* 下がり葉の猫、第12話 *


「実は佐織ちゃんにも話していなかったことなんだけど、来年の二月にカフェの新店舗を出す予定なの」
「ええ! そうなんですか! おめでとうございます」
 佐織が驚きの表情のまま祝いの言葉を述べる。文乃はすっかり聞き役に徹していたが、重ねてお辞儀はした。その文乃を湯川が見つめる。なにか話してくるのだろうという文乃の直感が働いた。
「店舗はおさえてて今ちょうど改装しているところなんだけど、次のところは和風のカフェにするつもりなのよ。和洋菓子をメインにして、実際に和菓子も扱うような……ところがそういうのって案外どこにでもあるじゃない。正直な話、ハルちゃんがメニューを一新してから、このカフェはそこそこ有名になったのよ。そういう個性がほしいと思うのだけど、なかなかね、」
 そもそも和風テイストってなんだっけ? っていう原点から、ハルちゃんと二人で悩んじゃって、家族とスタッフ巻き込んでウンウンうなってる状態なのよね。
 明るく話しているが、湯川の表情に本気で困っている状況が伺えた。 
「マスター、それって二月に間に合うんですか」
 佐織もさすがにその表情を読んで、心配そうに問う。
「内装は決まっているの。お座敷もつくって畳もいれるし、ここもそうだけど、あちらは自然な木の色をだすテイストなのね。ただメニューとこだわりがねえ。それこそ決まらなかったら、とりあえずここの二号店の和風版みたいにして二月からはじめる気だけども」
 それだけは極力避けたい、という言葉が込められていた。つまり、これはなにを伝えたいのだろう。文乃が湯川を見つめる。目線をあわせて来た湯川は本気だった。
「この縁を機に、和の道を極めていらっしゃる方に助言をいただければ、と」
「え、いえいえ、とんでもない! 私はまだそこまで和の道もなにも」
 新店舗のアドバイスをいただきたいと、この場で突然言われても、文乃は慌てて否定するしかできない。湯川の言葉に驚きよりも焦りが勝った。軽い打診のようだが、責任が重すぎる内容ではないか。
「先生のご負担になるようなことは一切しませんし、アドバイス前にしっかり見積もりもとりますから。本当に、軽いアドバイスでいいんです。たとえば、メニューのお茶はなにがいいかとか。ハーブや紅茶なんかはわかっているんですが、煎茶や和菓子はまた別の話になるので、」
「確かに洋風と和風は材料の仕入れからだいぶ異なると思いますが……突然のことで、ちょっと、」
 やんわり戸惑いを言葉にすると、佐織も文乃の気持ちを代弁した。
「そうですよマスター、私もいきなりでびっくりしちゃいましたよ。ここ、まだ営業中ですよ」
 小声で諭すような口調で、湯川をいさめる。
「そうだわね、確かにごめんね佐織ちゃん。すいません先生、楽しい席をマスター自身が汚すなんて失格よね」
 ガックリとうなだれるマスターは、佐織と似た性格なのだろう。そして文乃はこの手のタイプに振り回されやすいのだ。会社員時代にもこうした同僚に振り回されていたことを、二人を見てようやく思い出す。このタイプは悪い性格でもなく、文乃を踏み台にしているわけでもない。本人たちなりに文乃を立ててくれるのだが、いかんせん引っ張る力が強すぎるのだ。
 次にオープンさせるという和風のカフェは、湯川が責任者でパティシェがお菓子の製造管理にまわるのだろうか。そこに、企画補佐として文乃に加わってほしいという……それは、突然現れた仕事の話であり、会社を辞めてフリーになってから依頼されたものの中で、一番重みのある仕事内容だった。
 しかし一方で魅力的であることも確かだった。文乃には、カフェを経営してみたいという夢もささやかながら持っていた。煎茶道をもっと前面に出したカフェだ。それもあって、友人たちが誘うお茶会はでかけるようにしていたのである。カフェめぐりは楽しい。良いカフェを発掘する能力のない文乃は、由実子たちの助力を密かに借りていた。
 この突然降ってきた依頼を受け入れれば、少しだけでもカフェ経営の裏側を学ぶことができる。このカフェとどう付き合うかは、マスターと先に話し合いできっちり決めなければならない。そして、良いほうに向かってくれるかどうかは、まずやってみないとわからないことだ。どちらにせよ、貴重な経験になる確率は高い。
 働いていたときは、組織の中で人に振り回されない立場にしがみつくことは難しかったが、今回はフリーだ。条件のやりとりでうまく行かなければ、早めに引き下がることも許されるだろう。文乃自身がうまく場をコントロールすればいい話なのだ。
「少しだけで、いいのだけどねえ」
 つぶやいたマスターは本気で困っているのだろう。文乃は、この場をおさめるべく湯川に声をかけた。
「あの、この場ではあれですが、お話だけでしたら少し伺うこともできますが、」
 そう言った文乃の言葉を、直ちに佐織が制す。
「先生、本気ですか。無理したらいけないですよ」
「無理は絶対させないわよ、佐織ちゃん。先生、少しでいいので、できるものでしたらお願いいたします」
「とりあえず、というかたちになりますが」
「それでもかまいません。本当に助かります。ありがとうございます。なら早速、」
「マ、ス、ター! そういう仕事の話は、後で、会計のときに!」
 佐織がビジネスの話を無理やり引き裂いた。湯川も文乃も、我に返ったように苦笑する。おそらく、仕事は仕事、プライベートはプライベートときっちりわけたい性格なのだろう。土曜日に仕事の話を辞めて! と、佐織の顔に書いてある。湯川と文乃は、先々の予定と取り決めをしたかったが諦めることにした。
「そうしたら、また会計のときに私を呼んでね、佐織ちゃん」
「はあい。たのしみにしていますよ、マスター」
 拗ねたようにマスターを見た佐織の言葉に、文乃は疑問符をつけながら、また後で、と湯川に会釈した。


 手土産と買い物袋を下げて、茅世がいる家までの道を歩く。文乃が耳にしていたとおり、天候は曇りのままを維持して暗くなった。本日の夕食は鍋の予定だ。時間のかからない料理に決めて、デパートめぐりを考えていたが、佐織との会話が長引いたことと、手土産のロールケーキをいただいてしまったことでそれは叶わなくなった。必要最低限のものだけ購入して電車に乗った。
 ロールケーキはマスターのご厚意で、名刺とともにいただいた。とりあえずの話し合いとして、カフェの定休日である月曜日の午後に再度文乃は赴くことになっている。佐織がテーブル席で「たのしみにしている」と言ったのは、このことだったのだ。佐織も同じようにロールケーキをもらっている。マスターは「今回は結婚式もあったし、いろいろ兼ねて」と、言い訳しながら佐織に渡していた。いつもは、よく知っている相手でもここまでしないという。
 その佐織は、オーダーした会計をすべて持つと意気込んだ。文乃はそれに甘える他なく、一銭も使わずカフェを離れたのである。申し訳ない気持ちを佐織に抱いたが、彼女は逆に晴れやかな表情をしていたのだから、文乃にたいする恐縮の気持ちはだいぶ取り除けたようだ。
 マスターが席を去ってから、二人はカフェの話題で長居することとなった。文乃は先に第三者から、この店の情報や人間関係を知っておきたかったことが大きい。事情を目の前で見ていた佐織は、知っている範囲内で教えてくれた。
 カフェのオーナーも兼ねる湯川は、佐織の父親経由で家族付き合いしているという。大学時代からの友人だったそうだ。息子は三人いて、次男がパティシエになり今の状態ができあがったという。パティシエは晴海といって、洋菓子を一人で担当しているそうだ。メインをロールケーキにして、他のタルトやクッキーをつくっている。
 詳しい話は、湯川と実際話したときに知れることだが、文乃が佐織から聞いたかぎりでは、誠実な人柄であることは感じられた。月曜日の話し合いで今後のことが決まるだろう。下手をすれば文乃の生活が慌ただしさに巻き込まれる可能性もある。それでも、今のままでいるよりはひとつステップが踏めるのだ。
 未来のことを過剰に夢見て期待してしまうと、良いことにも素直に満足できなくなることを文乃は知っていた。会社員時代に痛いくらいそれを学んでいる。今はこの状況を軽い気持ちで楽しむことが一番だ。
 文乃は帰宅を少し楽しみにしていた。夕食の鍋は軽くして、ロールケーキを茅世とともに食べようと決めたからだ。湯川のカフェでは食べ物を頼んだわけではないので、パティシエがつくるケーキの味は知らない。冬仕様のロールケーキはオレンジとキウイがふんだんにはいっているという。一二月下旬はクリスマス仕様でもう一種ノエルケーキに見立ててデコレーションしたチョコロールケーキが限定販売されている。予約分をメインにしているから、店頭販売は少ないそうだ。いつもより種類も個数も増えるとなると、パティシエは大変だろう。
 豆乳を入れたクリームというのも楽しみだ。ここのクリームはしつこくないと佐織が言っていた。久しぶりにコーヒーを淹れて飲むのもいいかもしれないと文乃が思う。コーヒー豆を買ったのは秋の話だ。密閉して置いたのだから、まだ酸化していないはずだ。
 住宅街は奥へ進むほど人通りも少なくなる。文乃の住む家はスーパーから少し離れている。古くからある一軒家が多く並ぶ地区だ。休日も斜陽が見える時間帯になると人はぐんと減った。夕食前の買い出しにでかける人くらいだ。車を持っている家も多い。一方、文乃宅には駐車場のスペースがなかった。祖父母は運転免許を取っておらず、旅行を好むような性格でもなかった。街に出るならば電車を使用すればいいではないかと豪語していた。駐車場をつくりたがったのは文乃の父である。結局果たされず、代わりにバイクを置く場所は無理やりつくったそうだ。それも祖母にリフォームされて跡形もなくなっている。
 幼い頃からこの家を訪れていた文乃は、リフォーム前の様子をよく覚えている。稽古場に水屋がなく、家族団らんの場所になっていた頃だ。当時から祖母は茶道の先生として活動していたが、教えていた場所は駅により近いところで、カルチャーセンターでも講師をしていた。自分の家に念願の茶室ができると、カルチャーセンター以外の稽古を自宅に切り替えたのだ。生徒の数よりも、もはや続けることに意義があったのだろう。心臓の病を患ったらあっさり引退してしまったのである。
 門扉と垣根だけが新しい家に着く。構えている住居は小ぎれいにしているが、築年数の古さが外壁から表れていた。何十年前に建てられたものが文乃は知らないが、父親の大学生時代にはすでに建っている。後二〇年持つということは難しいだろう。
 文乃は門扉を開け、数段の階段を上った。茅世が元気になるのは夕食前だ。朝と夕方、日付が変わる前に文乃のそばにくっつきたがる。それ以外は大抵寝ている。本当に猫と同じでよく眠っている。寝て夢を見ることがおもしろいのだそうだ。時々夢に見た話を文乃にしてくれる。
 寝ているかもしれないし、一人で遊んでいるかもしれない。彼女は少しくらいの文字は読める。絵本や図鑑を見るのは好きだし、絵を描くのも気にいっている。まるで子どもと変わらないのだ。茅世が家でどうしているか考えるのも、文乃にとってはとても自然なことになっていた。
 道の外灯が遠い家は、電気が一切ついていないためとても暗い。玄関戸の鍵穴を暗がりの中で確認すると、彼女の左側で不自然な音が鳴った。ぐう、と聞こえた。まるで、誰かの空腹時のようだ。
 ふと気になって、顔を左に向ける。家屋が玄関戸とともに引っ込んでいる部分は、庭にあたる部分である。昔父親が垣根と一緒に更地にして駐車場を設けたいと思っていた場所だ。文乃はその庭を花で飾るのではなく、シソやアロエ、ハーブなどの家庭菜園にしていた。
 どこかから猫が侵入してきたのかと文乃は考えていた。しかし、暗がりで見える姿はどう見ても人型をしていた。
「茅世、どうしたの!」
 極力小声で名を呼んだが、語尾に力がはいってしまった。文乃は驚いていた。茅世が単独で家屋の外に出るとは思いもしていなかったからだ。外は寒い、暑い、猫がいるなど散々言って屋内に引き籠っていたではないか。
「文乃、おかえり」
 茅世が甚平に半天姿で、歩み寄った。近づいてくれば状況がより把握できる。毛編みの帽子は被っていたものの、草履は履いていない。足袋の白さが見えているが、おそらく土でドロドロになっているに違いなかった。それについて怒るつもりは文乃にはない。むしろ寒いのに、その格好で外に出ていては風邪を引いてしまう。文乃は家の鍵を取り出した。
「ちょっと待ってね茅世。とりあえず家に入ってから、」
「うん」
 二人とも会話は小声だ。家の面する道に人は通っていなかったが、用心は常に必要だった。玄関戸を引いて、電気をつける前に茅世を中に呼び寄せた。そして、明かりをつける。
「ち、茅世、どうしたの、こんなどろんこで!」
 たたきに荷物を置いた文乃は、茅世の姿に声をあげた。予想していた足袋だけでなく、茅世まるまる土で汚れていたのである。服や顔にも乾いた土がこびりついている。その手には、野生の花がいっぱいに握られていた。白い春紫苑だ。
「ごめんなさい、文乃。たくさん汚れちゃった」
 汚れたことよりも、文乃にとっては茅世が一人で外にでていたことと、花を手にしていることのほうが気になった。春紫苑は冬に咲く植物ではない。しかし、どう聞いていいのかわからない。
 彼女がこの家にはじめて来たときのことを思い出す。会ったのは、同じ小さな庭につながる勝手口付近だ。どこから来たのと問えば、「文乃のところに行きたいと思っていたら、気づいたらここいた」と答えた彼女である。元猫なのだから、泥まみれになって帰ってきてもおかしくはない。しかし、花は別の話だ。野生で奇跡的に咲いていたところでもあったのだろうか。
「とりあえず、着替えてお風呂、」
 よく考えれば、茅世の存在自体が不思議なものなのだ。人でも猫でもない。冬に咲かない花を持っていてもおかしくない。文乃は直ちに聞かないことにした。とりあえず全部落ち着いて、そうだ、ロールケーキでも食べながらが良い。
「文乃、これ、」
 靴を脱いでたたきにあがった文乃の背に、茅世が声をかけた。振り向けば嬉しそうな顔で、花々を掲げている。
「これ、もらったの」
 その頬は、寒さのせいか少し赤みがかっていた。



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