* 下がり葉の猫、第20話 *


 毎週木曜日の午後は、文乃の住む家で一番活気のある時間帯だ。平日の煎茶道が行なわれる曜日である。生徒のメンバー四人はいずれも文乃の両親と似たような年齢で、同地区に住む人もいれば、自転車で通ってくる人もいる。お稽古の名にふさわしく毎度お手前に挑む人はいるが、隔週でかたちだけ作法をして、後は雑談に徹している人が半数だ。最早定例の座談会に近い状態が続いている。
 その場を提供していることになる文乃は、この状態を不快に感じてはいなかった。彼女たちは結婚や子育てなどをある程度体よく重ねた生徒たちになるから、遠慮なく物事を言ってくるし、文乃を三分の一は確実に先生として見ていない。指導側の文乃はそれでもかまわなかった。作法における、最低限のルールは守ってくれるからだ。彼女たちは会社に勤めていた頃の、性格の悪い上司や同期の女性よりも数倍親しみのあった。
「文乃センセ、今日もおいしいお茶菓子でした。来週、レシピよろしくお願いしますね」
 玄関を背にして、最後まで残っていた婦人が文乃を見てそう言った。彼女は、前田美代と言って文乃の母親と同じ年齢の専業主婦である。文乃の生徒としては古株で、一番率先してお手前をしたがる人だった。ちなみに、文乃は平日のメンバーの中で彼女しか実年齢を知らない。
「はい、わかりました。来週お渡しいたしますので」
 文乃は微笑んで言葉を返す。本日の茶菓子は、文乃手製の水ようかんだった。初めてつくった代物だが、慎重に行程を進めたおかげか、茶受けとしてだせる出来映えになった。多忙な日常の気分転換に手製菓子をつくることは多いが、成功したときは尚更に嬉しい気分になるのだ。褒めてもらえればストレスも吹っ飛ぶ。平日の煎茶道メンバーは、すでにお世辞を言ってくれるような間柄ではないから、素直に喜べる。
「それと、前田さん。来週の件ですが、もし体験教室を受ける方のご都合があわないということがありましたら、前日までにご連絡いただければ助かります」
 人工灯が空の色に勝っている中で、文乃がそう言葉を重ねた。今日の教室はいつもより終了までに時間がかかっていた。とりわけ雑談が多かったのだ。前田夫人が「友人が、煎茶道教室に通いたいと言っている」と言い出したせいもある。その友人は町内会や子どもの学校を経由して他生徒たちも知っている様子で、この話は大いに歓迎していた。
 来週からでも通いたいなら、通えばいいじゃない。私たちは大歓迎よね、文乃センセ。
 生徒の一人があっけらかんと言った台詞を、文乃は全力で制した。平日のメンバーは少々クセがある。皆が名を知っていると言っても、排他的なところもあり噂話の好きな主婦たちだ。人間関係の点においては、文乃がかまう必要のないところだが、教室の雰囲気は悪くしたくはない。前田夫人はその部分の責任を負ってくれるだろうが、先生の立場から、まずは体験教室として連れてきてほしいと文乃はお願いした。玉露の味もクセがあってお手前も好きでない限り、煎茶道は続けられる教室ではない。
「そうします。カフェのことで忙しいところ悪いですが、よろしくお願いしますね」
「気になさらないでください。ご友人が来てくださるのは大歓迎ですので、」
「そう彼女にも伝えておきます。それでは来週もまた楽しみにしています」
「はい、よろしくお願いします。気をつけてお帰りください。それでは、」
 前田は文乃の願いに納得してくれている。来週はメンバーが一人増えるという心構えを胸にして、最後の生徒を玄関で見送った。着物だけで外に出ると寒い。三月にはいったが、夜の空気は相変わらず冷たかった。厚手の黒いコートを着た前田が、薄い闇に消えていく。文乃は白い息を吐いた。
 煎茶道教室の時間が押したのは、体験入学生が増える話が長引いたからではない。文乃の携わる和風カフェの話題で文乃共々盛り上がってしまったからだ。これまで平日の煎茶道教室のメンバーに、カフェ仕事も兼務していることは話していなかった。状況が落ち着いてから話そうとしていたのだが、出張教室をはじめるという新企画のことも相まってずるずる言わずにいた。
 カフェの話題が出ることとなったのは、一生徒お子さんが夏に結婚することになったという話をはじめたことからだ。遠慮のない既婚女性たちの「センセには、イイヒトはいないの?」攻撃を受けて、家内の宝刀を引き出すように、文乃はカフェの話題を持ち出した。効果は抜群だった。正月に実家で母親たちと会話したときと同じだ。結婚や恋愛の話題は瞬く間に消え去り、カフェ話はおおいに盛り上がった。「近いうちにカフェに寄るわね」と、言って住所を聞いてきてくれた生徒もいる。
 一方、土曜日の煎茶道クラスには、すでにカフェ業務に携わっているくだりを話していた。早くも、生徒の一人が友人を連れて訪れている。四月からはじまるカフェでの出張教室にとても興味を持っているようだった。
 カフェのオーナーである湯川から依頼された出張教室の件は、内容と日程がおおまかに決まった。最終決定もたかだか三日前で、文乃は今週から準備をはじめなければならない。休日を踏み倒して仕事をする日々が続くのだ。元々公私混同せざるを得ない仕事だが、放り出すわけにはいかない。
 三月下旬にはプレ教室ということで、玉露を楽しむ会を数度行なう予定だ。四月からは当初の予定どおり和装の着付けと煎茶道の教室を行なうこととなった。どちらも来週の定休日にあわせて、教室で使用する道具をカフェのほうへ運ばなければならない。荷物の移動は湯川親子の車を使用する。息子のパティシエは喜んで手伝うとメールを返してきた。彼とは日に一往復以上のメールのやり取りをしていた。共通の趣味であるお菓子づくり話が主で、彼が中心となって切り盛りする一店舗目カフェに提供する、日替わりや試作品の写真をよく送ってくれる。文乃はそれが好きだった。バレンタインに乞われたようかんは、筒状につくったものをいくつもハートに型を抜いて贈った。晴海は異常なまでに喜んでいた。「来年くれるときは、本命になっているといいなあ」と、本気か冗談かわからない発言までされている。
 関わる人々が増え、仕事も期限が迫られるものが多くなってきた。自分の知識が資本の自営業として、この状況が軌道に乗っているはじまりの位置なのか、文乃には検討がつかない。仕事を辞めてようやく二年が経とうとしていた。茅世との出会いで二年経つのは後もう少し時が過ぎてからだ。
 茅世が単独に外出をしたのは、文乃の知る間に二度きりだ。圭介という男性に救われてから、茅世のテンションは一週間低空飛行だった。圭介にお礼を言いたい気持ちは、一ヶ月以上経っても残っている。それ以上に彼から借りたものを返さなければならない。
 そう思ったところで、文乃に近所に住んでいるはずの彼を捜す時間はなかった。
 第一文乃は家を空ける日が多く、その間一人でいる茅世の素行すら知らないのだ。茅世は外出した経緯を詳しく話さない。圭介に救われてからは、おとなしく家で過ごしている。文乃の見解が正しければ、彼女は活動を自粛しているよにも見えた。毎日コタツ周辺を生活の場にしている。教室中もコタツの中に潜って寝ているかぎりは、居間にいてもかまわないと文乃は言った。稽古場と居間は壁を挟んで隣同士だが、茅世の気持ちを尊重した。
 本来ならば、より茅世の存在に対する危機管理を徹底しなければいけないのかもしれない。しかし隠すという行為は、徹底にも限度があり、いつかは暴かれてしまうものだった。文乃は茅世を信頼することを選んだ。今までのところ、近所やこの地区の人から文乃の家で着物姿の幼女が出入りしている話は聞かない。平日の煎茶道教室メンバーの噂話などを毎週耳にするが、文乃に関する話題は出ていなかった。逆に文乃がカフェ企画参加という話のネタを提供してしまったほどだ。
 廊下についた電気を頼りにして、稽古場の状態を見る。お手前の道具がそのままにされているが、最低限の片づけは終えている。後始末は嫌がらず手伝ってくれる点は有り難かった。明日は金曜日となり、カフェの仕事に一日かかりきる。土曜日は午前中からまた煎茶道教室が開かれるのだから、道具の移動はほとんどしなくて済む。
 夕飯の準備を進めながら片づけよう。文乃はそう考えると、稽古場の扉を閉めて隣の居間へ向かった。室内は静かだ。茅世は物音を隠すのが本当に上手なのだ。
 居間の畳上に、ハガキ一枚が落ちていた。文乃は電気をつける前にそれを拾う。ソファ横の背の高い間接照明に照らされたハガキは、宛名がローマ字で記されていた。消印は外国からだ。欧州に在住する麻紀乃が届けてくれたハガキだった。年末前に、由実子経由で住所を教えたが届いたのは昨夜である。内容は新年を祝う言葉とともに、近い内に由実子と電話で話したいという旨が書かれていた。本文を読む限り元気そうだ。追記でこうも書いてあった。
 三月末まで、スペインは日本と時差が九時間違います。日本時間にマイナス九時間引いて計算してね。あと、四月からはサマータイムで八時間時差に変わるから。
 麻紀乃の在住先は、スペインだったのかと、文乃はそれを読んで昨日ようやく知ったのだ。しかしながら、時差の計算はいまだによくわからない。彼女の文面から察するに、前回由実子と連絡したときは早朝だったということになるのだろう。
 昨夜は麻紀乃のハガキであれこれ考えつつ、由実子に連絡して彼女の望むとおり文乃宅で電話する日を早々と取り付けた。集合場所は文乃が携わっている和風カフェだ。由実子は麻紀乃にメールを送ると言っていた。万が一麻紀乃の都合が悪くても、カフェ訪問の目的もあるのだから由実子と会うことに変更はない。ついでに茅世にカフェを見せることのできる良い機会にもなった。茅世はこの件に関して喜んで外出する返事をした。
 その彼女は、外国から来たハガキを昨夜から熱心に眺めていた。日本以外にも国がたくさんあり、世界は広いということを茅世はテレビなどを通して知っている。しかし、直に海外から来たものを手にしたのははじめてだったようだ。いろいろ脳裏に巡るものがあったようで、今朝は見た夢の話を語っていた。色とりどりの石造りの建物が寄り添う海沿いの町を猫の姿で歩いたそうだ。その夢をもう一度見たいと言って、コタツに潜っていたところまでは文乃も教室前に見ている。
「あら、いないじゃない」
 憶測は外れていた。文乃はコタツ布団をめくって独り言を発した。居間にはすでにいなかったようだ。文乃は屈めていた膝と腰を伸ばした。居間を見渡して部屋を出た。耳を澄ませる。鼓動が揺れた。
 茅世に外出は禁止していない。寝室に戻って眠っているのかもしれなかった。今日も小袖を着せている。コタツで丸くなるのは、着物の構成上窮屈である。文乃は気持ちを落ち着けて二階に上がった。今回は二階にはいないだろうという検討がついている。
 その予想は当たった。文乃は階下に降りて玄関のげた箱を開けた。茅世のわらじはなかった。初夢に見た茅世の事故死を無意識に思い出す。彼女は一度大きく深呼吸した。慌てても意味がないし、最悪の結末は必然ではない。最悪のことを想定することは大事だが、それが常に現実になることはない。
 一度、玄関扉を開いて家の敷地を一周しながら気持ちを冷静にした。外出禁止にはしていない。ただ、日暮れ前には家にいるようにと伝えていた。茅世はそれについて了解している。日が暮れた現在も茅世がいないということは、前回と同じように道を間違えているのかもしれない。前回のとき、茅世は力説していた。
 道に迷うのとは違う。ただ間違えただけで、帰り道はよく知っている。嗅覚などで、どれだけ知らない道を歩いていても帰路はわかる。
 文乃は彼女の言葉を信じた。だから、帰路の道を判断しそこねて少し遠回りしているのだろう。そう強く言い聞かせて、玄関に戻った。風の冷たさに、文乃はスーパーへ買い物に行くのと同等の用意を重ね懐中電灯をバッグに詰めて再度外に出た。慌ててもろくなことはない。茅世が前回辿ったはずの道を中心にして歩くことにした。
 太陽は暮れていた。真昼であればまだ安心できるのに、という気持ちにはなれなかった。悪夢で猫のチセが事故に巻き込まれていたのは、昼間のことだったからだ。帰社してきたと思われる幾人とすれ違う。外灯が遠い場所は懐中電灯をつけた。和装で人工灯を手にする姿は他者から見れば少し不思議なものだったが、文乃は気にしていられなかった。
 ある程度近所を確認して、次は交番に行ってみることにする。前回の経験から、茅世は人間の子どもという見識がされるようだ。家で文乃と二人きりでいるとき以外は、かならず身につけている帽子さえ外されなければどうにかなるのだ。
 物騒な世の中になってきているというが、文乃住む近所周辺で悪い話は聞いたことがない。むしろ、落とした財布が届けられたと聞くほどの治安だった。文乃は悪いことを考えないようにして、道を歩く。どの道にも変化はない。スーパーから圭介の住んでいるらしきマンションあたりを見て、それでいなかったらどうするか。警察は当然だが、それ以外に探せるスポットを文乃は考えながら進んでいた。前回圭介たちと出会った場所は見知らぬ人が行き交っている。スーパーの閉店時間までには、まだかなり余裕がある。
 早く茅世の姿が見たい。二度目のことに、文乃は茅世を外出禁止にするべきか本気で考えだした。それよりも、これから外出するときは紙にその旨を書いてもらうべきか。それを茅世が受け入れるのかはわからない。文乃の脳裏が次第に混乱していく。まず彼女の姿が見たかった。
「すみません、」
 不意に遠くから大きな声が響いて、文乃は反射的に振り返った。道は人の往来がある。気を揉んでいて反応してしまった自分に、文乃は恥ずかしくなった。しかしそう感じたのは一瞬だった。その声は文乃に届けるものだったのだ。
 外灯の真下を早足で過ぎる男性の姿に、文乃は慌てて駆け寄った。
「圭介さん!」
 彼から名を名乗ってもらっていない身上だった文乃だが、そう名を側に立った。彼は幼子を背で担いでいた。茅世は圭介の首に顔を埋めたまま動かない。ぐったりしている様子に文乃の血が引いていく。
「茅世、すいません茅世は、」
 背の高い圭介を見上げれば、彼は口元を大きなマスクで覆っていた。かけている眼鏡にあたりそうだ。
「彼女片足ケガしてて、少し熱あるみたいで、」
 鼻声の彼は口にした言葉の語尾を咳でかき消した。文乃は茅世だけでなく圭介の体調も優れないことを悟った。何時かは知らないが、定時に退社した人間しか家に帰ってきていない時間帯だ。
「あなたも大丈夫ですか? すいません、本当に、」
「いえ、大丈夫です。ちょっと風邪を引いたもので。この子のケガは、僕の家で止血したので大丈夫だと思います」
「本当に、この度もすいませんでした。本当にありがとうございます」
 文乃は深く頭を下げた。また圭介が茅世を救っていたことを心から安堵して感謝した。彼ならば、耳と尻尾は別として茅世のことを知っている。圭介は根から謙虚のようで、気にしないでください、と、口調を変えずに言い、咳を繰り返した。
「むしろ、僕に担がれたままだと、この子に風邪が移ってしまうと思うんで、」
 圭介の言葉に、文乃は慌てて彼の傍に寄る。
「体調優れないときに、すいません。重いですよね。茅世、少しだけ起きて、担ぎかえるから、」
「いいですよ。僕が家まで連れていくので、」
 彼の申し出に、文乃はどう反応すれば良いのかわからず「そんな、風邪引いていらっしゃるのに」と返す。圭介はうなる茅世を抱え直すように背を揺らした。
「僕が運びます。道案内よろしくお願いします」
 その意志の強さに、文乃はおとなしくお礼を言った。彼が歩き出す方向を文乃が指示する。どう言葉をつなげばわからない文乃は、暗がりの道で茅世に顔を向けた。圭介の背は百八十を越しているだろう。茅世が遠い。
「ちせちゃん、つらくない?」
 最初の曲がり角を抜けて、彼が茅世に声をかけた。体調の悪そうな茅世は、文乃がした声かけのときと同様に小さくうなる。しかし、「だいじょうぶ」という、かすかな声が文乃にも届いた。
「ふみのさんに、会えたよ。となりにいるからね」
 圭介の声はやさしかった。茅世の反応はないが、文乃には彼に回していた腕が力んだようにも見えた。
「茅世のこと、本当にありがとうございます。あの、この角を右です」
 文乃の言葉に彼がうなづく。咳を幾度かして声を出した。
「早い段階であなたに会えてよかったです。彼女は見つけたときからこんな状態だったので、」
「本当に助かりました。ケガしてるんですよね。どこで見つけましたか」
 訊きたかったことを文乃は、無意識に強い口調で尋ねてしまった。彼は淡々と答えた。
「前と同じで、僕の部屋の玄関外で……片足がケガして血がでていましたけど、すごいものではなかったですよ。見つけたときはまだはっきり会話できていたんで。熱がでてきたのか……僕の風邪が移っていたらスイマセン」
 少し苦笑混じりの返答に、文乃は「いえいえ、助けていただけただけ本当に助かっているので」と、言葉を返した。圭介の自宅前で発見されたのは初耳だった。しかも、前回もそうだったという。圭介のマンションはオートロックだったはずだった。
「今日はちょうど早く帰宅したので、彼女を早く発見できてよかったです。今回はケガしていたから」
 茅世のことを不可解にも、面倒だとも思っていないようだ。それと同時に、圭介自身が文乃に自己紹介をしたことはないのだが、文乃が名を呼んでも気にしていないようだった。
「圭介さん、ご面倒かけて本当に申し訳ないです。体調のほうが優れないのに」
「いや、これは僕の自己管理の問題なんで。この道はまだまっすぐですか」
「あ、二つ目の角を左で、あとは道なりに行けば私の家です」
「思っていたより遠くないんですね、僕の家と」
「私の最寄りのスーパーも、あそこなので」
 本当に近所なんですねえ。鼻声でしみじみとつぶやく。彼の声色は低く、人を安心させるような音程なのだ。文乃は茅世の様子を見ながらも、もう少し彼の声を聞き確かめたくて口を開いた。



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