のあったほうが街へ出る気にもなる。佐織の行きつけであるこのカフェで、佐織と談笑した後は一人で買い物ほはじめるつもりだ。
 十二月は早くも中旬に差し掛かろうとしていた。文乃が佐織の披露宴を手伝ってから、一ヶ月近くの月日が経過している。その間、文乃は披露宴着付けの余波から抜けだし、平常を取り戻していた。イレギュラーだったのは、煎茶道流派の手伝いや、年末年始の着付け個人指導の日時確認くらいのものである。はじめての外出を完遂した茅世は、相変わらず日常着を洋装にする気がない。客人が家にいない日中は、甚平に半天姿でコタツの中に潜っている。一緒に街で買い物してみないか、と、文乃が試しに誘ってみたものの、寒くて嫌だと茅世に即答された。去年の冬も、茅世は多くの時間をコタツの中で過ごしていた記憶がある。元々猫だったのならば、文乃の実家にいたときと習慣が変わらない。
「ここのカフェ、とても雰囲気が良いところですね」
 文乃がインテリアを見渡しながら、会話を変える。文乃の仕事にまつわる話が中心の喫茶であることは確かだが、佐織に恐縮し続けられては場がもたない。文乃の計らいは功を奏したようで、佐織の表情が明るくなった。
「ええ、すごく落ち着いた感じで、私のお気に入りのカフェなんです。実は経営しているマスターの方が、古くからの両親の知り合いなんですよ。その方は女性なんですけど、センスがよくって。今は表にでてきていないみたいですけど」
「ああ、そうなんですか。いいご縁ですねえ」
 佐織がカフェに入って人を探すような視線を繰り返したのは、マスターと挨拶がしたかったからだろう。今のところ従業員として動いているのは若い男女二人だ。
 おすすめのカフェだと言われ連れてこられた場所だが、なかなか良い感じだった。本当に文乃の周囲にいる女性たちは揃って良いカフェを見つけるのが上手だ。文乃は昔から和菓子屋しか良い甘味処を知らない。洋菓子はつい、自分の手でつくってしまうからだ。
 地上階に場を持つカフェは、打ちっ放しのコンクリート式ビルをうまくリフォームして賑わいを見せていた。木材を白いペンキで浅く塗ったテーブルとチェアが十数席配置され、奥には木網に似たソファセットの席も置かれている。現在すべて満席だ。木棚やアルミのバケツ、じょうろなどがインテリアに使われ、緑のポトスが室内をクリーンに飾る。窓にはレースの白カーテンが縁を描いていた。文乃のイメージは、五月のカントリーだ。いつの季節も、このカフェ内部だけは新緑薫る雰囲気があった。ガーリー系の服が似合いそうだ。現にその手の服装を着こなす女性から文乃は視線をもらった。場にあわない和装を着ていることは承知の上だ。
 最寄り駅は若者向けの街から一駅分先にある。文乃があまり訪れない比較的静かでお洒落な地区にあった。おそらくカフェ好きでアクティブな由実子ならば知っているスポットだろう。ここに行き着くまで、いくつか在するカフェの真横を通った。その中で、カフェテラスをつけているのはこのカフェだけだ。出入り口にあたる出っ張ったテラス部分は、元々一台分の駐車場だったのかもしれない。狭いスペースを有効活用して、ウッドテラスがつくられている。室内を区切るのは縦長に枠を持った大きい窓だ。冬と猛暑の時期以外はこの窓を開け放ち、より開放的な空間をつくるのだろう。
 文乃が見留めた窓には、くすんだ空がある。今にも雨が降りそうな色だった。夜半まで、このままの天候を維持するという話は聞いている。その情報を頼りに、文乃は和装のまま街へ出た。土曜日はいつも午前中の煎茶道教室がある。それを終えてからの待ち合わせで、洋装に着替えることも考えたが、結局止めにした。最悪、雨になってもかまわない着古した小袖である。寒さを回避するのであれば、道行コートを羽織い他の防寒具を身につければ逃れることが容易だ。
 一方の佐織は洋服である。茶色地コートの中は黒のタートルネックでパールのネックレスが光っていた。しかし、新婚であるにも関わらず指にはリングをはめていない。道中でその理由を問えば「リングもピアスも、かならずすぐに無くしてしまうんです。すごく嫌な癖なんですけど、直したくても直せないし、結婚指輪は一番無くしたくないものなので、特別なとき以外ははずしているんです」と、情けない表情で答えていた。すでに相手からもらった指輪を、二度ほど無くしているそうだ。旦那も佐織の発言に強く同意しているという。三度目の正直で結婚指輪を無くされてしまったら、さすがの旦那も落ち込むだろう。
 文乃が佐織と接する以上、彼女にそうしたそそっかしい面があるようには見受けられない。しかし、よく考えれば、着付けの個人指導のときにアクセサリーの取り外しをするところを見たことがなかった。今もネックレス以外の装飾品は身につけていなかった。金属アレルギーではなかったようだ。
 オーダーから間をあまり置くことなく、店員の若い女の子が二人の席に着いた。テーブルはキッチンカウンターから近い奥の通路席だ。
「お待たせいたしました。ポットのダージリンティーの方、」
 そう言いながら彼女が差し出す品は、紅茶のポットセットとチョコシフォンケーキにハーブティーだ。文乃が先刻メニュー表を見ながら「紅茶にします」と言った際に、それならポットがおすすめです、と、佐織が助言してくれたのだ。少し値段は上がるが、彼女の言ったとおりチョコのクッキーと白のメレンゲがひとつずつ茶受けとしてついてきた。
「あ、今日はメレンゲなんですね」
 佐織がそれに目を留めて店員に言う。
「はい、そうです。ごゆっくりどうぞ」
 従業員は愛想が良い。笑顔で答えた言葉に、二人は会釈して向き直る。
「ここのポットセットのお茶受けは、日によって変わるんです。種類の違うクッキーであることが多いんですけど、今日は少しラッキーかもしれません。お菓子をつくっている方は、マスターの息子さんなんですよ。豆乳と季節のフルーツをたくさん使ったロールケーキが一番人気で、わざわざ持ち帰り用のものを買いに来る人もいるくらいなんですよ」
「あら、お持ち帰りもできるんですか。だから、レジに向かってすぐ帰る人がいたわけですね。本格的なんですね、こちら」
「たしか、持ち帰りはロールケーキだけだったはずです。スタンダードなのと季節のフルーツ入りの二種類で。ここ、前はもっと違う感じだったんですけど、お菓子修行から息子さんが戻ってきてから、ガラっとケーキのイメージも良くなって、今じゃ土日に行くとこんな感じで人がいっぱいなんですよ。今日は天気が悪いから、すぐ座れましたけど」
 帰りがけに、そのロールケーキをおうち用に買っていく予定です。佐織の顔に笑みが戻る。甘いものが心底好きなのだろう。おそらく元からロールケーキを買うつもりでこのカフェに文乃を連れてきたのだ。文乃はそう思いながら、茅世のお土産に良いかもしれないと重ねて思った。久しぶりにお手製ではないもので喜ばせるのもいいだろう。
 ガラス製のポットから紅茶をカップに注ぐ。佐織は早速シフォンケーキを口にしていた。彼女の頼んだハーブティもポット使用で、少し不思議な香りがしている。
「ここのカフェ、かなり人気があるみたいですね。私の友人が無類のカフェ好きなんですけれど、こちらのカフェ、彼女なら知っているかもしれません」
「たぶん名前くらいなら聞いたことあるかもしれませんよ。元々ここはハーブティーで有名だったんです。マスターがハーブティーの調合すごくうまいんですよ。この少しスパイシーでクセのある香りがしているのは、このカフェでしか飲めないハーブティーで。これがすごくおいしいんです。だからついつ通ってしまうんです」
 やはり、何か特別な目当てがないとカフェには通わないだろう。佐織が気に入っているのは内部の雰囲気とケーキとハーブティーだ。三種揃えば常連にもなる。おそらく、そういったリピーターが多いのだろう。
「なるほど。マスターさんがお知り合いでしたら、なにを使っているか訊けないものですか?」
「実は聞けたんですけど、聞きなれないものばかりで、材料を調達するのが難しそうでやめました。ここで飲めますし。なにか、シナモンとブラックペッパーとグローヴにフェンネルだったか、もっと特別なスパイスを使っていた気がします。忘れました、私横文字得意じゃなくて」
「奇遇ですね、私も横文字弱いんですよ。今言われたものの半分がわかりませんよ」
「難しいですよね、特に英語のは」
 妙なところで意気投合して、二人は微笑みを交わす。よくよく考えれば、生徒と別の日に待ち合わせてでかけるというシチュエーションははじめてだった。意識しないところで、お互い気を張っていたのかもしれない。
「そういえば、結婚式のケーキもここで特別にお願いしたんですよ。あ、引き出物の中にパンフレットとか入れていたはずです。文乃先生の着付け教室とあわせて」
 思い出したように佐織から言われ、文乃は合点がいくと頷く。
「ああ、ありましたね。ここのことだったんですね」
 佐織の披露宴で、文乃の教室が紙媒体で紹介された。とはいっても、直接テーブルに置かれていたわけではなく、引き出物とセットに織り込んであったのだ。はじめ佐織から提案されたこの申し出に文乃もずいぶん悩んだが、先方が簡単なデザインでつくってコピーする、印刷料金は披露宴セットに含まれているものでなんとかなると言うため、甘んじて受けることにした。文章と校正は文乃と佐織が責任を持ったが、こうしたことに詳しい由実子とメールのやりとりでお墨付きももらっている。由実子には「宝の持ち腐れを使うとは、珍しい」とメール文面で称された。ノートパソコンのことである。いつもは寝室の引き出しの中で眠っている。精密機械に疎い文乃としては、メールのやりとり以外には使用したくない品である。
 完成品は事前に見ていたが、引き出物を確認する際に改めて見れば実に不思議な感覚を受けた。素人がつくったわりに、煎茶道のお手前画像もはめこまれ、そこそこの出来だ。しかし、これで生徒が増えるとはまったく期待していない。現に披露宴経由で来た問い合わせはこれまで二件のみだ。あとは煎茶道教室のメンバーで、たまたま披露宴に出席していた宮村が一名体験者を連れてきた程度である。体験者が教室をはじめるかどうかは、今のところ返答待ちの状態だ。
 一方、もうひとつのパンフレットは、張りぼてではなくしっかりした既製品だった。カフェよりもケーキに重点を置いたパンフレットだったため、このカフェと合致しなかったのである。顔写真も載っていた記憶が文乃にはある。そのパティシエがマスターの息子なのだろう。
「そうなんですよ。良いものは皆に教えたくって、引き出物にカフェのパンフレットを入れたいってお願いしたんです」
 佐織は、自分が良いと思ったものは広言したくなる性格なのだろう。それに文乃の着付け教室も入っていたということだ。そして、彼女はすっかり闇の彼方に飛ばしていたできごとを思い出す。披露宴のとき、文乃が半ば強引にステージへ上げられたのは、新婦のこうした性格が災いしたわけだ。
「あら、そうなんですね」
 また、デリケートな話題に戻ってきている気がしていた。次になんと言って会話を続けるべきか。文乃が逡巡する間もなく、二人のテーブルに一人の女性がテーブルの横に現れた。
「佐織ちゃん、こんにちは」
 文乃の母親と似たような年齢をしたショートカットの女性だった。白いブラウスを着ていたが、腰元のエプロンですぐマスターだと文乃は気づく。シフォンケーキを半分食べた佐織は、晴れやかな顔を向けていた。彼女は時おり子どものような笑顔を見せる。パーツが整った美人顔というわけでもないが、こうした表情の豊かさが異性に好まれたのであろう。
「湯川マスター、こんにちは。先月のケーキありがとうございました」
「いいのよ。逆に出席できなかった分、こうして佐織ちゃんの晴れの日にお手伝いできてなにより。ね、お店に客人として来るのは久しぶりじゃない?」
「そうなんです、あまり時間がなくて」
「そうよね、忙しい最中よね」
「マスターはどうですか」
「ほらほら、見てこのとおりよ。パティシエが毎日うなってるわよ、今月は死ぬほど忙しいって」
 調子の良い感じで話すところを見るに、この湯川マスターという女性は明るい気質の人なのだろう。文乃は雰囲気だけをとってそう判断した。
「そういう時期ですもんねえ。晴海パティシエの腕の見せ所でもありますよね」
「そうよ、あれがはじめたことなんだから自分で責任とらないとよね。ところで佐織ちゃん、こちらの素敵な着物の方の紹介を忘れてはダメよ」
 近所の立ち話の延長のような会話で、佐織と湯川と名乗る女性が長いつきあいであることがよくわかった。突然話を振られた文乃は姿勢を律す。佐織が、ごめんなさい、と二人に軽く詫びた。
「こちらの方は、私の着付けの先生で倉橋先生といいます。私の披露宴の大振り袖の着付けもしてくださったんです」
「はじめまして、倉橋文乃ともうします」
「こちらこそはじめまして、湯川貴美子です。写真で見ました、その大振り袖。お若そうなのにすごいですね」
「いえいえ」
「先生は煎茶道も教えているんですよ。玉露とか」
「あら、お茶も」
 マスターの表情が一際明るくなる。カフェの経営者として、お茶の話は着物よりも気を引いたようだ。
「本物の玉露の淹れ方って本では見たことあるんですけれど、私も実は詳しく知らないんですよね」
「マスターも知らないんですか。この際、先生に教わったらどうですか。百聞に一見は如かずですよ」
 玉露の本来の淹れ方を知っている人は多くないし、どこかで知っていても、味を知らなければ上手に淹れられないだろう。教本に書いてあったとしても、玉露が水に近い温度で時間をかけ抽出すること自体に納得がいかないはずなのだ。
「そうよねえ。学びたいというか……こんなところで立ち話してる場合じゃなくなって来たけど、」
 チラリと従業員を湯川が見る。満員だが、まだ人の出入りに対応していると判断したのか、話を続けた。



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