* 下がり葉の猫、第22話 *


9.


 休みとなった土曜日は、例年より寒い三月が本来の気候を取り戻していた。午前中の稽古を一時までに終え、簡単な昼ご飯と夕ご飯の準備をして茅世を急かす。茅世への小袖着付けは教室の前に、彼女をたたき起こして行なっていた。最近毎日のように茅世自身で着る着物の柄を決めているが、今日は文乃の管轄で物事が動く。被る帽子に一番不自然ではないものを選んだ。午後は外出するからだ。
「茅世、行くわよ」
 草履を履いた文乃が振り返る。茅世はちいさな布の包みを手にして廊下を小走りに向かっていた。煎茶道で文乃が使っていた袱紗のお下がりだ。中には作法に関係ない、折り紙と花柄のメモ用紙や黒のペンが入っている。玄関を開ければ、門扉の側に横付けされた停車中のタクシーがある。
「待って、文乃。うしろの帯、」
 たたきの高さを台に、茅世が帯の出来具合を気にしている。あまり崩れていないが、文乃は手を出して様子を見て大丈夫だと茅世を安心させる。黙視だけでは茅世が満足しないのだ。最近は特に着崩れを気にするようになっていた。
 茅世が外履きになって家を出る。文乃は家内を玄関から確認したのち鍵を閉めた。綺麗な青い空が続いている。太陽が出ている間は、道行きコートを必要としないだろう。夕刻までには帰宅するし、行き先は文乃の勤めるカフェ先のみだ。本日は休暇日で、明日は丸一日従業員として働く。
 カフェの最寄り駅で、由実子と待ち合わせをしていた。茅世と由実子に携わっているカフェを見せる。それは文乃にとって最も気持ちが盛り上がるイベントが果たされるということだった。待ち合わせは三時半。佐織の結婚式同様に用心して駅までタクシーを使う。
「タクシー……」
「茅世お願い。先に乗って、ね」
 門扉の前で躊躇した彼女を文乃は労るように促す。茅世が乗用車を苦手としていることは重々承知している。佐織の結婚式で往復した際に使ったことで、より嫌悪感を抱いてしまったようだ。しかし、乗らないわけには行かなかった。渋々乗車する茅世に「帰りは乗らないから」と慰める。実際、何度も茅世の外出で一悶着している現状で、タクシーを使い続ける意味はないのかもしれなかった。
 一週間以上前の話になるが、茅世はまたも圭介に助けられた。負傷していたところも治り、極限まで落ち込んでいた茅世の気持ちも回復している。文乃も多忙を極める最中で起こったことに、自身の体調まで崩しかけた。風邪にならなかっただけ幸いだ。今は病気になっても静養している場合ではない。咳をしていた文乃に茅世は過度の心配をしていた。文乃とは別のところで、何かに一喜一憂している彼女にこれ以上の心配をかけたくない。
 茅世が文乃の周囲とは違うところで活動していることは、この半月の間でわかってきた。前回のように外への活動を自粛するのかと思いきや、数日前に置き手紙があったのだ。外に出る。ひらがなで簡潔に書かれたメモは、着付け教室の準備中に発見した。彼女は日本語の書き文字として、ひらがなだけは習得していた。その文面のとおり彼女は家の中にいなかったのである。まもなく教室指導がはじまり、終えたときには茅世が二階の寝室に居たのだから真相はわからない。しかし文乃と約束したとおり、外出時にはメモ書きをする旨を実行したことは事実だった。
 文乃は、どこで、何をしているのか、ということを訊くことはしなかった。茅世はおそらくはぐらかす。それだけの考える力を持っているのだ。彼女が本当に元猫であったのだとすれば、文乃とは十六年近いつき合いになる。体格は子どもだが、子どもの扱いをしたくはなかった。第一に茅世は文乃の周囲を一切干渉しようとしてこなかった。文乃と外に出たがらなかったのも、文乃の生活する世界を干渉したくなかったからなのかもしれない。
 行き先を和装姿の女性に告げられた運転手が、ナビを頼りに大通りへ向かう。目的地は由実子との待ち合わせに近い駅の一つだ。文乃宅の最寄り駅と違って快速電車も止まってくれる。
「あと何分乗るの」
 茅世がうつむいたまま、辛子色の袱紗をぎゅっと握りしめている。文様が少ない薄紅の小袖に、小物の彩が重なっている。どちらも花の色だ。
「前よりかは遠くないわよ。すぐだから、」
 文乃はそう言いながら、茅世の身を寄せる。こういうときの彼女は本当に五歳児の子どもにしか見えない。文乃の知らない世界を彼女が持っているようには見えないのだ。そして、茅世が単独で外へ出かけている事実があるのにも関わらず、近所周囲から和装姿の幼女についての目撃情報が一切ないのが不思議だった。隣宅の大山夫人とは、ゴミ置き場でよく会うものの、彼女からもそうした話題は一度も出たことがなかった。偶然が毎度起きているのだろうか。文乃が考えられる想像は少ない。彼女が外にいた事実を知れたのも、圭介が救ってくれた件がなければわからなかったことだ。いつから彼女がこうしたことをはじめたかもわからなかった。茅世に訊けば、答えられる範囲で教えてくれるだろう。しかし、今はまだ訊くのにふさわしい時期でもないように思えたのだ。
「駅が見えたわよ」
 文乃が彼女の耳の位置でささやく。外で道を間違えた茅世を介抱した圭介と、駅の帰り道で再会した偶然から一週間は経過している。文乃が教えたメールアドレスへ連絡はいまだなかった。彼の電話番号くらい訊いておけばよかったと思っても後の祭りなのだ。



「おお、久しぶり二人とも!」
 あらかじめ指定された改札口を出れば、すぐに気づいた由実子が声をかけてきた。
「ユミ、ごめん。ちょっと待たせた」
「こんにちは。ユミさん」
「いいよ。茅世ちゃんも元気そうだね。帽子姿も健在で、」
 待ち合わせ時刻を少しすぎていたが、由実子は気にせずお気にいりの茅世に声をかけてきた。しかし彼女の発言語尾に、茅世が硬直した。帽子の中には人間ならざる形の耳がある。大晦日に悪酔いした由実子はこの帽子の中身を見ていた。記憶を消失しているはずだと文乃が少し緊張した面もちで由実子に言葉を返した。
「ユミ、それって、」
「あ、この大きいバッグはね、さっきまであるイベントに参加してて、そのグッズなのよ。気にしないで、泊まる気はないから。とりあえず歩こうよ」
 文乃が慎重に訊こうとした物事を、由実子が勝手に解釈して話を進める。今日はカフェの後に文乃宅へ戻ることになっている。由実子の帰宅が遅くなることは確実だったが、一人暮らしの彼女には泊まるという選択が端からないことは知っていた。終電は遅くまであって、十分帰れる距離なのだ。本人が今まさにそう話したのだから、泊まりはしないだろう。それに、茅世の耳の件は知らないようだとわかった。茅世は人の多い駅界隈で文乃の手をしっかり握っている。由実子が茅世の耳を知っているのがどうか訊くことは止めにした。
「荷物重くない? 一〇分くらいは歩くけど」
「だいじょうぶよ、慣れてるから。道案内よろしく」
 それにしても。由実子がそう続ける。
「文乃痩せた?」
「え? 体重計乗ってないからわからないけど」
 それ以前に、文乃は彼女の発言を疑う。和装から体型の変化を見るのは難しいことだ。人の往来を避けながら、由実子は肩にかけた大きなバッグを持ち直した。
「痩せたというより、やつれた? 仕事すっごい忙しいんじゃない? 大丈夫? 疲れ溜まってない?」
 私より動き回っている気がするんだけど。由実子にそう言われ、「やつれる」という言葉の悪さに反論しようとした文乃は考えを改めた。動き回るといってもカフェと自宅の往復が基本で、他にカフェ本店に出向いたりどうしても断れない煎茶道流派のお煎茶会や、市役所などへの事務手続きが最近の行動範囲だ。道中で買い物をする余裕もあるが、以前に比べれば圧倒的に休みは少ない。しかし、カフェの新製品試食やお煎茶の茶受けで甘味は摂取しており、食事も茅世がいるおかげかしっかり三食摂っている。
「忙しいけど、まともに働いていたときよりかは余裕あるわよ」
「あんた、働いていたときは忙しいの度を超えすぎて、最後のほうなんか能面みたいな顔だったじゃない。あれは極限状態なんだから、あれと比較しちゃだめでしょ」
 呆れ混じりの声に苦笑ながら賛同する。文乃は行く道を指しながら、「今の仕事は、楽しいのよ」と、当時とまったく異なっていることを話した。デメリットは、いつまでカフェに携われるかは、四月以降の出張教室次第という不透明さと、基本として湯川マスターの独断で物事が進んでいくという点だ。湯川が公平に人の意見を聞くことができる人間であるところを、文乃は信用している。しかし、人という生き物は気まぐれでもある。どこでどう気持ちに変化が起きるかわからない。会社勤めをしていたときに、信用していた人間に手のひらを返されることは数度あったのだ。人間不信にまではならないが、ビジネスになったときは用心するクセがついていた。それも、文乃自身が自分が生真面目で断れない性格だと知っているからだ。
 由実子も、文乃の性格を知っているから心配したのだろう。文乃が三ヶ月以上湯川を見たかぎり、そういったタイプでないことはよくわかっている。
「楽しいなら、それに越したことないんだけどさ」
「そうよ。この道を右に入ると通りにはいるわよ」
「はいよ。その一方で茅世ちゃんさ、」
 言葉を止めた彼女が歩きながら茅世を見た。
「なんか大人っぽくなった気がするんだけど」
 文乃は、自身が称された以上の感想を持ちだした由実子にすかさず「どこが」と返した。茅世も顔を見上げて少し驚いた表情をしている。茅世の背丈も体重も、この約二年間一切変わっていないのだ。それは、彼女の衣服を洗濯し着付けている文乃が一番よくわかっている。
「どこって……ううん、むしろ、色っぽくなった? いや、まさか、」
 言ってすぐ、由実子は自分の発言を疑う。文乃も強く否定した。
「まさか、それはありえないでしょ」
 五歳児の体型に、色っぽいという単語は見合わない。身丈年齢に沿わない評し方だ。二人は歩行速度を下げて茅世を見た。彼女は戸惑った表情をしていた。
「茅世は最近おめかしするのが好きなのよ」
「茅世ちゃん、でもすごく雰囲気変わった気がするんだよ。いい感じで可愛くなったというか、綺麗になったというか、ね」
 由実子の褒め言葉に、茅世は戸惑いながらお礼を言う。
「ありがとうございます」
「悪いのに引っかかんないように、気をつけてねえ」
「はい。気をつけます」
 文乃以外の相手には、かならず敬語で返す茅世が由実子には可愛くて仕方ないらしい。このくらいの歳の子の敬語って、たまんないよね、と、力強く問いかけられた文乃は、由実子の可愛いと思うツボがよくわからないと呆れたように返した。


 文乃が携わる和風カフェに着くと、二人は興味津々でガラス窓の扉を押した。和風ベースだが、室内の様子が見えるようガラス窓とドアの設計になっている。和風すぎると敷居が高そうに見えるからという配慮があった。
 本店は先月行ったんだけど、ここは文乃と行きたかったからずっと残しておいたんだよ。由実子の発言を聞きながら店内に入る。二人の和装姿に、客だけでなく店員も目を留める。文乃よりも茅世に反応したようだ。
 茅世は人ゴミの多い道に言葉少ない様子だったが、和風カフェに入った途端生き生きしていた。基本は外より室内が好きな子なのだ。仕事仲間に案内されるという不思議な気分を味わいながら、たまたま開いていた畳の席に通される。三人は履き物を脱いで、メニュー表を先に受け取った。
「これ、文乃の字だ」
 茅世が、ファイルのようなメニューを開いて声をあげる。感心したように由実子が続けた。
「あ、本当だ。達筆だねえ」
「前つくってたものなの?」
「そうよ。茅世覚えてたのね。ケーキのとお茶のものがあるから、好きなの決めてね」
 文乃の向かいに座っている二人は、お茶とデザート双方のメニュー表を互いに見比べてどれにしようとか言い合っている。茅世も甘い食べ物になれば、表情が冴えて文乃に実物ケーキの様子や味の雰囲気を訊いてくるのだ。デザートの中身は晴海に付き合ったせいで、湯川たちよりもよく知っていた。
「どれもおいしそうで、決められないの」
 耳を隠していなければ、絶対に耳がふにゃりと垂れ下がっている発言だ。
「茅世ちゃん、あたしコレ頼もうと思ってんだけど、半分こする? したら、もういっこ別々に頼んで、」
 二人で三種のデザートを食べる案を由実子が茅世に投げかければ、彼女はすぐに受け止めた。そうしようという話を二人が詰めはじめた向かいで、文乃は店舗を見回した。土曜日の午後がやはり一番人が多い。しかし湯川は、近所の大学が平常講義をはじめないかぎり、客足は把握できないと言っていたことも覚えている。湯川は今日もこちらのカフェにいるはずだ。
 手が空いたのか、寄ってきたバイト店員に挨拶する。大学生のバイトで、すでに本店カフェで数ヶ月下積みをこなしている。希望してこちらに来たという話を聞いた。彼女と数度言葉を交わして由実子たちを見たが、彼女たちはまだオーダーに時間をかけていた。店員の姿を見送って、文乃が声をかける。
「まだ悩んでるの、あなたたち」
「今はお茶のほう。タンポポコーヒー試したいけど、リスクが高そうなのよねえ」
「ユミも好きよね、食べ物の冒険。茅世は何を飲むの?」
「ジャスミン茶にする。文乃は、」
「私もよ。とりあえず、先にオーダーしましょう」
 メニュー表に顔を突っ込んで悩む由実子をよそに、もう一度店内を見る。マスターの湯川がちょうど表にでてきたところだった。目があって彼女が向かってくる。
「こんにちは、文乃先生。なんだか不思議な感じね」
 苦笑混じりにオーダー表を持って、畳席の側に来た。言った内容は文乃も同感だ。客としてこのカフェを訪れたのははじめてだった。
「こんにちは。不思議ですよねえ。特に私は仕事に関係なく和服ですし。そのまま立てますよね」
 文乃はカフェ給仕のときも服装は普段着の小袖である。オンオフで服装が替わらないため、突然カフェ仕事に参加しても違和感がないのだ。
「文乃さんオーダー、とか言わないようにしないとね。間違えちゃいそう」
「本当、私もうっかり動いちゃいそう。あ、マスター、それでオーダーお願いする前にこちらの二人紹介します。彼女が茅世です、そして私の友人の高井さんです」
「茅世です。よろしくおねがいします」
 礼儀正しくお辞儀までした茅世に、湯川は少し驚いた表情をしていた。年齢の割にひどくませた子に見えたのだろう。
「彼女の友人の高井由実子です。はじめまして」
「はじめまして、私はこのカフェのオーナーをしている湯川です。よろしくおねがいいたします。茅世ちゃん、あなたなのね。佐織ちゃんも言ってたけど、かわいい子ねえ。着物っていうのもすごくいいわ」
 湯川は、茅世のことを間接的に知っている。カフェに出すメニューのアクセントに、茅世の折り紙を使用しているのだ。折り紙を器用に折る女の子をようやく見ることができたわけである。
「ありがとうございます。あと、茅世のおりがみを使ってくれてありがとうございます」
 丁寧な挨拶をするのが好きなのだと、文乃が気づいたのは最近だ。しかし、周囲から見ればお嬢様教育でも受けたのかというくらいのものである。茅世を知った大人たちの間では、一見でどこに連れていっても恥ずかしくない子という扱いになる。実際は単なる五歳児でもなければ、気軽に人の場に連れていれる生き物ではない。
「いえいえとんでもありません。なんだか、茅世ちゃんに会って得した気分だわ。さて、皆さん、オーダーは決まりましたか?」
 土曜日は今のところ一番混む。湯川はここで長々会話をしていい人間ではなかった。文乃が目を覚ましたように、二人に頼みたいメニューを促す。二種のケーキとかぼちゃプリンを選んだ。和洋風のデザートで統一するようだ。茅世がジャスミン茶と言ったところで「私もなので、二つおねがいします」と、湯川に注文した。ついで、メニュー表は残してほしいと頼む。
「かしこまりました。……それで、文乃さん、ちょっといい?」
 席を離れられないかオーナーから尋ねられ、休日中であるものの了承した。由実子と茅世は放っていても仲良くやってくれるだろう。由実子が酒に酔えば別だが、基本的に彼女は他人の不可侵領域に突っ込むタイプではなかった。鋭い意見で、人をドキリとさせる程度だ。
「ちょっと行ってくる」
「いってらっしゃい」
 二人から見送られ、しばし従業員の姿に変わる。バックフロアに入ると、湯川が手招いていた。
「ごめんね、お休み中なのに」
「いえ、大丈夫です。来週のプレ教室の件ですか」
 四月からはじまる和装の着付けと煎茶道の出張教室の募集にあわせて、一回終了のプレ教室を三度開くことになっている。内容は煎茶道入門である。一度試すことで客足の様子もわかる。畳間を使ったオープンな指導をするため、宣伝にもなるのだ。いきなりはじめてみるよりか、やらないよりましだろうという湯川の判断からプレ教室を行なうこととなった。文乃の負担は増すが、湯川の言い分には納得できて引き受けることにしている。
 一回かぎりなので、作法はすべて文乃が行ない、参加者はほぼ玉露を味わうのみで終了してしまうが、煎茶道の成り立ちなどは文乃が説明する予定だ。茶道と違いあまり知られていない日本作法ということで、興味本位の参加者は多いのではないかという憶測があったが、募集をかけてみなければわからなかった。
「そうなのよ。今日のお昼にね、三回分全部予約いっぱいになったの」
 文乃は少し驚いた表情をした。教室は定員五名と少数指導だ。金額も千円以下の設定で、お茶菓子もついている。案外定員はあっという間に埋まるかもしれないという気持ちも少なからずあったが、本当に埋まってしまうとは思ってもみなかった。
「文乃先生に余裕があれば、追加で二回分くらいできないかなって思って。もしそちらも埋まれば、変な話だけど少しボーナスになるし」
 カフェからの給与は一月から三月まで固定化されていたが、出張教室の関係は多少出来高制の部分になっていた。四月からの六月分の契約内容は大方決まっているが、出張教室の動き具合にもよる。より収入も立場も不安定な状況になっていくのは事実で、文乃はその点が大きな悩みの種でもあった。しかし、考えているより試したほうがいい。元々祖母の家に住むようになってから、不安定な収入で生活していたのである。
「大丈夫だと思います。今可能な日時を確認するので、手帳取ってきます」
「おねがいしますね」



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