* 下がり葉の猫、第28話 *


 先日、勤めているカフェへ両親と祖母が顔を見せにやってきた。茅世が記憶を消すと言ったとおり、彼らは茅世のことを欠片も覚えていない。それを私は少しさみしく思う。その日は出張教室の前まで彼らの接客と準備に追われていて、教室がはじまって少しすぎた頃に家族はカフェを離れた。その日の夜に母親から、仕事がんばってね、という電話をもらった。
 連休が重なれば、私の仕事は不規則なものに変わる。一年で最もやりくりが難しいのはゴールデンウィークだ。今年からカフェのお仕事があるせいで、一週間のスケジュールがバラバラになっている。まるでパズルのピースみたいで、手帳を何度も見直さなければ、教室時間を間違えそうだ。
 この忙しさは五月の連休が終わっても続いていく。はじめたばかりの出張教室は、自宅教室を開講したときよりも指導が難しく、教え方や生徒との接し方について思い悩むことも多くない。帰宅してからも、よりよい方法を模索するために仕事書類に向かうことが増えてきた。特に煎茶道の指導は、基礎知識のプリントをつくって配るところからはじめている。
 うまくいっているかどうかは現時点でまったくわからない。救いは出張教室に佐織さんが参加しているということだ。指導で不安に思う点を、彼女は生徒の視点で伝えてくれる。それは私にとって大きな救いだ。佐織さんには、本当にお世話になりっぱなしなのだ。感謝している。
 といっても、出張教室にたいする不安は簡単に拭えない。湯川マスターは夏以降の契約を考えているようだけれど、契約が続くとなれば一年はカフェ仕事にかかりきりになる。教室が軌道に乗るにも時間がかかるのだ。他に自宅教室も続いているとはいえ、一年もカフェ教室にたいする根気が持つのかが、正直なところ自分でも疑問だ。ユミにいろいろ聞いてほしいことがあるものの、彼女も仕事が忙しくなったらしく長電話できる様子ではない。
 心に重圧がかかっているような感覚が、出張教室後から続いている。その感覚には覚えがあった。会社で働いていたときのことだ。あのときよりも事態はまだ十分マシだ。そう思える自分がいるから、まだ良いのかもしれない。
 自分のしていることがただしいのか、ただしくないのか。押しつぶされそうな気持ちを煎茶道と茅世の存在でつないでいる。自宅教室が中心だったときは、本当に心情穏やかに過ごせていた。しかし、今更戻りたいとも思わない。その気持ちがカフェのお仕事に強く向いている。
 この間、晴海パティシエには「ずっと文乃センセの味方でいる」という言葉をもらった。彼と会話をすることは楽しいし、仕事外でもよく連絡を取り合う仲だ。好意を持ってくれていることは素直に嬉しい。
 彼の母親で経営者の湯川マスターも、今のところ和風カフェの試みを善し悪し関係なく楽しんでいるようにみえる。お互いできることを最大限に発揮する場にしよう、と、マスターと話している。その分、話し合いの時間も長く、自宅にいる時間は少なくなる。
 茅世が私の見ていない合間に何をしているのか、今は考える余裕もない。気にしなくても大丈夫だと思うことは、茅世を信頼しているからなのか、彼女のことを考える余地がないだけなのか。私は、前者であると思いたいのだ。
 毎日家事の最中もあれこれ考えて、気持ちの浮き沈みを繰り返している。一時期の茅世の様子に今の自分はよく似ていた。手元を見ればブランチに使った食器の片づけは、皿一枚を残して終わっていた。水は五月の気候から冷たさが緩まってきている。こまめに掃除しなければならないほど古い流し台だが、水漏れを起こしたことはないから偉いと思う。蛇口から落ちる水の音だけがけたたましく気になるくらいで、今も現役でいてくれている。
 端に置いた濡れ食器置き場の下からプレートを引き出して、いらない水を捨てた。食器片づけは手を動かすだけで考えごとができるから嫌いではなかった。洗濯干しもその点は似ている。
 両手を洗って蛇口を閉めれば、遠くからかすかに水の音が聞こえてきた。今、茅世はお風呂場にいる。食事の後で、彼女はシャワーを使いたいと言い出したのだ。ちいさい身体だけれど、一人で風呂場を使うことはできる。ブランチまで甚平姿だった彼女は、お風呂の後で小袖に着替えると言った。和服はすでに準備済みだ。いつもお稽古場で着付けをする。今日着る文様は、茅世が一番気に入っている絵柄だ。
 長い連休のせいで、変則的なスケジュールが今週末まで続く。休みも同じように変則的だ。今日は元々自宅教室指導にあたる曜日だが、休みになっている。自宅教室と祝日が重なれば生徒と相談して日にちを振り替える。多くの生徒がそう望むのだ。会社にいた頃は嬉しかった祝日だけれど、今は日常が変則的になる主な原因となっていてあまり好きではなくなった。
 少ない休日を、私は茅世と共に過ごすことに重点を置くようにしている。意識して彼女と接しなければ、彼女のことを忘れそうになるくらい仕事のことで頭がいっぱいになってしまうのだ。今年になってから、茅世を一人にする日々が続いている。本当は一人きりにしたくないが、そうはいっていられない。彼女も一人で家にいることは嫌いではないようだし、不満は今のところ聞いたことがない。それに、私の知らないところで彼女の世界があることは知っている。そうでなければ、外に出て花をもらってきたり、感情の浮き沈みや考えごとにふける様子を説明できない。彼女に問いただしても、彼女の世界は秘密のようだから無理して聞かない。時間をかけて、話してくれることを待つつもりだ。
 休日は茅世と二人で過ごすことも多いが、それだけでは物足りないと私も思うようになっていた。不規則日程が終わった翌日は、都合よく圭介さんが自宅に来る予定だ。茅世は彼のことがとても好きなようで、次に家へ遊びに来るのはいつかと聞いてきていた。そのことをメールで彼に伝えたところ、時間を割いて昼から遊びにきてくれることになった。彼に煎茶のお手前を見せる機会ができたことも、私としては嬉しくテンションもあがる。
 割烹着を台所で脱ぎ、私は水音がする方へ足を向けた。茅世に声をかけて、彼女が出てきてから着付けをする。その後は窓を開け放って、掃除がしたい。自宅を教室の場として使っているため、こまめに掃除をしなければならなかった。
 脱衣場に足を踏み入れれば、シャワーの音が止まった。曇りガラスの向こう側に、幼い身体が見える。耳と尻尾が見えていた。
「茅世、終わった?」
 昨夜もお風呂に入ったのだ。髪は洗わないと言っていたのだから、単に気持ちをさっぱりさせたかったのだろう。茅世がドアを開けた。
「うん、タオル」
 濡れる裸の彼女に、私は側に置いていたタオルを差し出す。茅世一人でも身体を拭くことはできるが、つい手を貸したくなって「おいで、」と、しゃがみながら呼んだ。彼女からタオルを受け取って、拭き足りない部分を探す。体型は出会ってから変わらない。髪の長さも、だ。茶色の毛が覆う尻尾と、湯を被った三つ編みの毛先をきつくタオルで搾り取る。獣耳が少し下がる。耳に水はかかっていないようだ。上手にお風呂にはいっている。
「寒くない? タオル巻いて、パンツはあるよね」
「うん、そこ。履いたら、お稽古場?」
「そうよ」
「自分で行くから、」
「なら、先行ってるわね」
 前は私が手を貸すことを喜んでいた節もあったが、最近の茅世は自分でしたがる。一緒にお風呂に入るときも、髪の毛を洗う以外は自分でするようになっていた。今まで手を貸しすぎていたことも確かで私はおとなしく彼女の言うとおり場を離れた。お稽古場での着付けは私の力が必要だ。彼女の幼い身体で、一人着付けするのは少し難しい。
 茅世の身体は成長を止めている。容姿を見ていれば、何も変わらないような錯覚すら覚えるが、彼女の心は二年前より確実に成長していた。ここ最近は人の手を借りることを拒むようになった。それ以外は変わらない。むしろ二人きりで生活する日々が当たり前のだったときのような素振りでよくしゃべる。人と話すことが好きな元々の茅世に戻っていた。
 お稽古場の木扉を引いて、畳間へ入る。長く待ちぼうけることなく、彼女はすぐに現れた。タオルを胸元まで上げているのが、ませはじめた女の子そのままだ。茅世は帯の結び方にも注文をつけるようになっていた。リボンのように派手な結び方をするものが最近の流行らしい。
「髪の毛、後でちゃんと梳くから、ちょっと上げていい?」
「いいよ。少し待って足袋、……あ、見つけた」
 そう言いながら、茅世は足袋を拾って畳に腰をつけた。私は彼女の後ろに回って正座する。両サイドにわけていた三つ編みをまとめ、邪魔にならないよう団子にしてゴムでまとめる。湿っている毛先を着物に当てたくないのだ。ついで、ひょこひょこ動く獣耳にひかれて頭を撫で耳を触る。いつも彼女と同じ体温をはらむ耳は、本当に触り心地がよい。尻尾よりも、耳毛のほうが私は好きだった。
 私が手を離すと、両足袋を履き終えていた茅世が立った。タオルを剥いで子ども用襦袢を着る。茅世の手さばきでは後々着崩れを起こすため、私の手がいる。彼女は大人しくなすがままになった。
 黙った茅世の顔が間近にある。まつげは長く瞳は焦げ茶と深い灰色が混ざる不思議な色だ。その光彩は、飼い猫だった頃の面影が強いと私は思っている。頬は赤みを差し、ちいさい鼻とくちびるがあった。人間の女の子と混ぜても、可愛いと称される顔立ちをしている。猫の頃も細身で美人だと言われていた。茅世が成人の身体に変化できたのならば、美しい女性になるのだろう。
 不思議な存在で摩訶不思議な能力を持つ茅世に、成長することがあるのかはわからない。記憶を消す力を持つことを知った今、茅世がどのような能力を他に保持していても驚かない自信が私にはあった。
「文乃、」
 襦袢を着付け、小袖を羽織った茅世が私の手を止めた。
「どうしたの。襦袢に違和感ある?」
 彼女は首を振った。ちいさい指が、私の手に触れた。水仕事が多いせいで、荒れるようになった手だ。
「文乃。わたし、行くよ」
 茅世の目が真っ直ぐ私に向いていた。茅世が自分のことを「わたし」と、言ったのははじめてだ。私はまずそちらに気が向いて、茅世の黒目を見つめる。
「どこに?」
 自分で口にしながら、茅世の落とした言葉にたいして違和感が増す。彼女は普段どおりの表情をしたまま、口元を開かない。それは、脳裏で行き着いたひとつの予想を強大にしていった。
 私は小袖から手を離した。
「茅世、どこに行くの?」
 胸に広がるのは、今まで感じたことのないほどの不安だった。その先にある、感情を振り切りたくて茅世の言葉を待つことなく口を開いた。
「まさかそれは、行ったきりになるってことじゃないのよね?」
 否定の言葉で問いかけたのは、私が認めたくないからだ。この予感を認めたくなかった。混乱してくる頭の中を理性で制しながら、茅世の表情を伺う。どう言えばいいのか、悩んでいるようにも見えた。
 心に訪れた感情の名を、私はよく知っていた。二年前にも味わったものに似ている。
 喪失感だ。
「……もう、戻ってこないの?」
 口にすることすら怖ろしい言葉を、私は勇気を出して茅世に訊いた。彼女の顔が固くなる。そして、頷いた。頭が真っ白になる。どもりそうになる声に冷静さを求めながら、私は言葉を投げかけた。
「い、今すぐ行くの?」
「……ううん、夜までに、」
 茅世の声がちいさい。躊躇いながら伝えてきた言葉から、私は茅世の感情を汲むことができなくなっていた。
「夜までって、茅世。それは、延ばすことはできないの?」
「できないよ文乃。もう、延長ができないの、」
 彼女の声が高くなり、私は羽織る裾をつかんだ。
「なんで、なんでもっと早く言ってくれないの。私まだ……まだ何も準備できてない、」
 ひどい。茅世に非難を吐露しそうになって、息を止める。くちびるをかんでいた茅世が、顎を引いた。
「本当はあのときと同じで、なにも言わないで出ていくつもりだったの。わたしは、その機会をずっとさぐってた、」
 はじめて聞く彼女の心情に、私の鼓動が速くなる。いろいろなことが思い起こされる。何も言わず出ていく風景を想像して寒気がした。猫だったときのチセは、本当に何も言わずに出ていったのだ。彼女の発言は本心だっはずだ。
「聞いて文乃。チセは、本当はここに居てはいけない存在なんだよ」
 私を諭すように、彼女が紡ぐ。そんなことは理解っている。私もそこまで鈍感になっていない。それでも、茅世がいることが私の日常になっていたのだ。
「知ってるわよ、そんなこと。でも、今までうまくやってきたじゃない、」
 そういう問題ではないことを、一方の自分はわかっていながら茅世にすがった。理解できても感情が追いつかない。私には、別れが早すぎるのだ。まだたったの二年だ。今月から三年目になる。茅世は賢く、余計な言葉はかたちにしない。弱音を吐くのは、いつも私だ。
「茅世、……私はまた一人になるの?」
 ポロッと出たかすれ声に、茅世はすぐ反応した。
「文乃違うよ、一人になんかしない」
 茅世が私の小袖をつかんだ。真っ直ぐの瞳が、私を映していた。きれいな瞳の色を、いつもきれいだと思うのだ。
「わたしの心は、ずっと文乃に寄り添っているよ。これからも、文乃の悲しみは茅世の悲しみで、文乃のしあわせは茅世のしあわせなんだよ」
 彼女の瞳は潤んでいた。別れが辛いのは、私だけではないことを今更ながら気がついた。
 置いていかれる者も辛い。けれど、置いていく者も同じくらい苦しいのだ。
 茅世が出ていくと言った以上、私ができることは彼女の意志を肯定することだけだ。
「文乃、遠くからになってしまうけど、ずっとずっと文乃のことを見てるから、」
 そう言葉を続ける彼女が、感情のままになっているのがわかる。茅世もどうすればいいのかわからないのだろう。苦しいほどこみ上げる想いと、離別のショックを押さえ込む術を彼女できないのだ。
 だから、猫のときは文乃に違和感すら抱かせないまま、姿を消したのだろう。そして今回は、直前まで別れのときを伝えなかった。一度私との別れを経験している彼女は、事前に別れの日を伝えることの息苦しさを知っていた。猶予の期間は、別れが現在進行形で続くようなものなのだ。彼女なりの、やさしさであり弱さだったのかもしれない。
 別れに人間も動物も関係ない。そして、別れが上手なものなど、そう多くなかった。文乃は茅世の言葉に頷いた。
「わたしは知ってるよ。文乃は人をしあわせにする力があるって」
 そう続けた彼女に、私はようやく微笑むことができた。
「茅世、」
 絶望の淵から引っ張り上げようと真摯になる彼女の言葉に、私は感謝した。見送る側がしっかりしなければならないのだ。
「あなたも、私をたくさんしあわせにしたのよ」
 今伝えなければ、二度と伝わらない言葉がある。口にすれば、茅世の瞳から大粒の涙が落ちた。次々に滑り落ちる涙を止められず、彼女はちいさな両手で顔を覆う。別れを口にする茅世のほうが、私よりも苦しいのだ。うめくように声を殺して泣く彼女を見て、たまらず抱き寄せた。熱のこもる身体が愛しい。私もこみ上げるものに耐えきることができなかった。伝う涙を拭おうと、何度も片手を頬に当てた。
 茅世が出ていくと決めた小袖は、門出の晴れ着になった。夜までまだ時間はある。茅世の身体を軽く離して、片手で顔を拭くものを探す。畳に広げていた着付けものから布切れのような手触りのものを見つけ、私はこぼれる涙を拭いた。茅世の晴れ着を私の涙で汚したくない。
「茅世、着付けの続きしようか」
 私はすっかり鼻声になっていた。身を離された茅世が、顎を上げる。悲しみに彩られくしゃくしゃになった顔が、私の顔を見て輝きを変えた。
「ふ、ふみの。それ、足袋、」
 声をうわずらせる茅世につられ、涙を拭いていた布切れを見る。茅世の使い古された足袋が涙で濡れていた。はじまった笑い声は、茅世のものだ。私も途端におかしくなる。よりによって一番黄ばんでいる足袋ではないか。
「ちょ、ちょっと、やだ!」
「文乃、きったないよ! あはは、お、おなかいたいっ」
 さながらに短時間で喜怒哀楽を繰り返した私たちは、顔を拭いてから着付けを仕切り直すことにした。私もいくらか冷静になって、なぜ行くことになったのかを茅世に訊いた。
 元々長くはいられないことになっていたようだが、一番は結婚するからだという。その理由に私は一番度肝を抜いた。しかし、言われて思い返したことがある。相手は茅世に花束をあげた子なのだろう。「その体型で結婚できるの」と問い返せば、首を横に振っただけで何も教えてくれなかった。おそらく体型も変えられるのかもしれない。人の記憶を消すことができる茅世だ。それくらいできそうな気がする。
 着付けを終えて、茅世の髪をとく。すべてこれが最後の機会なのだと思いながらしていることは、心の内だけにとどめていた。彼女も同じことを思っている気がする。このたびも二つ分けの三つ編みでいいというリクエストが来た。それだけでは物足りないので、花飾りを添える。
「茅世、ひとつ訊いていい?」
 まだ少し目の赤い少女に私は声をかける。鏡に映る彼女を、ユミは前に『大人っぽくなった』と称した。今嫁ぐと知った彼女を見て思う。容姿は変わらないが、確かに表情がより大人っぽくなった。
 私の声に、頭を動かさず「うん」と言った。
「茅世は行ってしまったら、私の記憶も消しちゃうの?」
「消さないよ!」
 反射したような返答で、首を私に向けようとする。しかし、私がその頭を固定していた。
「ごめん、動かないで」
「あ、ごめんなさい。消さないよ。そんなことできない。覚えていてほしいの。……でも、もし文乃が消したほうがいいっていうなら、」
 声がじょじょに小さくなる。私は垂れた獣耳をつついた。
「一生茅世のことは覚えているわよ。たとえ消されたって、」
「絶対消さない!」
「あはは、ごめん。さて、この花飾りをこう添えて。どう?」
「このお飾りすごくいい。好き。ありがとう文乃」
 勢いづいていた彼女の声が、満足したものに変わる。
「どういたしまして。さて次は、そうね。食事してから行く?」
「うん。食べたい料理言っていい?」
「もちろんよ。そうしたら、先にスーパー行かなくちゃね。茅世も来る?」
「うん、行く」
 すべてに吹っ切れた私たちは、外に出ることも茅世と一緒に何をするのも物怖じする必要はなくなっていた。いつものように茅世は帽子をかぶって耳を隠す。
 その姿を見て、私は思う。彼女が行ってしまった後、どこかでまだ心のより場を探すように、茅世が居なくなった場所で彼女を探すのだろう。押し寄せる日常に、途方に暮れてしまうのだろう。
 ただ、茅世の手を離す最後のときまで、自らの目に彼女のすべてを焼き付けていきたい。



 人は今日が最後の日だと宣告されたときに、何ができるだろう。私は、結局茅世がいなくなる日もいつもと変わらない方法で過ごしていた。
 玄関を自分の手で閉めた茅世を見送って、私は一人玄関のたたきに長いこと呆然と座り込んでいた。日はとうに暮れ、闇がすりガラスの引き戸に染まっている。
 今草履を履いて玄関を開けたところで、すでに彼女の姿はこの世からなくなっている。元々、彼女はこの世界に居てはいけない存在だったのだろう。そして、彼女には彼女の生きる次元があったということだ。
 そんなことは関係なく、傍にいてほしかった。
 しかし吐露したところで、世界は覆らない。私は重い脚を持ち上げた。立ち止まる私の姿を、茅世は望まないからだ。
 茅世は私のことを「誇りにしている」と、言ってくれた。そう言った彼女は、どこかでずっと私のことを見守り続けているのだ。
 ずっと彼女の誇りある自分でいたい。それは、私自身のためでもあった。
「さて、」
 独り言と共に振り向く。お互い泣かずに、見送られ、見送った。大切な家族であり、友人でもあった茅世。彼女の人生が違う場所で歩みを続けるように、私にも進むべき道がある。
 薄暗い廊下は、私たちの歩く



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