* 下がり葉の猫、第17話 *


「米粉は良い案だよ、文乃さん。日本でも知名度あがっているけど、そういえば、欧州の自然派食材やさんとかには米粉ものの食材って案外ふつうに売ってるんだよね」
 パティシエが続けた話に、湯川が食いついた。
「あら、そうなの。なんで?」
「小麦アレルギーの人向けの対策だよ。特に欧州って基本米じゃなくてパン食の文化だろ。あっちで小麦アレルギーになると、食べられるものがすごくかぎられてくるんだよ。そうした人たちに向けてのグルテンなしの食品って、欧州はけっこう売られてるんだ。米はグルテン入ってないから、ちょうどいいんだよな。あとは、ベジタリアンみたいな感じで、グルテン抜きの食生活主義の人たちもいるくらいなんだよ」
 晴海が欧州の食生活に詳しいのは、彼がパティシエ修行で欧州に実際住んだことがあるからだ。前に湯川との雑談で「晴海がかあさんのカフェのパティシエになりたいから留学させてくれって頭下げたから、一年ってことでさせたのよ。蓋開けてみれば、二年じゃない。しかも現地で彼女までつくってたんだから、そのまま永住する気なんじゃないかと思ったくらいよ」と、話していた。文乃は海外にまったく興味はなかった人間だったが、晴海のこうした話はとても好きだった。まさか、こうした経由で海外に興味が湧いてくるとは思いもしてしなかった文乃だ。
「へえ、おもしろいわね」
「晴海パティシエの話って、本当勉強になりますよ」
 文乃が真剣に言えば、彼の母親は「よかったね、ハルちゃん。ほめてくれる人がいて」と、からかい口調で重ねる。晴海は不遜な態度で母親を見た。 「ありがとうございます、文乃さん。米粉はロールケーキでも悪くなかったから、こっちのバレンタインウィーク要用の限定ロールケーキにも使おうかと思ってるところなんですよね」
 そこはまかせるわよ、という湯川が答える。これは文乃の管轄外だ。新店舗のほうは和風がコンセプトになるため、バレンタインのことは念頭に入れていないのだろう。文乃がふと思う。
「新店舗のほうで、ちょっとしたバレンタイン企画はしないんですか?」
 湯川親子が目を向けてきた。
「もしできるのならば、開店記念とバレンタイン記念をあわせて、メニューを一品頼んだ方すべてに、金平糖の他にちいさいハートで型抜きした小豆ようかんを添えたら、かわいい気がしてきました」
 文乃のアイディアに、二人で同時に頷いたが、納得いかない様子だ。
「いい案だけど、文乃先生。また自ら仕事増やしちゃって、無理なさることになりかねないわよ」
「ようかんは、文乃さんがつくることになるだろうし。でも俺に余裕があれば、」
「いえ、実行するときは、私がようかんつくりますから! 通常メニューでは厳しいですけど、期間限定ならば一度この機会に試してみるのもいいなと思って」
「そうね。直前に余裕があればそうしましょうか。今焦らず決めないで、ね。さて、文乃先生は明日もこちらに来るんだし、今日はこれにて解散でいい? 雪降りそうよ」
 湯川が手早く話を切り上げたのは、入店客が来たことと、文乃のお人好し加減に気づいているからだろう。確かに明日は土曜日で、立ち仕事の日だ。午前中は通常どおり煎茶道教室がある。湯川の言葉に従って二人は立ち上がる。パティシエは皿とフォークを持ってキッチンに戻っていった。残りの店員にも味見をさせるのだろう。
 荷物を整理して和装用のコートを羽織る。文乃は湯川マスターに挨拶した。
「明日もよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。仲良くがんばりましょうね。くれぐれも無理は禁物よ。身体が資本なんだから」
 湯川の言うとおりだ。もう一度礼をして、店内を見渡した。店員が文乃の帰りに気づいて会釈する。ガラス扉を引いたところで、晴海の姿がガラスに映った。彼は文乃より背が少し高い。調理用の制服だから少し大きく見えるが、文乃は彼に和装を一度着付けたことがあり、それほど骨太な体型ではないと知っている。
「文乃さん、傘忘れてます」
 カフェのプライベートルームに置き忘れてたものを晴海が取ってきてくれたようだ。
「ありがとうございます」
 扉を一度閉め、彼から長傘を受け取る。外は寒いが雪は降っていない。
「文乃さん、バレンタインにようかん食べたいです」
 彼がためらいなく口にする。晴海はこれをわざわざ言いに来たのだ。文乃はその彼の率直さにほほえんだ。
「わかりました、楽しみにしていてください」
「やった。それでは、また明日」
 晴海がガラス扉を引いてくれたから、「ありがとう、また明日」と、文乃は白い息で声を返した。



 家から数百メートル前のところで、文乃の前にひとひらの雪が落ちた。頭上の景色を確認する前に、彼女は立ち止まって手持ちの傘を広げる。最寄り駅から行き道が同じ人たちは、降る雪に空を見て歩く。傘を取り出している人はいない。小降りの雪ならば帰宅までの道筋で、傘を取り出すほうが面倒だ。
 和装の文乃は、雪で衣服が濡れるほうが後々面倒になるので傘を差す。普段着として和装が定着している文乃とはいえ、雨の日の外出では洋装を選ぶことのほうが多かった。新店舗カフェの打ち合わせのときは、湯川たちが和装を望むゆえ、雨でもできるだけ小袖を着るようにしているが、行き帰りは苦労がついてきた。着物裾に跳ね返る泥が気になってしまうのだ。道路の舗装に気をつかわなければならず、通り道をすることとなり歩行時間も長くなる。
 道が完全に濡れる前に、文乃は家に着いた。敷地内は電灯がひとつもついていない。茅世には、雨戸が閉められる居間と寝室では電気をつけてかわまないと言っている。しかし、彼女はあまり明かりをつけることは好きではないようだ。元々猫と似た視力を持つ茅世だ。夜目が利くため必要ないのだろう。
 金曜日は、昼食後にカフェへ赴く。午後八時頃に帰宅できる日だ。他の曜日は、夜遅くまでカフェにいることが多かった。夕食時間が日によって違うことは、茅世に対し申し訳ない気持ちを覚えるが、帰宅が遅くなる日はかならずおにぎりを二つ置くことにしている。中身を毎度変えているので、茅世から帰宅後「今日のおにぎり昆布だった」などと報告が来るのだ。彼女のマイペースさに、仕事から帰ってくる文乃はホッとする。会社員時代も学生のときもそうだった。猫のチセは、常に家で文乃の帰りを待っていた。
 引き戸を開錠して玄関に入った。傘を閉じると、白い結晶よりも滴のほうが多かった。滑り落ちる露たちを避けて玄関を閉じる。明かりのついた家はしんと静まっている。荷物を置いた文乃は、廊下の電灯をつけて先を歩いた。茅世に顔を見せようと、六畳間の引き戸を開ける。冬の彼女の特等席はコタツの中だ。
「茅世、」
 部屋の明かりを灯してコタツ布団をめくる。中は空洞だった。暖房のスイッチすら入っていない。
「あら、今日は寝室かしら」
 文乃は寝室にいるだろうと考えて、二階へ上がる。しかし、寝室の掛け布団を取り払ったところで茅世は見つからない。
 何か、おかしい。
 妙な既視感が文乃の脳裏で揺らいだ。嫌な予感に、彼女はすぐ気がついた。正月に見た悪夢に、自分の動作がまるで似ていたのだ。
 文乃は一気に青ざめた。アスファルトに流れていた血を思い出す。初夢は、屋外に出ていた猫のチセが車に跳ねられて横たわっていた。是が非でも起こってほしくない悪夢だった。起こらないだろうと腹をくくっていた。今の茅世は猫の姿をしていない。しかし、猫でも人でも車は目の前にいるものをいとも簡単にひいていくのだ。
 彼女は二階から駆け降りた。状況が似ているのは偶然だ。あの夢は太陽のある間に起きた。今は雪降る夜だ。しかし、茅世がいないのは確実だった。理性が訴える。茅世は外出が嫌いな子だが、一人で庭に出ていたところも見たことあるではないか。思い返した文乃は、降りた廊下で深呼吸をした。
 見たかぎり、いつも被る毛糸の帽子はない。玄関に戻り靴戸棚を開ける。彼女の草履がなかった。他を探さなくても、屋外に出たことは確実になった。
 雪が見たくて、外に出たのかもしれない。
 文乃はなるべく良いように考えた。先月下旬は茅世のテンションに波があったが、ここ最近はいつもどおりの茅世だった。雪が降ると、玄関から出るか窓を開ける子だ。降るに違いない空を眺めて、外に出てしまったのだ。
 しかし、今は夜だった。文乃は彼女の容姿を思い出した。人間の五歳児と変わらない体型だった。中身は五歳児よりも理性的だし、実際は人ではない生き物だ。だが、他の文乃以外の人間はそう考えないはずだ。夜の一人歩きは明らかに危険な幼女なのだ。
 文乃は慌ててたたきを降りた。一度脱いだコートを羽織る。傘と鍵を手に取った。探さなければならないと、彼女は強く思った。誘拐、という物騒な言葉がすぐさま思い浮かんだのだ。
 玄関の外は、帰ってきたときよりも淡い夜になっていた。積もらない雪の大きさだが、視界をあいまいにさせるには十分だ。文乃は傘を差して門扉を開く。つい草履を履いてしまったが、ショートブーツなどに履きに戻る余裕はない。小袖の裾が汚れることを気にする余裕すらないのだ。
 文乃は今まで茅世と近所を歩いたことがなかった。彼女の行く先がまったく検討つかない。仕方なく初夢で見た経路を辿ることにした。歩く道に会社帰りの男性や私服の女性が過ぎていく。アスファルトは黒く濡れ、文乃の足音がかすかに響く。見渡すが、子どもの姿はない。
「どうしよう、茅世、」
 探すにも、当てがない。路地を曲がり、悪夢で見た場所に目を向けた。外灯が雪の発色を際だたせている。辺りに誰もいない。ひかれて横たわる猫もいない。少しだけ文乃は安堵した。しかし、茅世は見つかったわけではない。
 茅世は道に迷っているのだろうか。猫は嗅覚が鋭く、帰巣本能がある。人のかたちをしている他は、猫に傾向がよく似ている茅世が、帰宅に迷うとは思えなかった。どこまでが人でどこまでが猫に似ているのか、細かいところまではわからない。もはや、どちらでもないのかもしれないと、文乃は思って足を止めた。降る雪が、一層心に凍みる。
「どうすればいいの、茅世、」
 すでに茅世が帰宅しているかもしれない。鍵を持たない彼女はうずくまって文乃の帰りを待っているかもしれない。文乃は泣きたくなった。本当に、探す当てがないのだ。
 だが、立ち止まっていても事態が進展することはない。雪が降り続くだけだった。文乃は悪夢で見た道を過ぎて、角を曲がった。あと一〇分もかけず歩けば、通いに慣れたスーパーが姿を見せる。
 奥の外灯に人影が映っていた。雪で視界は不明瞭だが、傘を持った大人の影は何かを手で引いている。子どもだった。文乃は無意識に歩調を速めた。
 帽子を被った和装の子どもが、男の人と手をつないで歩いていた。
「茅世!」
 文乃は大声をあげた。彼らが立ち止まる。外灯の光がわずかに届く位置だ。
「茅世、よかった、無事で」
 安心したように、白い息を吐いて文乃が二人の前に立った。茅世しか目に入らない。茅世は甚平と半天の上に、黒のバスタオルのようなものと、茶色のマフラーをぐるぐる巻いている。文乃の大声に、怒られると思ったのか、男性側に身を寄せていた茅世がちいさく言葉を返した。
「ごめんなさい、文乃。帰り道を間違えたの」
 心配かけて、ごめんなさい。茅世が文乃に謝罪を二度口にした。確かに脈拍が速くなるほど、心配した。しかし、激怒する気にはなれない。
「よかった。いいの、無事ならいいのよ」
 そう口にして、文乃は泣きたくなってきた。寸でのところで、目頭を押さえて呼吸する。茅世が独りでいるわけではないのだ。男性は茅世を見下ろして、手を離した。文乃は彼を目にした。黒縁のある眼鏡を掛けている。紺色のトレンチコートにジーパン姿で、とても細く背が高かった。
「すいません。こんな雪の中、ありがとうございました」
 文乃は傘を持って深々と頭を下げた。
「いえ、先に見つかってホッとしました」
 彼の声は、とても落ち着いた声質だった。文乃がつい顔をあげる。彼は同い年のようにも見えた。男性は、よかったね、と、茅世に声をかける。茅世は「ありがとうございました」と言いながら文乃の手を探していた。つないだ彼女の手は、思っていた以上に温かかった。
「本当に助かりました。私は彼女のおばで倉橋と申します。あの、お借りしているタオルとマフラー、お返ししますので」
「いや、気にしないでください。家にいっぱいあるんですよ。それに、スーパーに行くついでだったんですよ」
 スーパーといえば、閉店時間はまもなくではないだろうか。文乃は時計を持っていなかったが、それを察して言葉を返した。
「すいません、こんな雪のさなかに、時間のないところを、」
 粛々とすれば、彼はいやいやと言いながら手で気にしないでという仕草をした。
「いやいや、本当にすぐ見つかってよかったです。それでは、」
 淡泊な態度で彼が告げて、くびきを返す。ただ純粋な親切で茅世を連れてくれたのだろう。文乃はどう反応すればいいのかわからないまま、茅世と帰り路に着くことにした。彼には借りたものがある。近所に住んでいるようだから、もしかしたらまた偶然に会うことがあるかもしれない。借りたものは、返したい。
「茅世、とりあえず帰ろう」
 声を茅世にかけて、文乃は一度だけ振り向いた。遠くで、彼が振り返るのを見た。互いの姿を認めたようだ。同じ動作で礼をする。
 道中で、文乃は彼の名を聞いていないことに気がついた。茅世は彼の詳しいことを知っていた。富永圭介という人で、スーパーの近所に独りで住んでいるということだった。茅世は彼の部屋まで入ったらしい。



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