* 下がり葉の猫、第14話 *


 おいしいご飯と由実子の手土産で、茅世のテンションもあがったようだ。練りきりが彩る小さな風情を熱心に見つめている。由実子が文乃宅へ訪れる道すがらに、わざわざ購入してきた練りきりが五点だ。文乃は、その様子から目をそらして台所へ向かう。流し台の前に立っている割烹着姿は由実子だ。洗い物の担当に名乗りをあげていた。温かい水の音は緩く調節され、排水口へ落ちていく。
 台所にある古木のテーブルに濡れ布巾を置いて、文乃も割烹着を着直す。着けたり外したりは面倒だが、着物に汚れがついたほうがもっと面倒なことになる。由実子も文乃から小袖を借りている手前、自ら割烹着を着ると申し出ていた。
「練りきり五個買ってきてよかったわ」
 傍に立った文乃に由実子が、嬉しそうな声でつぶやく。茅世が目を輝かせて喜んだ様子が、気持ちよかったようだ。
「本当ね。由実子さまさまよ」
「いえいえ、わざわざお湯にしていただけただけでも助かるわ」
 食器をすすぐ周りは、もわもわと蒸気があがっている。台所は調理中でないかぎり寒い場所だ。冬の凍るような冷たさの水と対峙するのはけっこう気合いがいる。由実子が洗い物をするのであれば、給湯してあげなければかわいそうである。
「それくらいはするわよ。さて、玉露の用意、と、」
 練りきりをいただくのだから、玉露をともにしたいという強い気持ちが文乃にはあった。しかし、一からお手前をする気はない。台所でも、玉露用の葉と急須さえあればつくることは可能だ。お手前でなくても、温度と抽出時間さえ気をつけていればおいしい玉露が飲めるのである。
 少しの水をミルクパンに入れ、手早くガスコンロで熱する。その間に小さめの急須と玉露用の茶碗を用意した。同時に、今度は薬缶を取り出して水を注ぎ、残りのコンロへ火にかける。
「そのヤカンのお湯は熱すぎるんじゃないの?」
「これも玉露の葉に使うのよ。ただ、ちゃんとした玉露は一回分しか出さない予定だから。残った茶葉は普通に煎茶として使えるの。これはそのためのお湯よ」
「なるほどね」
「まだ使えるのに、もったいないでしょ。しかも玉露の茶葉は高いもんだし、」
 二煎分抽出すると、玉露の味は大体流れてしまうためお手前には使えない。しかし、普通に家で飲むお茶であれば、お湯を注げばおいしくいただけるのだ。出涸らしにはなっていないのである。煎茶のお手前では、玉露葉を贅沢に使っているのである。文乃は大抵自らのお手前で使用した茶葉は、早い内に緑茶として再利用していた。使い古しでも、玉露葉なのだから味は普通のものより甘みがある。
 洗い物を終えた由実子が、文乃の用意した新たな湯呑みをお盆へ乗せる。茶碗、湯呑み、取り分けの小皿とフォークそれぞれ三つずつだ。文乃は沸騰したミルクパン内の湯を、ステンレス製の容器に入れ替えた。温度計と水を用意する。少量の熱湯に水をいれて温度を計っていく。三〇度以下の水温となるようきちんと調節しなければ、本物の玉露の味には到達しない。
「そうだ、ユミ。冷蔵庫にある小豆のようかん取って切ってくれない」
 水を足す前に、由実子にお願いする。彼女は先にようかんを見つけている。
「これ、三切れくらいでいいの」
「いいわよ。……あ、でも、それ切らないで手土産にするほうがいいのかな。ユミ手土産にいる?」
 言ったことを文乃がすぐ撤回する。由実子はちいさく唸った。
「ここでも食べて、残ったの持って帰る」
「好きにしていいわよ。それ、もう一本はカフェ用にあげたやつなの」
 包丁を取り出す由実子の背に語る。前々日の午後に、書類を受け取るため湯川のカフェを訪れた。書類と交換で渡したのだ。オーナーの湯川は、パティシエが喜ぶと言いながら嬉しそうに受け取った。感想は来週聞こうと思っている。
「文乃はようかんつくるのうまいもんね」
「そうね、なぜか一番褒められるのよね」
「いっそ職人になれば」
「嫌よ、案外手間なのよ」
 水温に納得がいって、文乃は茶葉の入った急須に白湯をそそぎ込んだ。その側で、薬缶が沸騰を知らせる音を鳴らす。由実子がガスを消してくれた。
「カフェの件、二月開店だっけ」
 新たな小皿に寄せた三切れのようかんを、由実子が木盆に乗せながら再度問う。
「そうよ。あんまり時間がないから、年末年始休んでられないのよね」
 文乃が時計を見て向き直った。時間を見つつ、由実子に答える。彼女は持ち帰るようかんをラップで包むことにしたようだ。
「そうかあ。うまくいったらいいよね」
「本当、やってみないとわかんないけど」
「そりゃそうだ。それにしても、一年早いよねえ。文乃、年賀状書いた?」
「半分終えたところ。毎年増えるもんだから」
 稽古の教室をしている関係で、年を追うほど葉書を出す相手も増えてくる。仕事の一部ともいえた。その他に、元いた会社で親しくしていた人や定年した上司、学生時代の友人たちにも律儀に送っている。
「私は全然。今回も、来た分だけ三が日で書いて出す感じになるかなあ。そうだ、麻紀乃がフミちゃんの住所教えてほしいって言ってたよ!」
 由実子が思い出したように声をあげた。
「いいわよ、後でユミのスマホにメールするのでいい?」
「オッケー」
「というか、あなたたちけっこう連絡取ってる?」
「うん、パソコンでね」
 文乃が除け者の寂しさで訊いたのは間違いだった。パソコンが好きではない文乃がよくないのだ。文乃も会社にいた頃は、毎日何時間もパソコンとにらめっこする生活だった。使い方はよく知っている。しかし、画面を見ていて偏頭痛を起こすことが時々あって、パソコンは良くないものだという意識が取れない。由実子のように、ホームページ作成ができるほどの能力はなく、家でパソコンをするにしてもインターネットくらいだ。文乃はネットサーフィンにあまり興味が持てなかった。
「文乃もパソコン持ってるんだから、たまには麻紀乃に連絡すれば?」
「ううん、そうね……」
 そう言われても、やはりパソコンに向かう気にはなれない。乗り気ではない文乃の反応に、由実子が手を叩いた。
「そうだ、お茶してから麻紀乃に連絡してみようよ」
「え、私のパソコンで」
「そうよ、そうしよう。だって、そうでもしないと、文乃連絡しないじゃん」
 由実子にあっさり突っ込まれ、文乃は否定できなかった。確かに彼女の言うとおりで、今日が良い機会だろう。
「いいわよ、後で二階からパソコン持ってくるわ」
 まだ来ないの、という茅世の声が居間からかすかに聞こえた。二人は「今行くよ、」と、言葉を揃えて顔を見合わせた。
「文乃、玉露」
「あ、忘れてた」
 由実子の言葉に、文乃は慌てて急須を三つの小茶碗に注いだ。平均した量と味になるよう、少しずつ茶器に淹れていく。由実子はその様子を興味深く見つめていた。五脚用を三つに淹れているので、量はいつもより多い。一滴まで大切に色を落としてから、お盆を先に持っていってほしいとお願いした。
「少し重いけど」
「だいじょうぶ、お盆の扱いは昔したファミレスのバイトで手慣れておりますゆえ、」
 そう言いながら、由実子はバランスよく盆を持っていく。廊下から「茅世ちゃん、戸開けてくれないかな? 」と訊く声が響く。まもなく開く音がした。
 文乃は急須に熱い湯を注ぎ、先ほど使ったステンレス容器にも湯を入れる。割烹着を脱いで居間へ向かった。部屋に入れば、二人がどの練りきりを食べるか決めている。由実子の割烹着は、余った座布団の上に置かれていた。
「茅世は、これにする」
「私はこれかな。文乃は?」
 湯呑みにお茶を注ぐ中で、彼女たちが決めた分を取り分けている。文乃も練りきりが大好物だ。季節を表す和菓子は、見る目を魅了する美しさがある。茅世は梅を模したもの、由実子はスタンダードなものを選んだ。文乃は急須に湯を足してから、残っていた雪に似たかたちのものにすると答えた。茅世が小皿に取り分ける。
 緑茶を三つの湯呑みに淹れ終え、三人で玉露をいただくことにした。簡略式だが、味はしっかりでているようだ。由実子も茅世も飲み慣れていない玉露の味をゆっくり楽しんでいる。
「おもしろい味」
 茅世が前飲んだときと同じ感想を言う。由実子も、「本当におもしろい味だよ」と賛同する。すでに茅世は練りきりに手をつけていた。彼女は洋菓子のときよりも、和菓子を丁寧に食べる。
「それは、それは」
 玉露の味を褒めているのかよくわからない二人の言葉に、曖昧な返事を返す。茅世がかかさず文乃の目を見る。
「両方おいしいよ」
「セットだと練りきりが引き立つねえ」
 お世辞ではない感想が告げられ、文乃は苦笑した。おいしいに決まっているのだ。この黄金律だけは譲れない。三人で練りきりを食べた後で、湯呑みのお茶とようかんを配った。こちらは通常の一品だ。
 文乃は彼女たちを残して、一時居間を離れた。茅世と由実子はある程度打ち解けたようだ。由実子は茅世の被る帽子に不信感は持っておらず、茅世の雰囲気にも警戒感はなくなっている。
 二階にあがった彼女は寝室を開けて、引き出しにあるノートパソコンを手にした。外付けされたネット回線のコードレスアンテナと電源コードも確認し六畳間へ戻る。由実子がすぐ手を広げた。彼女は文乃のノートパソコンの使い方をよく知っている。早速、電源をつけてコードを近くのコンセントに差し込んだ。
 由実子の手元を茅世がのぞき込んでいる。彼女の手がキーボード上で自在に動き、画面がくるくる変わる様が不思議なのだろう。文乃は茅世にパソコンを使う場面をほとんど見せたことがないのだ。
「文乃、ちょいといろいろインストールするけど、まずいもんじゃないから」
「どうぞ」
 メンテナンスは由実子に任せているのだから、半分以上彼女の所持物みたいなものだ。音量を上げたのか、妙な音が何度も鳴っている。文乃はノートパソコンの背を見つめながら、ようかんの一欠片を口に入れた。
「文乃、ちょっとなに他人事になってんの。こっち回ってきなさいよ」
 手で来いという仕草をされ、向かいあっていた文乃はいそいそと由実子の側に腰を降ろした。英語の多い妙な画面が広がっている。英語のサイトだと思うだけで、不安になる文乃である。
「だいじょうぶなの、これ」
「だいじょうぶに決まってんじゃない。このツールで、パソコンから電話できんのよ。しかもただで」
「ただで? 嘘でしょ」
「嘘じゃございません。すごい世の中になったんです」
「発展してんのねえ、私が使ってない間に」
「文乃さん、このツールあなたが働いていた頃からありましてよ」
 由実子が呆れながらも、手を動かす。コール音が鳴り響いた。
「本当だ、電話だ」
「だから電話なの。麻紀乃のパソコン、オンラインになってるけど反応ないな。なんでだ?」
 長く続いた電子音が途切れる。麻紀乃が応答しなかったようだ。由実乃は三度繰り返してみたが、反応はなかった。
「ちょっとメール送ってみる」
 手早く新たなウィンドウを立ち上げて、自身のメールボックスへアクセスする彼女の動きに目が追いつかない。
「送ったっと。三〇分くらい様子見るか」
「いつもこれで電話してるの?」
「ううん、基本はメール。電話は麻紀乃がしたいっていうときにしてるだけ」
「なるほどねえ」
「これ、なんだかすごい」
 二人の会話にまざって、茅世が目を輝かせて言う。
「すごいでしょ。たとえば、これとか」
 ウィンドウをさらに増やし、茅世を喜ばせる内容のものを由実子が見せていく。動画投稿サイトには、文乃も興味を持った。確かにこれはおもしろそうだ。
 三人であれこれ見ていたが、由実子は唐突に時計を探した。ソファのある壁の上にある。
「麻紀乃のとこ、時差何時間だっけ?」
 文乃に問われてもわかるはずがない。由実子以上に外国に興味はないのだ。
「知らないわよ。十何時間とか」
「それはアメリカのほうだから。……時差わかんないなあ。でも、まだ朝かも」
「朝なの! 日曜の?」
 由実子の顔が完全に呆れている。茅世は音を響かせる動画サイトを見入ったままだ。
「そうよ、あんた。日本は日出づる国なのよ、欧米より早く一日が訪れるの」
「あ、そうなの。本当にすごいじゃない日本」
 妙に感動を覚えた文乃に、なに言ってんの、と言葉を返した由実子だが、彼女もケンブリッジ天文台から何時間プラスなのかわからず、ネットサーフィンで検索した。結果、麻紀乃が住む国は、その時刻標準線の真っ直中、〇時に位置していたのであった。



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