* 柔らかなしとね、第1話 *


 1.

 神社の境内をつなぐ緑の回廊は、小高い丘から斜めに下って平行に二本伸びていた。その中で、本堂寄りの少し長い坂が、瑞穂のお気に入りの場所へ行ける歩道だ。
 本堂の裏手には鬱蒼とした森が広がっており、以前から近所の子どもたちにとっては格好の遊び場になっていた。神社の林道は探検にもってこいの場所だ。瑞穂を含め皆、幼い小学生の集まりだったから、深いことは考えず神社や森に立ち入った。誰かがこの森に大蛇がいると言いだしても、奥に底なし沼があって龍神様が住んでいると信じていても、冗談と決めつけ笑い飛ばすことはせず、皆固唾を飲んで聞き入った。実際、この周囲の地名には、龍や弁天といった名がつけられており、現実味のないはずの事象も、本物のようにみせる土壌があった。
 瑞穂にとっても、近所の神社は大切な場所のひとつだった。有名な神社ではないが、町内で一番大きく名は知られている。普段は静かでも、人気ある祭事では大きな賑わいをみせた。そこでは、木材でつくられた高台が設けられ、氏子や選ばれたひとたちが紅白餅やお菓子をばらまくのだ。祭りに集まった人々のなかでも、とりわけ子どもたちがその行事に喜んで参加し、戦利品を得ようと駆けまわる。投げられる餅や飴などの食べ物をキャッチして、取れた数を競うためだ。
 瑞穂の三つ上にあたる姉は、神社が管理する会館の二階で習字を習っていた。瑞穂は内向的な姉と性格があわず、外で遊ぶことが多かった。暑い夏こそ、彼女は率先して神社を遊び場にした。神社の敷地内は木陰が多く、風が心地よく通っていた。遊びの休憩をするときは、手水場を利用して水分の補給をする。罰あたりなことかもしれないが、瑞穂たちからすれば、手水場は手や口を清めるところなのだから、その水を飲んでも身体に害はないだろうという解釈があった。手水場の水は、井戸水だったのかもしれない。盛夏でもとびきり冷たかった。瑞穂たちは、大人の目がないことを確認してから、柄杓で腕や足に冷たい水をかけ涼をとる。そして、また階段を駆け出すのだ。
 いつしか、瑞穂は一人で神社へ赴くようになっていた。
 きっかけは、友人たちと隠れん坊をしていたときだった。二本の坂のひとつを駆け降りた先に、とてもすてきな場所を見つけたのだ。神社の坂は二つとも本参道から横に外れていて、いつも人気がない。天辺にある境内から見下ろすと、剪定された低木が両端に続いている静かな道だった。
 少し長いほうの坂道には三カ所、右側の緑がぽっかり開いている出入り口があり、そのなかにはそれぞれ社が設置されていた。風は、あらかじめ決められているのかように境内から坂を下って吹く。瑞穂はいつも背中を押されるようにして向かった。
 右側の敷地に点在する小さな社は、全部で三つ。三つ分の入り口を、瑞穂はかならず数えながら前へ進んでいた。小走りで下りながら三つ数えなければならないことは、小学生の瑞穂にとって少し不思議に思えることだったが、数えていなければ絶対に三つ目の入り口へ辿り着けない。だからいつも、ひとつずつ社を目に留めながら通るのだ。
 一つ目は石の社、二つ目は木の社、これらの出入り口は数えなくてもかならずあった。ときどき見つからないのは、三つ目だ。入り口を数え走っているときでも、社へ挨拶したくなれば、それぞれの末社へ足を踏み入れて手をあわせる。
 瑞穂は目に見えなくても、社には神様が入っていると強く信じていた。目に見えないからこそ、社それぞれのかたちが好ましく興味深く感じられた。暇なときは、すべての社をひとつずつぐるりとまわって、どういったつくりになっているのか、どこかに神様のしっぽのようなものが落ちていないか、胸を躍らせながら確かめる。そのなかで、瑞穂が一番好きなところは、三つ目の末社だった。誰にも教えていない場所だ。自分のものにしておきたかった。
 いつもより少し多く坂を下る感覚が訪れれば、三つ目の末社の入り口が大抵あらわれる。瑞穂は今日も、大好きな場所を無事見つけられたことに安堵した。頭上は快晴の空で日差しは強い一方、刺すような暑さはない。三つ目の社のそばは四季に関係なく空気に色がなかった。
 瑞穂は笑顔になって、磨かれた石畳へ足を踏み入れた。それだけで、心が洗われたようにスッとなる。この神社の敷地のなかで、一番綺麗で清潔な社だ。新しく祀られた場所なのだろう。
 低木に囲われた敷地は一軒家分より狭く、正面に二つ分の社台が鎮座している。御影石のようなものでできた石彫りには、二名の神様がいて、色は右側が灰色、左側はそれに黒光りする石を組んでいた。石で彫刻のようにずっしりと立てられた中央に、それぞれ小さな社が置かれている。
 この場に辿り着くと、瑞穂はかならず右から順にお参りするが、特別気に入っているのは左側だった。石碑には神様の名前らしき文字が刻まれていたが、瑞穂にはどう読むのかわからない。ただ、かれがとても好きだった。
 ひやりと冷たい石造りのフォルムを触る。黒石が混ざる重厚な姿は、瑞穂の最もお気に入りとする部分だ。硬そうなのに女性的な趣がある。瑞穂はできるだけ社台に近づき、背伸びをして向こうを見つめた。敷地の三分の一を陣取る石造りの社台は、この神社に祀られるものたちのなかで唯一、裏側へまわり込めないつくりになっていた。瑞穂は見えない裏側へ思いを馳せる。
 空気がとても澄んでいる末社だった。いつ来ても、つくられたばかりの新しい社に見える。足下の石も毎日念入りに磨かれているようだ。この社だけは、誰かが大切に手入れしているのかもしれない。瑞穂は漠然と思っていた。瑞穂と同じように、この場所に魅入られたひとがいるのかもしれない。
 駆けまわることが好きな瑞穂も、この場にいるときだけは心を落ち着けて敷地内に佇んだ。動きまわる必要がなかった。この場所にいるだけで、すべては満たされる。
 そばにある黒石を手でなぞった。ひたりと冷たさが伝わる。社を囲う石のかたちを見つめながら、いつものように瑞穂は願う。
 この社の神様に会えないかな。願えば会えないだろうか。黒石で祀られるかれは、きっととてもやさしいひとだ。
 見上げれば、蒼空が美しかった。明るい日差しはずっと熱をはらんでいない。これほど静謐に満ちたところを瑞穂は知らなかった。透明でありながら、強烈に惹きつけるなにかがあった。瑞穂はその場所をとても深く愛していた。ずっと居られるのならば、ずっと居続けたいと思っているほどだ。
 磨かれた石造りのひとつに、彼女は軽く腰をかける。空と囲う緑と、かたちのない空気を見つめていた。そこにあらわれる確かなものを待つように、見つめて続けていた。



... back