* 下がり葉の猫、第18話 *


8.


 外は雪が降っている。空から落ちているのは、積もるためのぼた雪だ。今日は夕刻まで雪が止まない天気予報になっていた。雨に変わることなく晴れるのだとすれば、翌朝は雪かきで一日がはじまるのかもしれない。
 カフェのオープン日だけは晴れてほしい。
 文乃はそう思いながら、居間のコタツから窓の外を眺めていた。室内外の温度差が、ガラスの曇り具合で露わになっている。寒さ対策として障子戸くらいは閉めたいところだが、雪景色を愛する茅世のために閉ざすのは止めた。ガラス窓の白い膜に模様のような濃淡がついているのは、先刻まで茅世が曇るガラスを手で拭きながら雪を鑑賞していたせいだ。
 今日は、新店舗オープンが間近にせまる最後のなにもない休日だった。和風カフェのオープン期日が近づくほど、文乃はどこでもできる雑用仕事を家に持ち帰っていた。昨日持ち帰った仕事は、茅世が窓の雪を相手にしている間に終了した。
 淹れてきたばかりの緑茶はまだ温かい。テーブルには、パティシエの晴海から手土産にいただいたマカロンが二つ残っている。きなこ風味とごま風味、シナモン小豆の三種の中で、文乃一番好きなものは、うずいす粉を土台に使ったきなこ風味だ。
 カフェで出されるメニューはすべて決まっている。数少ない食事メニューについても、文乃は事前に家で試みていた。豚汁や山盛りサラダは極端に時間のかかる料理ではない。定番メニューは軽食ともいえたが、日替わりランチで工夫を加える予定だ。今のところ魚料理と肉料理で二種出す話になっている。付近に大学があるのを考慮してから、献立を考える必要があるだろう。最終権限はオーナーの湯川にある。
 一方、オープンの前々日より文乃も和菓子づくりに携わる。得意の小豆のようかんづくりが、カフェで一時的に扱われることとなったのだ。ようかんは薄目の流し型でつくり、ちいさなハートで型抜きする予定だ。平常指導を続けている煎茶道教室で一度披露したところ、若年層に好評だった。平日の年輩チームの一人には「和菓子で遊んで、」とさりげなく苦言を重ねられたが、他には概ね好意的に受けとめられたのだから、新店舗記念の一品として採用することに決めた。
 文乃の主催している教室は、とうとう日程変更を行なうこととなった。毎週水曜日は個人指導が二件入っていたが、カフェの出勤日に一日使われる。双方の指導は他の曜日に移動することとなり、夜の部の一件はすでに木曜日に移っていた。もう一件は、次週から月曜日の午前に移る。
 日が過ぎるほど、文乃の日常が明らかに変化していく。新店舗企画の中盤までは、文乃の出勤日もある程度曜日が決まっていたが、最近はそれどころではなくカフェへ向かう日が増えていた。オーナーと湯川と臨機応変に話し合いながら協力するという話だったが、文乃も責任の実感が増すと気が気ではなくなっていく。湯川は手が回らない部分を、文乃と他の店員が気にかけてくれる点について、とても感謝しているようだった。文乃がここまで動ける人間だと思っていなかったのだろう。信頼を預かることは文乃にとっては嬉しいことだが、疲労と責任が蓄積する。
 自分がここ数日ずっとそわそわしていることは、文乃もよく解っている。寝つきが悪くなるくらい、新店舗オープン日を迎えることに対して緊張しているのだ。それは、期待よりも恐れにも近い感情だった。自分の良かれと思って推した企画が、人々に受け入れられるか心配でならないのだ。教室を開講するときには感じなかった不安だ。会社に勤めをしていたいた頃、大きなプロジェクトに深く関わっていたときの緊張に似ている。昔から思い詰めるとおさまりが利かなくなるのだ。その性格を、文乃を昔から知る人々はよくわかっている。
 依頼主である湯川は、手を抜けともマイペースでいいのよとも言えない立場にいた。オープン直前は、それまで気づかなかった細かい問題点がぽこぽこと現れてくる。できるだけ、オープン後まで持ち越したくなかった。それに、オープン後も落ち着くまではなにかと右往左往するのは明らかだ。湯川は昨夜の打ち合わせで、文乃たちに言っていた。
『集客数よりも、長く続けることを考えるのが第一なんだからね。思い詰めたらダメよ』
 そのとおりだ。文乃は会社員時代を通じて、よく知っている。おさまりが利かないのは、それが元から文乃の短所なのだ。考えすぎになる文乃の救いになっているのは、楽観的なパティシエとの会話と日々続いている指導教室だった。目まぐるしく過ぎる日々で、とりわけ自分のリズムを取り戻してくれるのは煎茶道の作法だった。お手前で時間を優雅に使う様は、社会のスピードと隔絶している。しかし、急いでもうまくいかないことがあることも、しっかり教えてくれるのだ。玉露の作法は、急いで進めてしまうと本物の味を引き出すことはできない。世の中には、急ぐことでうまくはかどることと空回るだけがものがあるということだ。
 オープン後、文乃の日常がどう変化していくか、文乃本人にはまだわからない。権限を持つ湯川は昨日、契約の期間を延長する可能性があることを示唆した。これがもし本決まりすれば、冬限定のイレギュラーだった仕事が今後レギュラーとなって日常に組み込まれる。
 作法指導と新店舗カフェ企画という仕事の二足わらじは、文乃が考えていた以上に多忙だった。しかし、まだ会社員時代の忙しさよりも心の余裕が持てている。責任は重いが、楽しめる部分は大きいのだ。もしカフェの仕事が春から継続できることになれば、素直にうれしいと思う。
 その分、茅世と接する時間が減る日々が続くのだろう。一月から、彼女は一人で過ごす時間が増えていた。文乃が仕事の関係で外出することが多いせいだ。
 茅世は今、文乃の向かいにいる。雪に見向きもせず、千代紙を折りながら本とにらめっこしていた。頭が動くたびに、大きなケモノ耳がひょこひょこついてくる。
 彼女が真剣に見ている本の内容は、全編動物の折り紙のつくり方だ。文乃の不在中、暇にならないよう買い与えたもののひとつだった。他にぬり絵や小学生用の漢字辞典、美しい絵画が転写されたパズルなどを買って渡していたものの、継続しているものは折り紙のみだった。文乃は昨日、カフェの行きがけに動物の折り方がたくさん書かれた本とちいさめの千代紙を買った。文乃が帰宅してから、その本の虜になっている。
「茅世、外はいいの?」
 文乃は黙々と手を動かす彼女に声をかけた。テーブル上にいろいろな柄の動物たちが量産されている。五歳児並の手であるにも関わらず、彼女は丁寧な折り目をつけてそれらをつくるのだ。先刻は少し雪を眺めていたが、いつものように窓を開けはなったり外に出ようとはしない。
「出ない。着物が汚れるもん」
 茅世は目線を本に向けたまま即答した。おしゃまな女の子のような発言をしている。文乃は彼女の生み出した動物を手にして思った。手に取ったのは、うさぎだ。これをつくるために、文乃は台所までハサミを取りに行ったのだ。
「確かに、着物が汚れるのは困るんだけどね」
 茅世は最近、小袖を着付けてほしいとお願いしてくるようになった。冬は甚平に半天が定番である茅世が、そう言い出したのには、何かしら心境の変化があったということだろう。彼女が冬に小袖を嫌がっていたのは、コタツに潜って丸くなる際に帯が邪魔となるからだ。
 服装に気をつかうだけでない。茅世は髪型にも気をつかうようにもなっていた。彼女の茶色の髪は、いつも二本のおさげでまとめられている。文乃に時間がないときは、伸ばしっぱなしか、根から二本にくくっていた。ここ毎日は、かならず三つ編みにして欲しいと訴える。少しでもほつれていると、文乃の暇を縫って直してくれるようお願いしてくるのだ。女の子が容姿に気をつかうというのは、大抵異性の存在によるところが大きい。
 茅世が容姿を気にするようになったのは、男の人に助けてもらった雪夜の翌日からだ。それは一週間以上前の話になる。行方不明になっていた茅世を、保護してくれた男性だ。彼は圭介は名乗ったと、茅世から聞いている。道に迷い、彼のマンションの玄関前で文乃宅の気配を探しているところで声をかけてくれたそうだ。一人の幼い迷い子だと知れば、すぐ警察に連絡するべきかと彼は困惑していたそうだが、茅世はそれを制したらしい。帰り道はわかると説得すれば、それに付き合うと言って、茅世は彼とともに部屋に行った。彼は着替え、茅世に羽織るものを貸してくれたということだ。茅世は圭介といくらか話をしたようで、スーパーで少し買い物をしてから文乃宅に行こうということになった。彼は文乃が名乗る前から名前を知っており、茅世の賢さを信用したのだ。茅世には体型に見合わない落ち着きがあった。彼女の帰り路がわかるという言葉を、素直に信じることができる雰囲気があるのだ。
 結果的には、スーパーに行く前に文乃が彼らを見つけたかたちとなった。親切にしてくれたにも関わらず、ろくなお礼もせずあっさり帰路に着いたことを、文乃は今も気にしていた。現に家には、圭介に借りたバスタオルとマフラーがある。彼の住む位置は茅世から聞き出して場所を特定し、すでに何度かエントランス部分まで足を運んでいる。返すときに再度菓子折りをあわせてお礼すればいいと考えていた文乃だが、いまだもって会えずにいる。エントランス玄関のインターホンを押すにも、茅世は部屋番号まで覚えていない。エントランス部にある集合ポストに名前を貼りだしておらず、スーパーあたりをうろついて偶然を装うのも怪しすぎた。
 せめて借りたものは返したい。しかし、尽くす手はなく時間ばかりが過ぎていく。忙しい文乃は時おり、彼の存在を忘れてしまうことがあった。借りたものと菓子折りをいれた紙袋は、常に目に止まるところに置いている。文乃が目線を向けた、ソファの脇である。菓子折りの賞味期限は今月中だから、それまでには一度再会を果たしたい。
 それにしても、茅世を見つけてくれた人が本当に親切な人でよかった、と、文乃は改めて思っていた。子ども一人で夜うろうろするのは物騒だ。茅世が行方不明になった雪の夜、文乃は帰宅してから彼女にどうしてこうなったのか訪ねた。本人は、帰り道を間違えたのだと答えた。彼女の言い方から憶測すれば、文乃の知らないところで少なくとも一度以上外出していることがあるということだ。
 一人で外出することは今まであったのか。茅世には、重ねてそう訊いている。答えは、庭に出ることはある、ということだった。それは実際、庭で泥にまみれた茅世を発見したことがあって知っている。しかしあのときは、春紫苑の束を握りしめていた。庭に春紫苑は植えていないし、冬に咲く花ではない。
 忙しさと多くを語らない茅世に、文乃は不可思議な点を気にしないようにしていた。そもそも茅世は存在から不思議な生き物なのだ。文乃の世界があるように、彼女にも彼女の世界があるのだろう。そして、それは不可侵の領域なのだ。茅世が自分のことをあまり語りたがらないということは、文乃もあまり触れないほうが良いということになるのだろう。
 文乃のいない間、茅世がなにをして過ごしているのか、文乃には見当がつかない。折り紙のような独り遊びをしているのだろうし、そうではないのかもしれない。文乃は、茅世が一般的な五歳児の頭脳ではないことに気づいている。茅世と文乃の二人きりの世界を続けていればわからなかったことだ。他者の感想や評価を得て、茅世は思った以上に状況を把握する能力があることと、冷静に素早く物事を判断する力があった。自分がどこから来たのかも、おそらく茅世自身知っているはずだ。なんらかの理由で、文乃に真実を話していないのだ。
 だからといって、茅世を疑うつもりはない。現に彼女は、隠したい物事があったとしても、無理に嘘を重ねるようなことはしない。言えることは正しく話す。言えないことをあいまいにしているだけだ。彼女が言いたくなったときは、自ら真実を口にするはずである。
 本当は、過保護にしたい文乃の気持ちもある。茅世に外出禁止を言い渡したいところだが、結局「日暮れ前には家に居てほしい」と、それとなく伝えただけで終えてしまった。茅世が人間ではないと周囲に暴かれてしまったら、どうすることもできない。起きてしまってからでは遅い。しかし、なにか起こってしまったときの覚悟は文乃も身につけていた。
 どちらにせよ茅世を信じたかった。二年近く、それでうまく行っていたのだ。今まで以上に厳しいルールにしてしまうのは避けたい。規則を厳しくするほうが、より悪い方向に物事が進展してしまうする気がするのだ。それは漠然とした文乃の勘だった。
 文乃が三月以降もカフェに携わることになれば、茅世は毎日独りでたくさんの時間を過ごすことになる。三月までだからと現状維持を行なっていたが、文乃の二足わらじが半年も続くのであれば、いつまでも独りにしない方法も考えなければいけないだろう。
 親に預けたほうがいいのだろうか。
 もしお願いするとすれば、実家にいる親の元が一番だ。茅世は元文乃家の飼い猫だった可能性も高いのだから、茅世も気持ち的には楽だろう。両親の力を借りる大部分の意味は、文乃の安堵のためというのは大きい。恣意的なのは茅世に申し訳ないが、彼女も理解してくれるかもしれない。
 しかし、由実子と電話で話したときに言われたことも、頭に残っている。由実子には普段の茅世がどのように過ごしているのか話したことはない。一方の彼女は、新店舗のカフェを紹介するという文乃との会話の中で、茅世のことを気にかけていた。
『一緒にカフェ行くときは、もちろん茅世ちゃんも一緒だよね? 茅世ちゃんを一人で置いて外出は、さすがにちょっと危ないしかわいそうだから。どれだけ聞き分け良くて賢い子だとしても、ね』
 彼女は、当然のように言っていた。茅世が異形の者だと思ってもいないからだ。しかし、文乃にとって茅世は元ペットだ。その認識の違いを隠して、気になったことを訊いたのだ。
『……そうなるわね。でも、幼い子で一人の留守番はかわいそうだし危ないけど、それがたとえばペットならどうなの?』
『なによ、それはまた別の話じゃないの。子どもは子どもじゃん。ペットは人間とは違うし、一歳こえたらオトナなんだよ。半日くらいどこの家庭も置き去りにしてるじゃない。それに、ペットが仮に赤ちゃんだったりするのときは、さすがの飼い主も用心してなるべく家にいるもんじゃないの?』
 逆に問われてしまったことに、反論はできなかった。
 そんなこと言い出したらキリないよ、文乃。由実子が呆れたように言っていたが、確かにそうだ。文乃が猫のチセを飼っていたときは、そうしたことも気にせず仕事に明け暮れていた。茅世が元猫だったのであれば、実年齢は十五歳をこえている。中学生ならば、親が三日留守にしても危険ではない。
 由実子のように割り切りよくできればいいのに。文乃はそう思う。由実子の考えを貫けば、茅世と文乃の生活スタイルは現状維持だ。そうしたほうが、もしかしたら茅世にとっても楽なのかもしれない。心配するのは、いつだって文乃だけだ。吐きそうになるため息を飲み込み、マカロンに手を出せば、仕事用の携帯電話が鳴った。
 文乃はソファに置いていた携帯電話を手を伸ばして取り、内容を見る。最近日に一度以上届く、晴海からメールである。いつものとおり、お菓子の出来映えが添付されている。新店舗に出すかぼちゃプリンだった。
「茅世、新店舗で出すプリンの写真、見る?」
 携帯電話を持ちながら茅世に問えば、彼女はすぐ顔をあげた。
「見る!」
 折り紙づくりを放棄して、文乃のところに寄る。こうしたところは、子どもとまったく変わらなかった。茅世は携帯電話を手にして、熱心に眺めている。おいしそうという言葉が漏れた。
「これ、そこのマカロンつくった人と同じなのよ。すごいよね」
「うん、すごくおいしそう。これはかぼちゃでできているの?」
 文面も読んだようだ。文乃はそうよと頷きながら、彼女の頭を撫でる。
「カフェが開店して落ち着いたら、茅世も来る?」
 ノーと言われることを覚悟しながら訊く。茅世はあっさり「行く」と、答えた。文乃はホッした。
 その目線の先に、たくさんも折り紙がテーブルの上で動物園をつくっていた。カフェに、茅世のつくった折り紙を飾りとして提供するのもいいかもしれない。文乃はそう思って、茅世を見る。彼女が了承してくれたときは、それもあわせて晴海に返信すればいい。カフェ側も好意的に受け取ってくれるだろう。文乃は新たに生まれたアイディアを、彼の返信メールに添えることにした。



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