* 下がり葉の猫、第19話 *


 佐織からメールが届いたのは、和風カフェがオープンした慌ただしい日のことだった。時同じく、同カフェの責任者である湯川の元にも届いたようで、来週の日曜日に旦那たちと一緒に新店舗へ訪れるという内容だ。湯川はなるべく人の少ない閉店前に来てほしい旨を伝えたという。文乃は、それを楽しみにしてメールを返した。
 名の知れたカフェの二店舗目であったせいか、初日から和風カフェには人々が訪れていた。立地は最寄り駅から少し外れている。大盛況とまではいえないが、滑り出しは悪くない。そう言ったのは、オーナーである湯川である。彼女は現存のカフェをパティシエと店員にまかせて、バレンタインデー以外はこちらに掛かりきりになっている。湯川はすでに、この土地にまつわる生の情報をいくつか手にしていた。近くの大学がほぼ休講期間になっているため、大学生の通行量が四月まで少ないこと、地元の人が長らく住む土地で、主婦や子ども連れが座談会に来る可能性があるということだ。現に一店舗目のカフェよりも、年齢層がやや広い。
 開店したばかりのカフェは、はじめの一週間だけ定休日を返上して店を開けている。すっかり見慣れていた店舗でも、客が入っている状況はとても新鮮だった。給仕やミーティングがないときの文乃は、店内の様子を眺めて気持ちを安らげた。太陽の持つ明るさはすでになく、人工の暖かい光が店舗内部を落ち着いた雰囲気に仕上げている。座敷の席は人気の場所で、常に客で埋まっていた。マスターの湯川は、インテリアの配置がとてもうまい。
 居着いていた客の一人が店員を探す素振りをしたところを、通りかかった女性店員が対応した。絹井という名の彼女は、晴海がパティシエになる前からカフェの店員を勤めている。文乃と同い年でよく気が利く人だ。彼女が文乃にカフェ給仕の指導をしてくれた。
 新店舗事業参加と平行してカフェ実務を学ぶことは、文乃にとって大きな負担になっていたことは確かだ。しかし、気苦労を重ねても給仕の修行をしてよかったと、彼女は思っている。はじめ依頼を受けたときは、給仕をすることなど考えてもいなかった。しかし、これはこれで良い経験にもなった。感謝しなければいけないことだ。
 一方で、はじまった和風カフェの経営に関して、不安や焦る気持ちがくすぶっていることも事実だった。テーブル席は、日曜日の午後でも三分の一ほど空いている。既存のカフェは土日午後は満員で待ち人もいるほどの盛況ぶりだ。この差を知っていると、この客数で大丈夫なのだろうかと心配になってくる。
 そうした不安をそれとなく湯川に向けるが、オーナーの彼女はそれほどまで気にしていないようだった。むしろ、「下手に気にしてはダメよ」と、文乃を慰めてくれる。文乃はまだ自身の教室のように、生徒がいなければそれは仕方ないなどと、うまく割り切ることができなかった。カフェ経営は教室よりも規模が大きすぎるのだ。文乃は気持ちの割り切り方にも慣れず、担わなくてもいい責任までつい感じてしまう。
 責任感が拭えないのは、このカフェとの契約が延長されることが決まったからでもあった。三月までだったものが、六月以降まで延長になる。三月までならば、ある程度やりきった気持ちでいられただろう。このカフェがうまくいくかどうかを詳しく知る前に、文乃の仕事が終わったからだ。しかし、契約は少なくとも六月まで続けられることとなった。
 しかも湯川が追加して依頼してきた仕事は、さらに高度な内容だった。湯川がお願いしてきたのは、文乃が現行指導している煎茶道と着付けに関係していた。二つのどちらかでもいいから、このカフェで出張教室を開いてほしいというのである。
 カフェオープン直前に打診された件に関して、文乃は丸一日悩んだ。湯川の依頼はまさに文乃の専門分野だ。文乃が密かに広めたいと思っていた二点の日本作法の門戸を与えてくれるのである。湯川としては、カフェの独自性を生み出すのに一役買ってくれるものであり、文乃にとっては自分のしている仕事がより人に伝わるという良案であった。だが、仮にこの案件を受け入れれば今まで以上に責任重大となり、多忙が極まるだろう。煎茶道の場合は、家元と相談して承諾を得なければならなかった。
 文乃は、場所を提供してくれるカフェに多くの私物を置くことになることと、和装の着付けと煎茶道における簡略不可避な部分を湯川に説明した。実際に一度、湯川たちは文乃が指導する作法内容を見ている。湯川はその双方をわきまえた上で、改めて依頼してきた。
 文乃はまず着付け教室のみで本承諾し、後日家元と連絡をとり、了解をふまえた上で双方の出張教室を開くことを了承した。カフェではすでに、着付けと煎茶道教室開催予定の張り紙がなされている。文乃が受ける煎茶道流派の家元とは一月の初煎茶会のときに挨拶しており、文乃がカフェの企画に携わることを知っていた。彼女は了承する代わりに、電話でも同じことを繰り返した。
 お作法を教える際は、どんなことがあってもお手前の手順をを簡略しては教えてはいけない。唯一簡略していいのは、二煎を一煎に変更することのみ。教えるからにはきっちりと教え、手を抜かないこと。煎茶道の極意を湾曲してはならない。
 煎茶道の作法を正しく教えるからには、一講座最大五人が限界だ。着付けはそれ以上の人数でもかまわないが、文乃が貸し出せる小袖にも限界がある。この事情は湯川にも話していた。湯川もそれには納得してくれているようだ。
 出張教室は、四月から本格的にはじめることが決まっている。三月下旬は、先駆けて一回制のプレ指導体験をするはどうかという案もでた。どういった教室でどのような予定を組むのかを決めた後は、湯川と車で必要な道具をカフェへ運ぶことになっている。二月中に決めなければならない新たな企画に、文乃はさらに頭を悩ませることとなっていた。
 教室は、うまくいかなかったらそれでもいい。オーナーの湯川はそう言うが、文乃の本領を発揮しなければならないところである。暇ができれば、意識は常にその新企画へ向かってしまい、客のオーダーに気づかないときもあるほどだ。オーナーが先に動いてしまい、文乃が謝ることもある。すると、湯川は「あなたは、いるだけで看板だから」と制してくれる。文乃の小袖姿を指しているのだろう。客たちも文乃の着物姿を、かならず一度目に留めるようなのだ。
 変則的となる四月からのあり方を、真剣に考えなければならない。文乃は新たな仕事に頭を悩ませる。下手に教室を詰め込んでしまえば、後で辛くなるのは自分自身だ。湯川はこの件について多少なりとも期待をこめている。文乃の技量を買っているのだ。出張教室が良いチャンスになるかどうかは、文乃自身にかかっている気がしていた。
「回転もだいぶ落ち着いてきたし、そろそろ佐織ちゃんたちが来てもいい頃ね」
 湯川の声に文乃は振り返った。彼女は先ほどまで電話越しに、もう片方のカフェとやり取りをしていた。あちらも日曜日の夜は客が減る時間帯となる。マスターがいない間も本店は順調のようだ。湯川が全権を持つハーブティーの調合は毎度行なうものではなく、大半は大瓶にすでに積められている。店員だけでも、ハーブティーを給仕することは可能だ。
「そうですね。ところで今日の入り具合は、どうなんでしょうか」
 佐織たちのことよりも、こちらのカフェの善し悪しが気になる。文乃の小声で訊いたことに、湯川は悩むことなく同じような小声で返した。
「悪くないと思うわよ。それに、お茶受けのサービスは好評だし、メニューはこのままでいきましょう」
「……それなら良かったです。お茶受けが、他メニューに響かないかと少し心配になっていたので、」
「それなら大丈夫よ。あっちのカフェでそれは立証済みじゃない。お茶受けがあろうがなかろうが、ケーキが食べたい人はケーキを頼むし、和菓子を食べたい人は和菓子を頼むわよ。自分でお客さんの立場に立ってみても、そんなもんでしょう?」
 湯川の回答はどれも、文乃の心配ごとの上をいった。文乃は「そうですよね、」と、自らの杞憂に反省しつつ頷く。
「常にお客さんの立場になってみることを忘れてはいけないわよ。でも何か気になる点があれば、何でも私に訊いてね。どんな小さいことでも答えてあげるから。それにしても、お茶受けに折り紙を添えるアイディアはなかなか良いわよ」
 さりげなく褒めた彼女の視線の先に、客人がオーダーした番茶セットがあった。黒いお盆上には、茶受けの他に小さい千代紙の動物が鎮座している。茅世が最近凝っている折り紙をカフェに持ち込んで急須セットに添えたのだ。茅世は折り紙を、ただ折ることが好きなようで、完成品を持っていくことに関しては不満を抱かなかった。むしろ、店に出すという意義が見いだされたことによって、ますます折る数を増やしている。湯川には、親戚の子が折り紙を趣味にしていると伝えている。それに違和感はないようだ。
「ありがとうございます。お役に立ててうれしいです」
「アイディアが浮かぶだけでも儲けもんよね。あ、佐織ちゃんたちがやってきたわ」
 ガラス戸に、見知った面子が映っている。扉を開く前に席を立つカップルがいて、オーナーは会計レジに向かった。文乃はメニューを持って前に出る。店内に入った佐織は見慣れた小袖に気がついたようだ。
「あ、久方ぶりです! 文乃先生」
 先生という響きに、客の数名が反応した。湯川も通常は先生付けで文乃を呼ぶが、カフェ内ではさん付けに変えている。教室も開講していない店内で、先生付けはおかしいからだ。しかし佐織はそこまで考えていないようだった。それを隠して微笑み、空いている席へ促す。そして、佐織が連れてきた男性二人と重ねて挨拶を交わした。
 文乃は身長と体格がまったく異なる男性二人の顔を覚えていた。似ていないようでも、雰囲気は似ている。佐織の夫と彼の従兄である下総だ。席に着いた三名に、文乃は人数分のメニュー表を渡した。
「先生の字ですね、これ」
 佐織とは指導で一年近いつき合いになっている。感慨深く品書きを見つめる彼女とそれを温かく見守る彼らに、文乃は「お水お持ちいたしますね」と、声をかけ離れた。
 コップを三つ用意して水を注ぐ。お盆に置いて席まで戻れば、佐織はまだメニューを眺めていた。
「なんだかどれも美味しそうです。これ、ほとんど晴海パティシエの新作ですよね」
 文乃に訊く声が弾んでいる。出来上がり写真のプレートの彩りにも目が奪われているようだ。
「はい。和菓子のいくつかは、私たちが担当していますよ。でも、晴海パティシエがほぼ携わっているので、美味しいことには間違いありません。それに、これらは生に米粉を使用しているんですよ。ロールケーキはおからもはいっています」
「ロールケーキはおからもですか! すごいですね。それにしても、文乃先生からメニューの説明受けるなんて、とっても不思議な感じです。あれからこんなことになるとは、ぜんぜん予想してなかったですもん」
 彼女が無邪気に微笑む。示した過去は、年末前のカフェに文乃とともにでかけたときの話だ。あれから半年ぐらい時間が過ぎたようにも感じるが、まだ二ヶ月しか経っていないのである。それを考えると、文乃も感慨深くなるし、佐織に心から感謝したい。
「そうですね。私もこうなるとはまったく予想できませんでした。人の縁って不思議なものですね」
「私も最近まで忙しくって、あちらのカフェも行っていないんです。ウワサでは、文乃先生はあちらで店員仕事の修行したとか」
「ええ、してましたね。週に一度ですけど」
「その姿すごく見たかったです。無理しても行けばよかったなあ。そう、明日はあっちのカフェに行くんですよ。バレンタインフェアが明日までで、」
 メニューをそっちのけて会話をはじめた佐織を、夫が制した。
「佐織、オーダー早く」
「あ、ごめん。そうしたら、ロールケーキと桜のシフォンケーキと宇治のお煎茶を」
 二つもケーキを頼んだ佐織は、正面の男二人にもオーダーを促す。二人とも、佐織と同じ煎茶でいいということだった。
「それでは、宇治のお煎茶を三つでよろしいですか」
「はい、大丈夫です」
 答えたのは、下総だ。しかし、佐織が声を重ねていた。
「あと、マカロンって三種とも手土産に持って帰れますか」
「大丈夫ですよ」
「うふふ。そうしたら、会計のときに」
「いつもすいません」
 佐織は嬉しそうな表情で文乃を見る。恐縮していたのは佐織の夫のほうだった。


 三セットの煎茶を持ったマスターの湯川が、「佐織ちゃんと話しだしたら止まらないのよね」と、文乃につぶやいて席を向かったきり戻ってこない。二人とも元来喋るのが好きなのだ。文乃はここ二ヶ月ほどで、それを十分理解した。男性群は聞き役にまわっているのだが、元々聞き上手なのだろう。
 文乃はふたつ分のケーキを用意して、テーブルへ足を運ぶ。あと一時間もすれば閉店の時間になる。店内は佐織たちをふくめて数組の客が残っているだけだ。
「お待たせいたしました」
 湯川の横に立って給仕を行なう。佐織はすぐ茶器セットを横にずらした。ここに文乃が手にしているロールケーキを置けということだろう。
「ちょうどパティシエの話をしていたところだったのよ、文乃さん。それで佐織ちゃん、シフォンケーキはどこに置くの」
「それは彼の側に。わあ、デコレーションもいい感じですね。あっちより力はいっていません?」
「そうですか?」
 彼女の問いに、文乃もテーブルにケーキを置くと湯川に顔を向けた。
「うん、そうかもね、パティシエ張り切ってたもの。久しぶりにいっぱい想像力働かせてるんじゃないの。文乃さんから助言もたくさんもらってたようだし」
 早速ロールケーキを口にした佐織が、湯川の言葉にも反応する。
「これあっさりしてるけど、すごいおいしい。それで、文乃先生も晴海くんとやり取りしてたんですか」
「この二人、お菓子づくりの話になると止まらないもんね」
「お菓子づくり得意なんですか?」
 尋ねてきたのは下総のほうだった。文乃は知っている人に向けた会釈で返した。
「得意というより、好きなんです。私はお作法教室の件で、大抵和菓子をつくることが多いですが、」
「和菓子つくられるんですか。すごいなあ」
「ここのメニューにあるおはぎは、文乃先生のお手製なんですよ。それで数量限定なんですけど」
 オーナーの湯川は、下総に向け客として接する。彼はその言葉を聞いて問うた。
「いいですね。そのおはぎは、今日まだ残っているんですか?」
「残り一皿分はあると思いますよ。どうだったかしら?」
 文乃が「一皿分だけ残っています」と答えれば、彼は次にケーキを頬張る佐織に訊いた。彼の隣では、従弟が慎重に煎茶を注いでいる。佐織のオーケーで、下総は店員二人を見た。
「そうしたら、おはぎ追加でいただけますか」
「かしこまりました。文乃さん、私が行きますね」
「ありがとうございます」
 湯川は体よく場を離れることになった。新婚夫婦は夕飯食べたのによく食べられるな、甘いものは別腹だもの、という会話を繰り返している。下総が注ぐ緑茶に、文乃はお茶受けの話をすることにした。
「あの、お茶受けのお話は彼女、マスターの湯川から聞きましたか?」
 下総に話を切り出したつもりだが、佐織のほうが反応は早かった。
「まだ聞いていないです。金平糖にハート型のようかんなんて、かわいいな感じですよね」
「ありがとうございます。あちらのカフェでもお茶受け付きなので、こちらも付けることにしまして。このようかんは、バレンタイン限定なんですよ」
「あ、なるほど。ラッキーなわけですね」
 かかさず下総が言葉を重ねる。ラッキーかもしれませんね、そう文乃が微笑んだ。
「でもこの味、どこかで食べたことがある気がするんですけど」
 文乃の知る中で甘いものが一番好きな人は佐織だ。そのとおり、舌が肥えている。
「佐織さん、よくわかりましたね。恥ずかしながら私がつくったものなんですよ」
「そうなんですね、やっぱり。文乃先生のようかん絶品ですもん。ほら、洋くんも康平さんも食べて食べて」
 完全に佐織ペースで一日を過ごしたのだろう。二人は奨められるまま、手に付けていなかったようかんを口にした。
「本当だ。手間かけてつくっている味がしますね」
「本当においしいです」
「いえいえ、ありがとうございます。ちいさく型を取るために、念を入れてあんこを裏ごししたんですよ。それと、お盆に添えている動物の折り紙は、うちの茅世がつくったものなんです」
 つい自慢したくなって、文乃が紹介する。佐織は、へえ、と合づちを打ちながら、指で折り紙のキツネを持ち上げた。
「すごい器用なんですね、茅世ちゃん。そういえば茅世ちゃんは元気ですか?」
「元気ですよ。私のところに行ったり来たりしていますけど」
 我ながら妙な嘘をついていると、申し訳なく思いながら佐織たちに聞かせる。
「大変ですね、親が海外出張多い人だと」
「あ、あの子の話ですか? 結婚式のときの、」
 下総が合点をつけたように訊く。神妙な表情をしていたので、文乃の子どもだと今まで思っていたのだろう。
「そうです。一緒に連れていた女の子が、茅世という名前なんです」
「かわいいですよね、チセって響き。どう、洋くん」
「なんだよ、いきなり」
 夫婦の会話がまたはじまる。文乃は店内にかかる時計を見た。そろそろ片づけをはじめなければならない。思い出したように、佐織が「そうだ、大切なこと訊くの忘れてた」と、脈絡なく声をあげた。
「文乃先生、三月下旬から、着付けの個人指導を再開したいと思っているんです。お忙しいと思いますが、可能ですか」
 そうして文乃を見つめる。個人指導の再開ならば問題ない。ただし日程が、三月下旬以降どうなるかわからない。
「大丈夫ですよ。ただ、三月下旬からちょうどこちらのカフェで出張教室を開く可能性があって、」
 うっかり自ら口を滑らせた。すでに告知がはじまっていることだが、文乃自身から話すのは妙な気分で、言葉を止める。佐織はすぐに目を光らせて食いついてきた。
「本当ですか! 着付けとお煎茶の両方ですか?」
「今のところ考えているは両方です。まだ日程も具体的には決まっていないんですけれど……今月中には、詳細をはっきりさせるつもりですよ」
「そうなんですか。いいですね、そうしたらここでお煎茶の教室通うのもいいなあ」
「佐織、二つも教室通うのかよ」
 呆れたつぶやきをした夫が、文乃に「あ、先生の前ですいません」とすぐに頭を下げた。
「もう、洋くんったら」
「いいんですよ。まだ細かいところまでは決まっていないので、決まったときはすぐ佐織さんに連絡しますね。そのときに、着付け指導の再開日程を決める方向でもかまいませんか?」
「わかりました。楽しみにしています」
 佐織の表情は常に明るい。一方の文乃はますます追い込まれるかたちとなった。早く予定を組んで、マスターと話し合いの場を設けなければならない。そう思っていた横に湯川が現れた。おはぎのお皿を手にしている。
「おまたせいたしました。文乃さん、バトンタッチ」
 給仕と片づけの交代を言い渡された。まだカフェにはわずかながら客が残っている。他従業員にまかせてばかりはいけない。
「すいません、まだお仕事が残っていますので。ごゆっくり」
「あ、文乃さんは土日、いつもこちらにいらっしゃるんですか」
 場を去ろうとした文乃に、下総が声をかけた。
「いえ、ただ毎週土曜日か日曜日のどちらかはこちらに出ていますよ。またそのときにお越しになってください」
 文乃が微笑めば、彼は「はい」と少し満たされたような表情で返事をした。



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