* 下がり葉の猫、第27話 * | |
公園に並ぶ桜は、短い咲く日よりを終えようとしていた。夜の外灯に映る木々に残る花びらは少なく、若葉の芽が目立つ。 食事後の会話で花見の話題も出てきたが、仕事で忙しい文乃はすべての時期を逃していた。茅世に満開の桜を見せたかったと思ったが、家好きの彼女が花を見るために外に出るとは思えなかった。現に文乃の手を引かれて夜道を歩く彼女が、植物の装いを気にする素振りは見せていない。以前、花の香りを「くしゃみするもん」と、遠ざけていたくらいである。 一方の文乃も、頭上の木々を見上げながら別のことを考えていた。実家で母親に言われたことだ。 母親に、信頼されているとは思わなかった。 娘に対して、そうした発言を今までしてこなかった人だった。それはひとつの感動だった。一人前と認められた証のようにも感じていた。 「文乃、」 引いていた手が、その声にあわせて止まった。 「なんかあった? おうちに忘れ物?」 実家を離れ駅までの道すがら、茅世は「おうちは全然変わってなかった」と感想を言ったきり、長いこと黙っていた。文乃は見ていた景色から彼女に視線を落とす。茅世が顔をあげなければ帽子で表情は確認できなかった。 駅までまだ道のりはある。二人で住む家の最寄り駅からどの交通手段を使うかはまだ考えていない。夜の八時をすぎる頃、両親にかたちだけでも茅世を紹介したこともあって、徒歩で帰宅してみるのもいいだろう。文乃がそう思いながら、茅世の返答を待つ。彼女は黙ったままだ。 「ちょっと、どうしたの茅世」 おなかの調子でも悪くなったのだろうか。最近の茅世は考えごとにひたることが多いが、文乃の実家ではそうした素振りをまったく見せていなかったのだ。 「今日のママたちの記憶、消すの」 茅世が時間をかけて答えた。文乃は度肝を抜いて、彼女の傍でしゃがみこんだ。そうしなければ顔が見えないのだ。 言葉の意味がわからなかった。 「き、記憶を消すって、どういうこと!?」 大声で問いかけ、慌てて周囲を見る。二人の姿を目撃している人間はいないようだ。文乃は再び茅世に向き直った。彼女が俯いているのは、肯定の証拠だった。言葉の解釈は広がらない。 記憶を消す。茅世には特別な能力がある。そのことを裏付ける発言だった。彼女は元から、人間とは言えない類の生き物だ。耳と尻尾さえなければ人間と変わらない。しかし明らかに人間ではないのだ。生体の不思議は日に日に文乃の意識にも積もっていく。不可思議な彼女が、不可思議な能力を持っていてもおかしくない。そのひとつは、人の記憶を消すということなのだ。 今まで共に住んでいて、彼女がはじめて公にした能力に文乃は表情を隠せなかった。不可思議な存在だが、毎日ひとつ屋根の下で生活している。茅世の存在に慣れきっていた。元飼い猫の変身だけだと思っていた。だがやはり彼女は、それだけではない異質の存在なのだ。 「どうしてママたちの記憶を消すの?」 答えない茅世に、別の角度から問う。今まで彼女は文乃の了承を得ず、色々な人の記憶を消去してきたのかもしれない。彼女が単独で外出したところで、目撃情報が一切なかったことも説明がつく。しかし、そうであれば圭介の記憶も消すべきだっただろう。茅世の思惑がわからない文乃は、彼女の顔を覗き込みながら言葉を待った。茅世は、正直に話してくれる子なのだ。 「ママたちは、近すぎる人たちだから。ごめんね、文乃」 ぼそぼそとする言葉が聞き取れた。いつもはここまでしないの。茅世の良心が垣間見えていた。文乃は何を言うべきが悩み、謝る彼女にとってもどれが最善であるかを考えた。母親たちの記憶を消すことは、文乃にとっても仕方ないと割り切れることだった。 母親たちに茅世にまつわる嘘をついて、最後まで逃げきれる自信はない。 茅世の世界を広げるために、文乃は無意識に良心を犠牲にしてきた。親しい人たちや恩を感じる人にも、嘘をついてきた。文乃はそれらを後悔していない。だが、茅世の記憶を消せる能力は、文乃の罪悪感と行ないを帳消しにしてくれるものだった。保身についても頭の回る自分自身が腹立たしいが、茅世の提案はお互いにとって都合がよかったのだ。 「いいよ」 文乃の了解は、二人でかたちにできないものを抱える覚悟でもあった。茅世が、ようやく文乃の目を見た。子どもがするようなまなざしではなかった。 「本当に? ママの言ったことばのこと、」 文乃の心情を察している。五歳児程度の身丈である子が、察せられることではない。文乃は安心させるように微笑んだ。 「いいのよ。母親がそう思っていることがわかっただけでもいいの。あの人が思っていたことまでは消えないでしょう」 「うん。……ごめんね、」 「逆に、茅世はいいの?」 文乃以上に、茅世のほうが親たちと接することができた喜びを儚くさせるのだ。茅世は眉間にしわを寄せて頷いた。 「ゴメンナサイ」 三度目の謝罪は、文乃たち家族にあてていた。記憶を消すことで一番傷つくのは、他でもない茅世だ。文乃は片手で彼女の頬に触れた。熱がともる。 「茅世、私はアリガトウのほうが好きよ」 文乃は伝える。出会った頃から茅世が何度も文乃に繰り返していた台詞だった。茅世はそのことに気づいたのか、ちいさく微笑んで頷く。二人の間を風が抜けていった。 「さあ、帰ろう」 薄曇りの空に、月が膜を張って揺れている。冴えた色を見せれば、夏はそう遠くない。それまでに、梅雨という一山が待っている。文乃は立ち上がって、帰路に目を向けた。 「もう、出会って二年なんだね」 少しずつ春を連れていく風が吹く。わずかに残る桜の名残が、紙片のように舞う。茅世がおなかにそっと自らの手を当てた。顎を引いて、文乃と同じ道を見る。 「あっという間だね」 つぶやいた茅世は、文乃が見た中で一番大人びた表情をしていた。
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