* 下がり葉の猫、第26話 *


『突然、どうしたの?』
 茅世が口にした発言を問いただしても彼女は会いたくなったとしか言わなかった。どのような心境の変化があって、彼女が文乃の両親に会いたいと言ったのかはわからない。
 茅世は、元は倉橋家の飼い猫だった。それ事実であるのかを検証することはできないが、文乃は彼女の言い分を信じている。そうでなければこの同居生活は成り立たなかった。隠していることが多くなった耳と長い尻尾は、文乃と二人きりで家にいるときだけは健在だ。ほぼ毎日一緒に入るお風呂で確認している。
 日を追うごとに、文乃は茅世にまつわる秘密に気づいていく。それは疑問にも似ていて、解消されることは少なかった。茅世が問いをうまくはぐらかすか、沈黙するかである。しつこく回答を求めることもできただろうが、彼女は文乃の持ちものではない。茅世は元飼い猫だったかもしれないが、今は飼っているというよりも、同居しているという感覚だった。彼女の気持ちを尊重したかった。
 容姿は出会った頃と変わらない。しかし内に宿す精神が明らかに子どもではなかった。文乃はそうしたことをところどころで気づくことがある。たとえば、茅世が文乃の両親に会いたいと言った同じ日に圭介が文乃宅へ夕食に訪れたときだ。圭介が来たことで文乃も気持ちが圭介に向いていたが、茅世の仕草で子どもらしくないところがあったのである。文乃は何度も思い返している。
 日本酒を注ぐ茅世の手つきが、大人顔負けで品が良かった。まるで初めてではないような仕草だった。文乃は今まで茅世に酒をお猪口に注ぐという行為をさせたことがない。彼女もはじめてだったのかもしれないが、それにしては手慣れているようだった。今まで隠していたのか最近身につけたのかはわからないが、ずっと傍にいた文乃にしかわからない違和感だ。
 仕事が増えたせいで茅世と接する時間が極端に減り、その一方で次第に彼女の秘密が増えてくる。それは同時に彼女がじょじょに遠くへ行くような気持ちにさせていた。
「文乃、今日の服、」
「はいはい、ちょっと待って。稽古場に置いてあるから」
「先に行ってるよ」
 朝食に使った食器を洗うついでに、流しの掃除をはじめていた文乃は、聞こえてきた茅世の声に反応する。水回りは日々使うところでもあるため、様子がおかしいとすぐに気になってしまう。茅世が声をかけなければ、そのまま大掃除になだれ込んでいただろう。最近の多忙さにおされ家の掃除が後回しになりがちだ。しかし、今日は正午に訪れる場所がある。茅世の言うように用意をしなければならない。
 磨いていた流し台に水を流し、なるべく早く掃除を切り上げる。文乃は仕事の合間を割いて親と会う日を設けた。会う日を翌月まで延ばすことはしたくなかった。五月の初旬はゴールデンウィークもあって、文乃の仕事は変則的になる。後回しにしていると、間もなく夏がやってくる。
 はじまった出張教室は初心者の集まりということで、文乃が自宅教室をはじめた頃に雰囲気がよく似ていた。状況が違うのは、それよりも他人の期待が重くのしかかっているということだ。参加者も自宅教室より気軽な感覚で来ているせいで、ルールをより詳しく説明の仕方もより丁寧にしなければならなかった。考えていた以上に教え方に気をつけなければならないことは、文乃の頭を悩ませる一因にもなっている。慌てず誘導しなければ、教室は思い通りに運ばない。文乃の力量にかかっていた。
 手を拭いて台所を出る。今日の文乃は洋服を選んでいた。仕事は休みだ。白のブラウスに、光沢のある紺と白の斜めストライプのスカートだ。同色のカーディガンを着て、昼までに実家へ帰る。四月中で、両親と文乃の都合が一致したのは、日曜日である今日だけだった。カフェ側も、ゴールデンウィーク前ということで快く出勤日変更に了承した。
 稽古場に入ると、甚平姿の茅世が耳を立てて待っていた。文乃が入室したことに目を向けるスピードは遅い。彼女の足下には、今日着る洋服が置かれている。佐織の結婚式のために新調したワンピース一式だ。
 四月に入ってからというもの、彼女は考えごとにふける時間が多くなった。外出しているような素振りはまったく見せず、彼女が文乃と接しない多くの慈顔をどのように過ごしているのか見当がつかない。折り紙をすることも飽きてきたようで、文乃の買ってくる図鑑や絵本を好んで読む。それでも時おり考えごとに没頭するせいか、ページを変えず固まっていることがある。文乃はそうした茅世の感情に、いちいち構う余裕がなかった。文乃にも気持ちの余裕があまりないのだ。はじまった出張教室は土曜日の回を除いて六月までの三ヶ月更新である。気は抜けなかった。
 仕事は文字通り大変になっているが、昨日の夜からは親に会わせることで頭がいっぱいになっていた。親に茅世をどう紹介するか考える必要があったからだ。昨夜は仕事から帰宅後、茅世とこのたびの作戦を確認した。今回は、文乃と仲が良い友人の子どもを数日預かっているという設定である。嘘を重ねることになるが、仕方がない。茅世が両親たちに正体を正直に教えることを拒んだからだ。リスクが高いと説得したが、頑固な茅世は首を縦に振らなかったのである。
 ワンピースのジッパーを上げ、後ろのリボンをくくる以外は、茅世がすべて自分で着る。かぼちゃパンツを履いて靴下を履く様を見ていた文乃は、まったく変化のない身丈の寸法を改めて不思議に思う。
「茅世は本当に変わらないわね」
 文乃がもし子ども服のデザイナーであれば、茅世の存在を本気で重宝しただろう。幼女のまま体型が変わらない茅世は、完璧な子どもモデルに使えたからだ。
 その独り言に、茅世は別の意味としてとったのだろう、顔を上げて少し困った顔をしていた。



 正午を少し過ぎる。文乃は道中で母親にそう伝えていた。支度の最中に、カフェからの電話と着付け教室の生徒から連絡があったせいだ。仕事とプライベートを分けられない生活だが、文乃にとっては現状仕事が優先である。連絡を取り合っていて、出かけるのが遅れたのだった。
「わあ、キレイ」
 茅世が食卓を見て感動したようだ。準備を続けていた母親はその声に微笑む。テーブルに広がるのは、ナスを台にしたハンバークにトマトやレタス、ほうれん草などをふんだんに使ったサラダ、イカのはいったパプリカときのこの炒め物である。母親はそれらに、グラタンを人数分つくっていた。
「本当は、庭でバーベキューするかすき焼きにしようか考えたんだけど、」
 母親の声を、文乃は椅子の座高を上げる用意をしながら聞いた。茅世は隣の椅子に膝立ちしてカラフルな料理品に釘付けだ。文乃よりも洋風の料理が好きな母親だが、今日の昼食の品ぞろえは群を抜いていた。
「バーベキューとすき焼きのほうが支度は、楽なんじゃないの?」
「そうなんだけどね。おばあちゃんがグラタン食べたいって言ったから」
 ああ、なるほど。文乃は頷いた。明るい一階のリビングに祖母や父親はいない。茅世と挨拶した後、二階にある各々の部屋に戻っていた。食事の支度が終われば、改めて文乃か母親が呼ぶ。
 実家へは事前に茅世のことを話していたおかげもあって、挨拶は簡単なもので受け入れられた。三人一致してお行儀の良いかわいい子という感想であった。茅世は久しぶりに会う文乃の両親ということで、いつもより気恥ずかしそうな表情をしていた。文乃は双方の立場を理解していて不思議な光景だと思う。姿はまったく異なるが、茅世は元々良く知っているはずの相手である。
 勘の良い母親の「猫のチセと同じ名前なのね」、「帽子は取らないの」、「茅世ちゃんと会うのがはじめてじゃない気がするのは名前のせいかしら」という発言に冷や冷やしながら、文乃は無難な返答をして母親を料理のほうに促していた。茅世も余計なことを言うつもりはないようで、料理と文乃の親の動きをよく見ていた。今回の実家帰省は、茅世と文乃の両親をあわせることだったのだから、すでに目的は達成されていた。
「ねえ、この椅子に座ってみて」
 文乃が茅世の肩をたたいて隣の椅子を見せた。文乃の実家に子ども用の椅子などあるわけがない。分厚い本や座布団をビニール紐でしっかり固定し、嵩をあげるという応急処置を茅世の椅子に施した。そうしなければ、洋風のテーブルで食事することは一苦労にはならなくなる。
「うん。ありがとう」
 茅世が立って、慎重に隣の椅子へ移動する。文乃はその様子を見ていた。嵩上げした椅子上を踏んでゆっくり座る。彼女の全体重が乗っても、安全は維持されているようだ。文乃は満足して「お父さんとおばあちゃん呼んでくる」と、リビングを離れる。ほどなく階段を降りる音とともに彼女が戻れば、茅世が母親から料理品の材料を聞いていた。パプリカの派手な色が気になったようだ。文乃は調理で一度も使ったことがない。
「文乃、足らない小皿とかある?」
「大丈夫みたい。コップと水が必要かな」
 テーブルの上から、グラタンの良い匂いがする。この食べ物も、文乃は住み移った家で一度もつくったことがない品だった。茅世が興味深く見つめている。母親が二度往復する間に父親がきて、文乃は「おばあちゃんは? 」と尋ねた。ゆっくり階段を下りているという。コップとペットボトルの水を置き、彼女は茅世の隣に座る。茅世ははじめこそ少し緊張した面もちだったが、すでに家内の様子に馴染んでいた。猫だった頃はこの家に十四年も両親たちと住んでいたのである。文乃と一緒に住んでいる家よりも見知った家だ。
 祖母が現れ、昼食がはじまった。手をあわせて「いただきます」という茅世の礼儀正しさに文乃の家族は微笑み、きれいな箸の使い方に驚いていた。親の教育がいいのね、というのが他と変わらず家族共通の意識のようだ。文乃は茅世が親に褒められることに対し、不思議な心地を感じて彼女を見る。彼女は食べることに熱心だった。新しい食材や料理に出会うと、彼女は少し冷静さを失う。
「茅世ちゃん、おいしいかな」
 母親の声に、茅世が顔をあげて頷く。父親と祖母は子どもにあまり慣れないせいか口数がいつもより少ない。会話は母親と文乃が中心になっていた。
「彼女を預かるのもいいけど、仕事は大丈夫なの?」
 文乃の母親は、疑問を真っ直ぐ投げかける性格だった。強気の性格で、文乃や弟が学生時代は保護者役員に抜擢されていた。母親の性格は熟知していて、彼女の疑問を解消する術は練ってある。
「大丈夫。自宅仕事ならいつでも彼女の世話できるし、外の仕事は融通きくから。そうだ、お母さん、前電話で話してたカフェの件だけど、夏まで契約が延長されることになったの」
 話をすぐ自らの仕事に切り替える。母親の「あら、そうなの。よかったじゃない」という肯定を聞いて、祖母に顔を向けた。
「あと、今月からそのカフェで着付けと煎茶道の出張授業もはじまったの。おばあちゃん、すごいでしょう」
 目を向けてきた祖母に同意を求める。カフェ仕事に元々関心を持たなかった祖母だが、元々日本作法の先生をしていた彼女は、この話題にご飯茶碗を置いて詳細を聞いてきた。祖母は和菓子が好きな人だ。カフェと教室の概要を彼女に話す。
「フミちゃんのカフェ、見に行ってみたいわねえ」
「文乃、その店はどこにあるんだ? 車で行けそうなところか?」
 父親が祖母の言葉に、反応して文乃に問う。最寄り駅と住所を言ったが、食事後に名刺も出した。道路事情に詳しい父親は、車で行くルートを考える。昼食の食器を流し台に集めている母親の横で、文乃が煎茶を淹れた。母親が木器に海苔煎餅をいれてダイニングテーブルに置く。茅世はすぐに手を伸ばした。
「届かないわね、はい」
 母親が器を茅世に寄せた。ぽりぽりと筒状の煎餅を食べる茅世を見ながら、こう問いかけた。
「文乃おねえさんが住むおうちは、居心地良い?」
 母親から「おねえさん」発言されたことに驚いた文乃が、お盆にお茶を乗せてテーブルにやってくる。祖母は茅世を遠いまなざしで見つめ、父親はすでに二階に戻っていた。
「はい。あのおうちはとても好きです」
 文乃の母親のまなざしを一身に受けたことが嬉しかったのだろう、笑顔で頷く。
「ごはんも一緒に食べてるのよね?」
「文乃おねえさんのごはんは、すごくおいしいです」
 茅世にも「おねえさん」と称されたことに文乃は目をみはったが、大人しく彼女の隣の席に座った。
「あら、それならよかったわね。お父さんとお母さんから離れてさみくしない?」
「少しさみしいです。でも、文乃おねえさんも好きだから、たのしいです」
 模範解答のような返し方をする茅世に、母親と祖母の瞳が輝いている。かなり賢い子だと思われているはずだ。文乃はその様子を見ながらお茶を飲んだ。
「えらいわねえ」
 母親は祖母と文乃に同意を求める。文乃は複雑な気持ちのまま頷いた。茅世の心中も複雑きわまりないはずだが、母親と会話している喜びが勝っているのだろう。母親は文乃が寄せた湯呑みに口をつけた。
「まあ、文乃なら間違いないでしょうね」
 突然話を振られ、文乃は自らの母を見る。
「それ、どういう意味?」
「安心してちいさい子も任せられるじゃない」
 意図がわからない。その表情を母親はくみ取って肩をすくめた。
「文乃なら、ちゃんと子どもが育てられるでしょ。文乃なら間違いないわよ。昔から信用できる子だもの、あなた」
 だから早く結婚して孫見せて。
 続いた言葉に文乃は呆れたが、別の意味で言葉がでなかったことも事実だった。母親に信頼されていることを知ったのは、これがはじめてだったのだ。



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