* 下がり葉の猫、第25話 *


 近所から圭介を迎えることも考えていたが、圭介いわく家の位置は覚えているから一人で行く、ということだった。八時は五分を過ぎている。文乃が道のりを心配しはじめたところで、インターホン鳴った。圭介が来たのだ。
 来る時間にあわせてつくった料理の大半は、居間に置いていた。すでに割烹着も脱いでいる。茅世が風呂敷を広げるようにコタツテーブル上で使っていた紙やペン、はさみといった道具は、可能な限り隣の和室に避けていた。その他、邪魔だと思われるものも同じく和室に置いてある。部屋は午前中に掃除をしており、できる限りの片づけはしたつもりではある。
 玄関に行けば、帽子をしっかり身につけた茅世がすでにたたきから降りていた。圭介のためのスリッパも整えて置かれている。
「そこでずっと待ってたの、茅世」
「ううん。圭介さんの匂いがしてから、ここにいるの。文乃早く、」
 匂いがしたというのが茅世らしくかった。二度も助けてもらった男性なせいか、彼の匂いをよく覚えていたのだろう。
 文乃は玄関に降りて引き戸を開けた。どなたさまですか、などと問わなくてもわかっている相手だ。圭介が姿を見せた。茅世が先刻まで見せていた思慮深い表情から、年相応の笑顔を見せている。
「こんばんは、」
「こんばんは、圭介さん!」
 彼の言葉からすぐに言葉を返した茅世に、圭介が下を向いて「こんばんは、ちせちゃん」と微笑む。彼は玄関の高さと身長がほぼ同じくらいだった。服装は着替えているようで、ジーパンに軽めのジャケットを羽織っていた。中にVネックの黒い長袖を着ている。細さは服を着た容姿からでも簡単に窺える。ひょろりと長い痩身だが、ひ弱そうには見えなかった。不思議に凛とした雰囲気を漂わせていた。
「ようこそお越しくださいました。扉の縁に気をつけてください」
「今日はありがとうございます。先に、土産物の最中と、前に食べ物をいただいたときのタッパーです」
 手に下げていた紙袋を受け取り、気をつかってくださりありがとうございますと頭を下げる。圭介は、「いえ、こちらこそ。では、お邪魔します」と文乃の家に足を踏み入れた。
 この家に彼が訪れることは二度目である。茅世は彼の傍について一挙一動を見つめている。スニーカーを整え立ち上がった圭介に、彼女は手をつなぎたいとせがんだ。文乃はその様子に苦笑する。
「茅世、よろしくね」
「はい。居間はこちらです」
 案内を茅世に任せ、文乃は台所へ戻ってガスコンロにつけていた弱火を消した。深鍋には冬瓜と骨付きの鶏肉でつくったスープである。隣の浅鍋に蓋をしているのは、最後につくったアサリの酒蒸しだ。蓋を開けると、日本酒とアサリの混ざる良い匂いがした。深皿に入れ替え、大きなお盆に乗せる。冬瓜汁を、木椀に三つ分よそって持っていく。
 居間の戸は開けられたままで、茅世の声がよく聞こえていた。圭介は職業柄か、茅世の話を嫌な顔ひとつせず聞いている。彼を相手に茅世はよくしゃべっていると文乃は思いながら「お待たせしました」と、二人に声をかけた。
「すごくいい匂いですね」
 圭介がコタツテーブルに座ったまま文乃の手先を見ている。茅世が、すごい匂い、とつぶやいた。酒の匂いであろう。
「あの、お酒は飲まれますか? 日本酒とビールがあるので、お持ちしましょうか」
「そうですね、文乃さんは飲まれますか」
「そこまで強くはないですが、あれば飲む人です」
「そうしたら、日本酒で、」
 アサリの酒蒸しの匂いに触発されたのだろう。文乃はお冷やになりますけど持ってきますね、と、台所からおちょこと冷蔵庫にあった日本酒のボトルを持ち出した。それに、ご飯のおひつも持っていく。
「文乃、おなかすいた」
 目の前の食事に、茅世も待ちきれなくなったように声を出す。今日の茅世はおやつを食べていなかった。
「すごい、こんなおいしそうなものばっかりで、ちょっと感動しています」
 圭介の発言は顔にも素直に表れていた。喜ばれると文乃も素直にうれしい。しかし、味の好みは食事をはじめてみないとわからない。彼女は日本酒の蓋を開けて、先に圭介へ渡したお猪口に近づけた。彼も気づいて、杯を持ち上げる。
「お口にあうかが、わからないですが、」
「文乃の料理はおいしいよ」
 茅世がかかさず口を挟む。彼女の味覚にあわせて、文乃の料理は基本が薄味だ。実家住まいのときより味付けが薄くなっているので、正月に両親と祖母へ手料理を振る舞ったときは、味が少し薄いんじゃないのなどと突っ込まれたくらいである。
「薄味だったら、塩やお醤油のありますので。それではいただきましょう。この間はいろいろとありがとうございました」
「ありがとうございました。いただきます」
「いや、こちらこそ。いただきます」
 お猪口を持った圭介に、文乃が袖に手をあてお猪口をあげる。茅世は彼らの動作に別段気にする様子もなく、膝立ちになって汁物に手をつけた。アサリの蒸しものから漂う匂いより、さらに濃度の高い飲み物だとわかっているのだろう。
「文乃、このおつゆがすごい好き」
 茅世がいつもより背を高くして言う。汁物を食べるときはコタツテーブルの高さにあわせて茅世は膝立ちになるのだ。椅子を買おうかと文乃が訊いたこともあるが、拒否されて現状のままである。
「うん、本当においしいです。これってなんですか」
 お椀の中で透明にほぐれたものを、圭介が指す。鶏肉のだしが溶けた汁は風味もよくやさしい味だ。文乃は二人の小分け皿に食べ物をよそっていた。
「冬瓜です。汁物のおかわりはありますし、ごはんもおひつの中にはいっているので。茅世、ごはんよそうわね」
「ありがとう文乃。今日は白いごはん?」
「そうよ。あ、酒蒸しのスープ用にちいさいスプーン持ってきますね。あと、アサリの殻入れも」
 つい細々と動いてしまう文乃に対し、茅世は圭介とコミュニケーションを取りたがっていることがありありと見てとれた。日本酒ボトルに気が向いたようで、食事をしている圭介に「これはお酒ですか? 」と訊いている。圭介も食べ物を口にする間に、茅世へ丁寧な回答をしているようだ。客人を退屈させるよりかはいいのだろう。文乃が台所から戻ってくると、茅世が立って冷酒を注いでいた。彼女は文乃が座るのを確認すると、日本酒のボトルを持って文乃に近づいた。
「ありがと、茅世」
「どういたしまして」
 二人の様子に、圭介の口元が緩む。茅世が酒ボトルを持って動き回る様は、大人の世界に介入したい子どもの姿とそっくりだ。
 文乃がようやく腰をつけて箸を持つ。取り分けた煮物の味つけを確かめ、我に返った。妙な笑みがこみ上げた。風味がおかしかったわけではない。
「なんだか、昭和の家庭みたい」
 文乃が好んで用意したものを並べて見れば、大方が純和風のもので溢れていた。着物を着て畳間の食卓を囲う。テレビやソファ、照明器具などは現代を示すが、家の趣と文乃と茅世の趣向はまさに昔ながらの日本の風景のようだった。由実子がおもしろがるのもわかる。
「そうですね。でも、僕はこういうの好きですよ」
 地べたの生活のほうが落ち着きますよ。圭介が文乃の言葉にちいさく笑いながら、カレイをほぐす。重ねて、料理の味加減もすごく好みです、と感想を述べた。
「茅世も、こういうふうなカテイつくりたい」
 幼い容姿の彼女もそう言う。圭介に同意するような発言だが、文乃は驚いたように茅世を見た。茅世が自分の成長を前提にした言い方をしたのは、佐織の結婚式を除けばはじめてのことだったからだ。しかし、すぐ圭介の台詞で脳裏から疑問は消えていた。
「実は変な話なんですけど、最初茅世ちゃんと文乃さんに会ったとき、幻想的すぎて夢か何かだと思ったんですよ」
 彼は、はじめて会ったときの話を持ち出していた。圭介が出会った当初そのように思っていたとは、文乃にとっては意外だった。
「本当ですか。たとえば幽霊みたいな?」
「茅世ちゃんの様子から、そこまでは思わなかったんですが、……気を悪くさせたのであれば申し訳ないです」
「いえいえ気にしていませんから。こちらこそ茅世を救っていただいた身ですし。でも、確かにあのときも私は着物で、茅世も甚平に半天でしたっけ」
 それにあのときは、雪が降っていた。茅世のように和装が板に付いた子どもはほとんどいないだろうし、夜幼女が出歩いて良いはずがない。近所に茅世が文乃の預かり子と知られれば、夜出歩いていたことを監督不行き届で忠告される。
「うん、そうだったと思います。雪が降っていたことのあるのかな、風景が様になっていたんですよね」
 圭介がそのように考えていたとは、文乃にとって意外だった。受け取ってもらった感覚にお礼を言う。
「実体はこのような感じですが。あら茅世、酒蒸し食べないの」
「においが好きじゃないもん」
 以前酒蒸しをしたときは食べていた気がしたが、日本酒の匂いが得意ではないようだ。年明けの日本酒に酔いしれた由実子の姿がでてくるのかもしれない。文乃は食べないという茅世から、酒蒸しの小皿を取った。
「この雰囲気も、文乃さんたちにあっていて僕は良いと重いますよ。あのときより気候は過ごしやすくなりましたね」
 圭介はすでにアサリの酒蒸しの二杯目にいっていた。恐縮と遠慮の差し引きを良くわかっている圭介は、気苦労を伴う相手ではない。文乃は余計な世話をすることはやめ、彼の会話に戻る。圭介の勤める小学校では入学式が間近に近づいているという。今年の桜は平年より開花が遅い。時期があえばいいのだが、という話が続く。
 文乃は去年の花見を、麻紀乃と由実子の他、数人の友人を集めて行なった。茅世は文乃との外出を拒んで、満開の桜を見たことがない。自然にあまり頓着がない子だから仕方がないかもしれないが、満開の桜が強い風に当たって舞う桜吹雪を見れば、桜が好きになるのではないだろうか。
 花見の話題とあわせて、文乃も自身が携わる出張教室のことも伝えた。彼から「甘いものが好き」という情報が聞けたときは、デザートを用意して置いてよかったと思ったものだ。さつまいものスイートポテトである。りんごの甘煮を添えていただく。
 大方の食事を終え、文乃が台所でデザートとお茶の準備をする間に、茅世は自身のつくったボックスを圭介に差し出していた。元は煎餅を詰めていた紙箱で、外装を隠すために多くの千代紙を貼っている。正方形に貼り伸ばすのではなく、形や図柄にとらわれず重ねて張り付けているのだ。中身は折り紙でかたちどった動物たちが席を取り、茅世の動物園をつくっていた。圭介は茅世のセンスを素直に褒めていた。
 文乃のほうでも、残った煮物や傷みにくい品をタッパーに詰めて用意する。一人暮らしなせいか、学校にいるとき以外は食生活が偏りがちになるという話を聞いて、詰めずにはいられなかった。毎日夕食弁当をつくってあげたい気分にもなった。
 心地よい晩餐ほど、時間がすぎるのも早い。お互いに明日は仕事がある。圭介が帰宅する旨を告げたとき、文乃は引き留めることなく立ち上がった。茅世は満腹感から、少し眠そうな様子で、大人二人を見ていた。
「紙袋用意したので、茅世のものも一緒に入れてください。あと、中に煮物なんかを入れたタッパーも詰めましたので、どうぞ召し上がってください」
「はい。いつもすいません、助かります。おいしい家庭料理を久しぶりに食べた感じで、すごく満足しています」
「そう言っていただけるとうれしいです。料理は半ば趣味になっているので、……よろしければ、今度は昼にもきてください。あの、煎茶のお作法も、もし興味あればお見せすることもできるので」
「そうですか。煎茶の作法はおもしろそうですね」
 圭介が興味を瞳に宿して答える。二人は玄関先に着いていた。彼は手にしていたジャケットを羽織ると、少し腰をかがめた。文乃の立つ先を見ている。茅世が居間から顔を覗かせて二人の様子を眺めていた。
「茅世おいで。圭介さん、帰るわよ。明日も仕事だから」
「じゃあまたね、ちせちゃん。」
 音を立てて廊下を歩く茅世が頷く。「今日はありがとうございました」という声もトーンが落ちていた。圭介が帰宅することに落胆しているような素振りでもあり、めずらしい茅世の様子を文乃が宥めた。
「圭介さん、また遊びに来るって、」
「また会おうね」
 社交辞令か本心かまではわからないが、彼の声は人を安心させる音域を持っていた。文乃も聞くだけで、自分たちに好意を示してくれていると思ってしまう。やさしい声だ。この夕食中の会話や動作、小学校教師という肩書きのとおり、彼が心やさしい人であってほしい気持ちが文乃煮は強くあった。まだ出会って数度だが、茅世も懐いている。人の気持ちを読める子が圭介と接したがっているのだから、文乃は圭介を信用していた。
「今夜はありがとうございました。では、おやすみなさい」
 たたきを降りた文乃と廊下に立つ茅世を交互に見た圭介は、挨拶して家を離れた。門扉のところで会釈する様に文乃は重ねて礼をして、扉を閉める。壁時計は十一時前。茅世が真っ直ぐ文乃を見ていたことに、振り返って気がついた。彼女の片手には帽子があった。頭の両サイドには、日頃隠している獣耳が垂れ下がっている。
「茅世、今からお湯ためるから、先お風呂はいろう」
 文乃の言葉に無言で頷く。草履を脱いでたたきに上がれば、茅世が着物の袖を引っ張った。文乃は立ち止まる。茅世を見下ろした。
「どうしたの、茅世、」
「文乃、ママとパパに会いたい」
 茅世は顔を上げず、そう口にしていた。



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