* 下がり葉の猫、第21話 *


「前回もありがとうございました。スーパーは間に合ったのでしょうか?」
 言葉にしたもののろくな話題は出てこない。文乃は黙っていたほうが良かったのかもしれないと思い返した。
「それは、大丈夫でしたよ。今日はスーパーは必要ないので、家帰っておとなしく寝ます」
 彼の言葉は咳が続いた。文乃は本当に申し訳ない気持ちになった。茅世のことも心配だが、ケガに関係した発熱だろう。家に着いてから状態をしっかり見ればいい。文乃の自宅の通りに来ていた。
「あの、もしあれでしたら、おかゆなどをおつくりすることもできますので、是非、」
「あ、気にしないでください。僕はすぐ帰るんで」
「いえ、すぐ用意できますから。次の家が私の自宅です」
「いやいや、あ、ここですか」
 会話の途中で家に着いた。文乃は門扉を開け、鍵をバッグから取り出した。後ろから背の高い痩身が続く。茅世は眠っているようだった。
「どうぞ、散らかっていますが、」
 そう言いながら、開けた玄関に明かりを灯し招きいれる。スリッパを彼の前に置くと、圭介は拒否することなく靴を脱いだ。
「彼女はどこに寝かせますか?」
「和室の居間です。案内します」
 文乃は廊下を進んで引き戸を開けた。居間に照明をつけた。圭介は側にソファに気づき、ゆっくり腰を下ろす。
「ちせちゃん、おうちのソファだよ」
 降りるよう促すと彼女の腕は圭介の首からすぐに離れた。横になった茅世に、文乃は近間にあったブランケットをかける。
「それでは、」
 帰宅する合図を出した圭介に、文乃は姿勢を正して引き留めた。
「待ってください、お礼になにか、」
「気持ちは嬉しいですが、今日は家に帰ります。風邪を移したくないので。ふみのさんはちせちゃんの様子を見ていてください」
 そちらのほうが大事ですよ、という圭介の言い分は最もだった。廊下を出る彼に、文乃はどう引き留めればいいのか慌てる。またお礼をする機会を逃してしまう。
「あの、少しだけ待っていただけますか。前にお借りしたものをお返しいたします」
 その言葉に彼は反応した。「そうしたら、玄関で待ってます」と文乃に言って、廊下を歩いていった。彼がそう言うのだから、玄関で待ってくれるのだろう。ソファ横にあった紙袋を持って、文乃も素早く廊下から台所に向かった。袋の中には、前回借りたバスタオルとマフラーがある。それに買い直した菓子折り付きだ。前のは賞味期限が切れる前に、教室で提供した。和菓子で有名なメーカーだ。
 それだけに足りず、文乃は台所の棚からタッパーをいくつも取り出していた。圭介が一人暮らしなのは知っている。恋人がいるかどうかは知らないが、普段は一人で生活していることは茅世の情報から確かだった。何かしら、身体にやさしい料理を渡したかった。
 テーブルと冷蔵庫の中で見つけたのは、五目煮と蓮根のきんぴらごぼう、大根と人参のなますに茄子の赤味噌炒めだった。他にも焼き魚をほぐしたものや黒豆などもあったが、文乃はこの四品を手早く詰めた。布巾でくるんだ上に、ビニール袋で包む。割り箸を入れて紙袋へ丁寧に収めた。
「お待たせいたしました」
 玄関先に座る圭介が振り向いた。スリッパは正しく整えられている。紙袋は少し重かった。彼が立ち上がった。
 たたきの上では、文乃も彼と同じような背丈になった。
「このたびも、うちの茅世を保護していただきありがとうございました」
 本当はもっとちゃんとお礼をしたいが、圭介の気持ちを優先しなければ意味がない。文乃が差し出した紙袋を受け取った圭介は、視線を下に落とした。
「貸したもの以外にもなんか、いろいろありがとうございます」
 彼は素直に受け取った。その様子に文乃はホッとした。頑固で真面目な性格かと思ったが、口元を緩めた表情は実に穏やかそうな男性だった。
「つまらないものですが、全部食べ物です。包装した下にありますから、」
「わざわざありがとうございます。一人暮らしなので助かります」
 圭介が一人暮らしであることを、文乃はすでに知っている。喜んでくれたことに安心した。
「それでは、ちせちゃんのこと頼みます」
 彼が重ねた言葉に、文乃はうなずいてたたきを降りた。
「帰り道は案内しなくても大丈夫ですか」
 草履を履いて、げた箱上に置いていた鍵を用心して取る。
「このあたりは歩いたことがあるので、大丈夫です。来た道を戻るだけですよね」
「そうです。お送りするところまでできなくて、すいません」
 門扉のところまで、二人で降りた。文乃は玄関を結局閉めなかった。圭介が咳込んでから言葉を返した。
「とんでもない。このいただきものだけで十分すぎるほどです。ありがとうございます。おやすみなさい」
 開いた門を圭介が通過した。文乃の家へ向いて会釈する。
「圭介さんもお大事になさってください。お気をつけて、おやすみなさい」
 深く頭を下げた文乃は、彼の姿が見えなくなるまで門扉から離れられなかった。


 茅世の体調は、圭介に救い出されてから今日に至るまでぐずついたままだった。あの夜から数日経ったが、文乃は仕事の関係で彼女に終始付き添うことはできず、気を揉む日々が続いている。いっそ両親にすべてを話して、彼女の様子を見てほしいと頼みたかったが、それは茅世が全力で拒んだ。
 実際、茅世が訴えている症状は微熱と倦怠感だけだ。風邪のようではなく、単純に疲労かけがに関連したものであるようだった。片膝にあったけがは、すでにかさぶたに変形している。しかし、両足のいくつかに擦り傷があった。茅世は転んでできた傷だと言っている。心配しないでほしいと訴えてきた彼女を信じて、文乃は仕事を優先した。今日は、昨日に比べて家の中を歩く元気がでてきているのだから、明日はもっとよくなるはずだ。
 茅世のテンションは前回と同様に低空飛行でいる。圭介に拾われたことと、文乃の約束を破ったことをひどく反省しているようだった。落ち込んでいるところをかわいそうだったが、文乃は強くお願いした。日暮れまでには帰宅することに重ね、外に出るときはかならず外出するとメモ書きすることを追加した。茅世もこの約束を飲んだのだから、実際に実行してくれると信じるしか文乃にはできない。
 反省をしている茅世がいる一方で、文乃も似たような後悔を繰り返していた。圭介との接し方に反省すべきが多かったのだ。借りたものを返したことはいい。しかし、あわせて詰めた食品は、文乃からすればもっと良い品があったのではないかと思ってしまうのだ。第一、彼の好きなもの嫌いなものまで知らない。勝手に手料理を押しつけて良かったのか、文乃は思い悩んでいた。しかも渡した手料理の大半は、昼ご飯の残り物である。文乃たちが処理すべきものを、感謝すべき人に渡したのである。その上、圭介の連絡先を知るどころか自らの連絡先も教えていなかった。知っているのは住所だけである。
「ほんと、なにやってんだろ私」
 慌てていたのだろう。文乃はため息をついた。今日の天候にも、大きく息を吐きたくなる。一日中雨だった。雨の日の出勤は、大抵洋服にしている。カフェに着いて備え置いていた着物に着替えるのだ。しかし、今日は午前中に着付けの指導教室があった。和装のままでかけるか考えた結果、それは止めることにした。激しい雨でなければ、一度和装を脱いでカフェに行ってまた着替えて、ということをしなくて住んだはずだ。
 帰宅時間の夜になっても雨は止んでいなかった。最寄り駅についた文乃は、改札口を離れて人々と同じように和装時共有の雨傘を差した。真っ直ぐ家に帰る。
「ふみのさん、」
 心地よい声色に文乃はすぐ振り返った。一歩屋根から外れたところで視線をあげれば、傘を差していない圭介がいた。
「あ、圭介さん」
 突然のことに文乃は目を見開いた。ちょうど彼のことを考えていたところだったのだ。
「こんばんは、今お帰りですか」
 そう言葉をつむぎながら、彼は傘を取り出す。文乃は人々の邪魔にならないよう彼の前に立った。
「こんばんは。圭介さんもですか」
 彼は背広に革の鞄を持っていた。差した傘は紺色だ。通勤者たちより少し高い位置にある。今まで幾度となく使っていた最寄り駅だが、こうした偶然ははじめてだった。
「そうです。奇遇ですね、帰り道はこちらですか」
「はい、途中まで一緒です。風邪は大丈夫でしょうか」
 二人の考えは一致していたようで自然に歩調はあった。文乃も圭介も互いの家の位置を知っていた。途中までは道が一緒である。文乃は傘の位置を少し上にした。彼の背丈が高いからだ。
「なんとか治ったみたいです。ちせちゃんはどうですか」
「回復してきています。風邪ではなかったようで……仕事であまりかかりきりになれないんですが、明日は仕事が昼からなので」
 茅世の体調は依然あまり優れないと言えば、彼はどう反応するのだろう。文乃は一瞬あざといことを本気で考えた。結局口にはしなかったが、彼女は自分自身の脳内に少し驚いていた。
「そうですか。実は、ふみのさんの洋服姿はじめて見たので、はじめ声かけるべきか考えたんですよ」
 彼は文乃の心中に反して会話を続ける。思いの他、話すことが嫌いな人ではないようだった。
「声かけていただいてありがとうございます。普段は和装のほうが多いんです。今日はかなりの雨だったので、洋服なんです」
「そうなんですか。今日は一日中雨でしたね。子どもたちが不満がって大変でしたよ」
 圭介が滑らせた言葉に文乃は注目した。仕事かプライベートか変わらない。しかし、文乃は彼の子どもを扱う様が手慣れていることに気づいていた。茅世の接し方がとても自然だったのだ。
「あ、僕は小学校の教師をしているんです」
 すぐに疑問は解消された。
「なるほど、すてきですね。大変だと思いますが……私は日本作法の教室を開いているんです。それで、和装が多いんです」
 文乃は律儀に自らの職業もあかした。お互い職業柄に興味を持って会話が続く。圭介のことを、文乃は少々気難しい性格かもしれないと勝手に考えていた。しかし、実際は違うようだ。会話をするのが苦ではない。あっと言う間に、分かれ道が見えていた。
「圭介さん、あの、今度、」
 タイミングを少しはかって、文乃が圭介の気を引いた。岐路で立ち止まる。
「夕食に遊びにきてください。この間からのお礼と、あと茅世も喜ぶので」
 以前からのことを考えると、そうしたことは拒否するかもしれない。覚悟の上だが本当にお礼がしたかった。そして前回残り物の料理を渡したことを思い出した。そのことを言おうとする前に、圭介が「そうですね。機会があれば」と、本心よくからない返答をした。
「この前もらった煮物とか、本当においしかったです。あ、入れ物返さないとですね」
「いえいえ、なんか残り物みたいなもので……おいしかったのでしたら何よりです。全部今度会うときでいいので。えっと、連絡先、ちょっと待ってください、すいません」
 この時を逃したらおしまいだ。その気持ちで文乃はバッグから手帳を取り出した。付箋紙にあらかじめいくつかメールアドレスと電話番号を書いたものを備えている。今月中に名刺をつくるつもりであるが、今はこれが代用品だ。
「荷物大丈夫ですか」
「大丈夫です。あの、これ私の連絡先です」
 雨で濡れる中、文乃はちいさなピンクの紙切れを圭介に渡した。彼はお礼を言って受け取る。ポケットの中に収めた。雨傘に当たる滴は強く、立ち止まる時間が長いほど濡れる身体の面積は広くなる。
「それでは気をつけて帰ってください。また、」
「はい、圭介さんも」
 この天気でなければ、もっと立ち話ができた。文乃はそう思いながら彼とは違う道を歩いた。茅世が文乃の帰宅を待っていることは確実で、文乃はこの道中、圭介が連絡をしてきてくれることだけを願っていた。



... back