* 下がり葉の猫、第23話 *


 文乃は一時畳席に戻り、残した二人に詫びて手帳を抜いてきた。再びキッチン側に寄れば、湯川がいない。客席の接客に向かったようだった。
 三月に行なうプレ教室の内容は決まっている。四月からのものも大まかに決まっているが、湯川たちとどう畳間を使うか考えなければならなかった。着付け教室は仕切りが必要だ。煎茶道は見せ物のように観客ありの指導が可能だが、着物の着付け指導でそれは無理だ。煎茶道のお手前も、大勢に見られるのが不快な人もいるだろうから、指導中は仕切りが必要だった。今まさにどうするべきか考えているところである。四月から開講する教室もすでに受付をはじめていて、トータルで五人ほどの参加登録がされていた。その中に、煎茶道を学びたいと言っていた佐織もいる。彼女は着付け指導を復活させるよりも、先に煎茶道を試して見ることにしたようだ。
 開講中のカフェの仕様や指導内容はまだ決定してはいないが、道具全般はほぼカフェに納めている。二店舗目のカフェは、収納場を大きくとった設計だ。湯川が本店カフェの荷物をしまうスポットを強く望んだために、このような物置場が充実したカフェになったという。文乃の持ってきた道具を丁寧に納める場所も、晴海がつくってくれた。彼とは、今度ふたりで製菓の調理器具を見に行く約束をしている。文乃が知りたい世界を、彼はよく知っていた。湯川にも、姉弟に見えてきたとつぶやかけたこともある。
「おまたせしました。どう、大丈夫かしら」
 接客から戻ってきた湯川に、文乃は同月のスケジュールページを開く。追加したいという申し出は可能だ。元から募集していたプレ教室の後に、もう一度行なえばいい。同じ日に二回教室を開くのだ。
「同日の、五時半からというのはどうですか。来週の土曜日と祭日の両方で。平日にしてもいいですが、」
「そうね。平日分は埋まっちゃったけど一回するわけだし、休日の教室のところに重ねて追加二回しましょうか。いい? 早速、今日中に募集かけるから。時間も迫っているし」
「はい、大丈夫です。同日二回なら、私の負担もそう多くないですし。接客にはまわれませんが」
「いいのよ。負担がないなら、それが一番いいわ。ありがとう、こんなときまで」
 湯川ににこやかに言われ、文乃も同じ笑みを返す。仮にできないといっても湯川は嫌な顔をする人ではないだろう。しかし、「良い機会を逃すことになるわよ」と、諌めたかもしれない。
 仕事が楽しいと思っている間が華だ。そして、フリーである自分は、仕事が来るだけラッキーなのだ。チャンスは逃したくない。
 文乃はそれだけを思って、湯川に挨拶して席に戻った。すでに畳間にはデザートとお茶が運ばれており、由実子と茅世はケーキの試食会をはじめている。ポットセットの茶受けには金平糖の他に、マカロンがひとつずつ添えてあった。湯川からのささやかなサービスなのだろう。
「この味好きだなあ。不思議な感じなんだけど、おから入ってるからかな。茅世ちゃんの折り紙も和風っぽくてかわいいし」
 由実子が帰ってきた文乃に感想を述べる。「サクラの味なの、すごいよ」と、茅世も言っている。双方の皿には、すでに取り分けた半分ずつのロールケーキと桜のシフォンケーキが乗っていた。甘いものの前で二人が同じレベルになっている。文乃は微笑ましくなりながら、ジャスミン茶のポットに湯を足した。
「満喫しているようで何より」
「うん。雰囲気も落ち着いているし、居心地いいから好きな人は何時間でもいるだろうね」
 カフェ通としての意見も文乃に伝えてくれるから、由実子は本当に良い友人だ。
「それにしてもさ、茅世ちゃんは文乃の仕事中ってどうしてんの? 忙しくて文乃は家にあんまいないじゃん」
 会話の流れをいきなり変えるところも由実子の特徴だった。そして、問いかける内容が時に鋭いのだ。文乃は何度も彼女の質問にうろたえたことがあった。気のおけない友人でもある。
「い、忙しいときは親に預けたりしてるけど、これが続くなら預かり保育とかも考えているわよ。定期的に海外のご両親から連絡あって、そのあたりはなんとかなっているの」
 今回も、由実子にその場しのぎの嘘を重ねてしまった。向かいに座る二人に対しての罪悪感が募る。茅世も一瞬神妙な表情をしたが、「大変だね、茅世ちゃん」と労いの言葉をかけてきた由実子には、すぐ「気づかってくれて、ありがとうございます」と、礼を返した。明らかに五歳児ではない対応だ。文乃は茅世の賢さと他人と接する彼女を見るたび再確認する。
「それにしてもさ、麻紀乃のとこって今何時?」
 由実子の話題を変える口癖で、次は麻紀乃の話に移った。麻紀乃は互い共通の友人で、去年海外に在住地を移した同級生だ。
「今は四時半すぎで、そこから九時間引くのよ」
 ジャスミンの香りを楽しみながら、文乃が答える。時差計算は頭にはいっている。ハガキに書いてあったのだ。日本時間から九を引けば、麻紀乃のいるスペインの時刻になる。
「まだ明け方か。ならいつ出ればいいの、ここ?」
「五時半前までには出ないとね。七時までに麻紀乃に電話しないといけないから」
 今日は、由実子と茅世にカフェを見せるだけではない。文乃宅のネット回線から麻紀乃と会話するという、大きな目的がある。
「そうね。それまでこのカフェ満喫しようね、茅世ちゃん」
 由実子の言葉に、茅世はうなずいたあとで「マンキツって、どういう意味? マンガを読むところ? 」と大人二人に問い、そこから茅世の知らない日本語を掘り出す遊びがはじまってしまった。瞬く間に、五時が過ぎた。


 海外にいる麻紀乃に、三人集合の日時を確認したのは由実子だったが、彼女は麻紀乃の都合にあう時間をそのまま承諾していた。麻紀乃は朝十時までに電話がほしいと言っていたのだから、その九時間引いた時刻までにパソコンの前にいなければならなかった。文乃たちはカフェを離れると真っ直ぐ自宅に戻る。由実子と文乃、茅世の三人で歩くのだから余計な心配は無用とばかりに、最寄り駅から徒歩で帰路に着いた。近所の知り合いに茅世の存在が丸わかりになると覚悟したときほど会わないものである。
「さすがに夜はまだ寒いねえ」
「そうね。今は六時半前だからぎりぎりだいじょうぶね」
 空が朱から紺に染め変わる前に、家の門扉前に着いた。由実子が大きなバッグを肩から下ろす。土曜日は昼まで仕事をしていたこともあり、家内は片づいていると言いがたいが、気の知れた友人であることから構わず玄関扉を開けた。文乃の手をほどいていた茅世が先に中へ入る。
「お邪魔します」
「茅世、私は先にパソコンを取りに二階に行くから、ユミと一緒に居間に行ってて」
「うん、」
 頷いた茅世は、靴を脱ぐ由実子に振り返る。文乃はバッグを玄関脇に置いて、二階にあがった。遠くから文乃のバッグも居間に持っていくよ、という由実子の声が聞こえた。パソコンの扱いは由実子の得意分野だ。メンテナンスまでお願いしている身の上で、文乃は率先して使いたいとも思わない。彼女が用意している間に台所でお茶の用意や夕飯の準備をしているほうが落ち着く。
 彼女は引き出しに入れてあるパソコンを持って階を降り、居間に向かった。茅世が電灯のスイッチをすべてつけて、間接照明を多用した部屋は明るい。テレビもついており、土曜日の緩やかな番組が続いていた。ゴールデンタイムにはまだ時間がある。
「持ってきたわよ。設定とか、よろしく」
 はいよ、と言いながら受け取る由実子に言葉を重ねた。
「お茶の用意してくるけど、夕飯も食べるわよね? 一応でかける前にけんちん汁つくっておいたの。それに野菜炒めもつくれるし」
「ありがとう。そうね、ケーキ食べたから夜はあまり食べないけど。けんちん汁はヘルシーでいいわね。夕食お願いするわ、サンキュ」
 由実子は話しながらコタツ卓上で作業をはじめた。茅世の身体はゆらゆら動いている。
「茅世、眠かったら少し横になりなさい。そういえばユミ、前も夕食汁ものじゃなかった?」
「そういえばそうだっけ。いいよ、身体があったまるし。茅世ちゃん、もうちょっとこっち寄って寝ていいよ。ソファに当たらないようにね」
 二人のやり取りを聞いて文乃は和室を離れた。お茶を三人分用意して戻れば、家にいないはずの人間の声がする。すでに由実子が麻紀乃とパソコン回線を通して会話をしていた。茅世の姿が見えないのは、コタツ布団を深くかぶって寝ているからである。
「マキ、いま文乃がきたよ」
「フミちゃん。久しぶり、聞こえてる?」
 姿はないのに、声が明瞭に届いている。文乃はパソコンの進化に感動してしまった。
「すごいわね、今のパソコンってこんな使い方もあるの!」
 二人の会話よりも、パソコンとネットについての感想を述べると、由実子が呆れた顔で手招いた。
「今更なにを言ってんの」
「確かに私もこちらに来てそう思うわ。日本の情報仕入れるのは、まずネットだもの」
「下手したらマキのほうが日本のこと詳しかったりしてね」
「それはすでに、親にもいわれたことだわ。それでフミちゃんはどこ?」
 麻紀乃の声に文乃が反応する。由実子の隣に座り、パソコンの画面を見る。音声だけのようだ。
「ここにいるわよ。本当に久しぶりじゃない。元気? ハガキありがとうね」
 彼女に送る言葉が無意識に続いてしまう。麻紀乃と話したがっている自分に気がついた。
「このとおり元気だわ。言語の習得は大変だけど、やっぱり現地で勉強するのが一番ね。フミちゃんはどう?」
「相変わらずよ。元気にしてる」
「今日も変わらず和服だしね」
 由実子の横やりに、麻紀乃が少し笑った。
「いいじゃないの。こっちに来る前に、フミちゃんちで撮った写真、こちらで見せたら興味シンシンだったわよ」
「それって、あのときの?」
「そう、ユミちゃんと一緒にフミちゃんち行ったときの。日本文化教えるには絶好の教材だったわ。ありがとう」
 麻紀乃の言葉に、当時のことを思い出す。由実子が文乃の割烹着姿を見て散々笑ったときの話だ。麻紀乃がスペインへ旅立つ前に文乃で昼食会を開いた。
 その際に、麻紀乃は海外に日本文化を教えるということで、文乃の割烹着を写真にとっていた。彼女はそれだけでなく、着物姿や畳、障子、文乃のお手前もくまなく写真に納めていた。煎茶道のお手前を麻紀乃と由実子に見せたのは、あのときがはじめてだった。後少しで一年が経つ。
「お役に立てたのなら、光栄よ」
 文乃がそう声にする。会話をしていると、麻紀乃のいる場所との時差をまったく感じないから不思議だ。向こうが午前中の陽がある時間だと思えない。日本はすでに夜である。そう思っていれば、麻紀乃の後ろで人の声らしきものが響いた。女性と男性の声のようだ。
「日本文化を伝えるのに絶好だったわよ……って、ゴメン、少し離れるわ」
 彼女がパソコンのマイクから離れるのがわかった。まもなく、遠くで話し声がはじまる。麻紀乃の声に違いないが、日本語ではなかった。
「スペイン語話してるマキ、はじめて聞いた」
 由実子が感心したようにつぶやく。スペインに住んだのだから、現地の言語が使えなければコミュニティーの中に入れないだろう。
「聞いたの、はじめてなの? でも、話せないと現地で暮らせないでしょうよ」
「そうだけどね。でも観光で栄えてる場所なら、英語が話せるだけでもなんとかなりそうじゃない?」
「ユミちゃん、あいにくここらは英語あんま通じないのよ。それに、スペイン語勉強している間に英語のボキャブラリーなんて飛んじゃったわよ。スペイン語はイタリア語とかフランス語には似ているけど、英語とはまったく違うわ。言語圏がそもそも違うからね」
 由実子と文乃の会話に、声が混ざる。早くもパソコン前に戻ってきた麻紀乃本人が返答していた。
「あら、早い。にしてもすごいよ、英語以外の言語使えること自体、」
「やめてよ、まだまだ全然だわ。単語は覚えきれないし、言い回しもインプットしないと使えないから、毎日頭フル回転しているわ。学生時代に戻った気分で勉強してる。それと同時に、日本語の不思議に改めて気づくのよ」
「たとえば、動詞がはじめにくるとか?」
「英語と同じで、そうね。それに伝えることがストレート。でも、こっちに来てから、ありがとうって言葉がすごく良い言葉なんだって気づいたわ。日本だと、すいません、ごめんなさい、失礼しますとか謙った言葉ばかり使うじゃないの。でも、その謙ったところを、ありがとうに変えただけで、その相手がより近くに感じるようにならない?」
「ん、確かにね」
「まあ、謝るよりも感謝を述べるという感覚は、キリスト教の影響があるのかもしれない。こちらでも、お礼は社交辞令化しているところもあるわ。でも、すいませんよりも、ありがとうって言うほうが気持ちはストレートに届くわね。私は、それを知ることができただけでも、こっちに来てよかったと思えるの」
 文乃は黙って由実子と麻紀乃の会話を聞く。麻紀乃は、一つの物事から多くのことを得るのが上手な人だった。経験を無駄にしない姿勢は、文乃も手本にしたいくらいである。二人の前では、文乃は聞き役でいることが多かった。会話を聞いていたくなるのだ。
「日本では、ストレートに物事を伝えることが良いようには思われないからね。気恥ずかしいという気持ちがあるのかな」
「そうかもしれない。あと、フミちゃんに伝えたいことがあるの。聞こえてる?」
 言葉を発しない文乃に、麻紀乃が問いかけてきた。
「はい、聞こえてるわよ」
「ならよかった。フミちゃん、私ここにきておもしろいことに気づいたわ、変な話なんだけど、」
「何なの、変な話って」
「私、こちらの友人に誘われて、各国の民俗舞踊をメインにしたダンスのサークルに通っているの。そこで、いろんな国の歌やダンスを学んでるんだけど、」
「なにそれマキ、初耳なんだけど。ダンスするの嫌いだったじゃん」
「そうよ。私もここまで来てダンスを学ぶとは思わなかったわよ。それで学んでいる中で思ったことだけど、踊りの手順やステップが、私、日本の所作に似ているかもしれないと思って、」
 文乃が「どういうこと?」と、相づちを打つ。麻紀乃がうなりながら、感じたことを言葉で伝えようと口を開いた。
「両方詳しくないからよく言えないわ。でも、私が習うダンスはリズムにあわせてステップが組まれていて、頭で考えるより目を閉じて試したほうがうまくいく感じなのよ。頭で考えるより、身体で感じるほうが綺麗になるというか……日本作法も、動きが複雑のようだけど、実は流れに一番沿うかたちになっていて、自然のように見えてすべてに意味があるような。なんて言えばいいのかしらね。異国のダンスたちに、フミちゃんに見せてもらった煎茶道の手順と同じものを感じたの」
 説明が下手でゴメン。麻紀乃はそう付け加えたが、文乃はダンスが一切できない人間だが、見ることはそう嫌いではない。自由に優雅に踊れる人たちのことを羨ましく思ったこともあった。しかし、民族舞踊が決められたステップの中に持つ意味を、文乃はかすかに手繰り寄せた。綺麗で簡単そうに見える動作は、実際やってみると難しく感じるものだ。しかし音楽のリズムに乗れば、難しいステップがきちんと流れに沿った快適なパターンを組んでいることを知る。頭で考えなくても、すべてに意味がある。すべては流れを組んで循環する。
 文乃は、唐突に玉露の作法がしたくなった。お手前ははじまってからいくらかの手順を踏み、最後は元通りに戻るようになっている。茶器をお盆の中に片づける順序は、はじめの取り出すときを巻き戻したのと同じだ。
「いいこと、教えてくれてありがとう」
「こんな説明でわかったの?」
 麻紀乃の問い返しに、文乃は「言いたいことはわかったわ」と微笑んだ。由実子が考え込んでつぶやいた。
「私はよくわからんけど。まさかマキが踊り目覚めるとは、」
「アクロバティクなのは興味ないわよ。民族舞踊は、最近興味あるわね。スペインのも好きだけど、ギリシャの民族舞踊は特にステップが好きだわ」
「マキ、あんたどこにいんの?」
「ヨーロッパは陸続きなんだからいいのよ。ギリシャなんてここからすれば近いもんじゃない。飛行機代も安いし。今度こちらの友人たちとアテネまで神殿見に行こうって話してるわ」
「グローバルね、すごいマキちゃん」
 麻紀乃の話題と発想が、文乃には現実離れしているように感じて声を上げる。麻紀乃がその様子に、ちいさく笑った。
「そういえば、今日文乃が請け負ったカフェに行ってきたよ」
「え、本当? どうだった?」
 由実子が唐突に切り替えた話題へ、今度は麻紀乃が声色を上げて文乃に問いかける。和風カフェに携わっている話は、由実子から少し聞いていたようで、麻紀乃はとても喜んでいた。由実子には詳しく話していない出張教室の動向も伝える。由実子も、カフェなら通えるかも、と、言い出していた。
 日本から大陸を軽々またいでスペインにつないだ会話は、結局麻紀乃が「この後、用があるのよ。ゴメンね」と言ってくるまで続いていた。回線を切って時計を見れば、八時を過ぎている。夕食にはちょうど良い時間だったが、文乃は先にしたいことがあった。
「ユミ、おなかすいてる?」
「うん? あんまりすいてないけど」
「お願いがあるの。先に煎茶道のお手前がしたいのよ、今猛烈に」
 パソコンを動かしている由実子が、少し不思議そうにしたが、すぐ了承した。
「いいよ。私も煎茶の作法見れるし」
「用意してくる」
 文乃はすぐに立ち上がりながら言い、居間を離れた。隣の稽古場の明かりをつけて、状態を把握する。道具は半分片づけているだけである。お湯をつくるための準備をして、必要な茶托や茶器、水差しを取り出す。水屋に置かれている道具を所定位置に置けば、湯ができあがるのを待つだけだ。気温が低いから、白湯は少し高めに考えておいたほうがいい。だからといって、人肌以上の水温は必要としていなかった。様子を見ながら、炉に備え付けられている電気コンロを消す。
 玉露のお手前を求めたのは、麻紀乃に聞いた民族舞踊の動作と日本作法の所作が似ているという話を聞いたからだ。複雑に組まれているようで、自然に見える。手順が馴染めば、所作の順序がすべて利にかなっていることに気づく。文乃が煎茶道を本当に好きになったのは、このことに気づいてからだ。地球にあふれる自然もすべてはただ在るようで、すべてに意味がある。無意味に流れているような時にも、かならず意味があるのだ。お手前の手順はその意味ある時をつかんで、その流れにまかせながら最大限に引き出したものなのだ。大昔の日本人は、そうした自然の流れをつかむことがとても上手だった。文乃は大学や煎茶道などを通してそう思っている。社会人になった頃に一度忘れてしまった大切な事柄を、この二年かけて取り戻した。麻紀乃の言葉は、それらを暗に語っていた。
 自然に流れる見えないものをつかみたかった。それは、自分の生き方に一番沿うものだ。だから、安定した社会生活を捨てたのだ。
「文乃、ちょっといい? 茅世ちゃんも起きてきたけど」
 開け放した引き戸を跨がず、由実子が廊下に立っている。帽子をかぶった茅世が傍らで目をこすっている。文乃は茅世にお手前を見せたことがないことを思い出した。
「茅世、今から玉露のお手前するけど、見る?」
 彼女の問いかけに、茅世は顔を上げて答えた。
「見る! 茅世、見たことないもん」
「文乃、茅世ちゃんにも見せたことがなかったの?」
 意外そうに問い返す由実子を、文乃が手招いた。由実子は二度この家で煎茶道の作法を見ている。茶席側の所作はある程度知っている。
「そうね。正座は慣れないと辛いから、脚崩していいからね」
 ジーパン姿の由実子は、すでに脚を崩していた。茅世がその隣で正座をする。彼女も正座は得意ではないから、すぐ脚を伸ばすに違いない。文乃は一時手前席から離れた。
「はじめます。いい?」
 二人から同意を得る。文乃は仕切りに挟まれた水屋の出入り口に正座をして、ちいさな扇子を畳に置いた。
「よろしくお願いします」
 低く頭を下げる。静かな時間がはじまるというのに、無性に気持ちが高揚する。煎茶道の作法が本当に好きなのだ。仕事にもしているというのに、冷めない情熱に文乃は我ながら不思議を感じる。
 由実子と文乃の動作にあわせて、茅世もお辞儀した。彼女ははじめて文乃の仕事に触れるということで、一動作も逃さないという表情で熱心に文乃の手元を見ていた。数々の手順を通して一煎目が出来あがる。茶席は三人分しか必要なく、童子が簡略されてる。できた玉露は二杯分ずつ由実子と茅世に渡した。
「おいしい。茅世、この味好き!」
 彼女の声に、文乃は嬉しくなる。そして、この日本作法に出会えてよかったと心から思える。煎茶道に、たくさん救われた。文乃にとって自分のリズムを知ることのできる最良の方法だった。人に提供する所作だが、同時に自分のための作法なのだ。日本作法は、自然のスピードにあわせてできているのだろう。だからこんなにも文乃は恋しく思うのだ。



... back