* 柔らかなしとね、第2話 * | |
2. 「あのさ、夢に見たことが、現実になったりしたことって、ある?」 テーブルの向かい側に座る理香が、神妙な顔つきで話を切り出した。カフェ内の雑音から拾った目の前の声に、瑞穂は首をかすかに傾け、マグカップを持ち上げた。暖色の明かりが、木目のテーブルを滑る。 「それって、正夢ってこと?」 「そう、そんな感じの」 羽織っていたカーディガンの裾を整えながら、理香は問い返された言葉に頷いた。彼女の手元にも、大きなマグカップが置かれている。店員から届けられて一五分も経過していないが、どちらの陶器も冷えていた。店内の空調が効きすぎているせいだ。 ショッピングを終えて入店したカフェは、都会の休日らしく賑わっていた。マフィンがおいしいことで有名なカフェだが、今回は二人とも飲み物のみの注文だ。昼食にビュッフェを選んだせいで、いつも頼むマフィンにも食指が動かない。それに、まだ行きたい本屋や食材屋が残されており、カフェに長居するつもりはなかった。 盛夏を乗り越えたはずの季節は、寒暖の差ばかりを押し広げて前へ進んでいた。盆をすぎても、日中は太陽光が街を熱している。今年は残暑が厳しいという。瑞穂の行きつけにしているカフェは、すべてエアコンの冷気をきつくまとっていた。仕方なく職場にいるときと同様の薄い上着に、温かい飲み物を注文している。向かいに座る理香もそれは同じで、ひとつ前の話題は効きすぎた空調についてだった。 そこから突然方向転換された話に、瑞穂はブレンドコーヒーを飲んで首をひねった。唐突に主題が飛ぶ理香の会話には慣れている。 「正夢は……ない、と思う。理香、どうしたの? 夢が現実にでもなったの?」 「……うん。これといったことでもないんだけど、……こないだね、」 瑞穂が否定も肯定もしなかったことから、理香は神妙な顔つきを少しゆるめて話しはじめた。 「一年くらい前に見た夢なんだけど、出てきた場所と人が、そっくりそのままあらわれたの。数日前に、」 彼女はそう言った。夢の記憶がはっきりしているのは、それが職場の玄関であったことと、見たことのない顔の女性だったからだ、と、言葉を続ける。 その女性はとても背が高く、きれいで落ち着いた雰囲気をしていたという。それに加え、職場で新規に開拓される事業の補佐に抜擢されるという、夢の内容にも違和感があった。だが、夢にしては現実とつじつまが合い、生々しかったせいで理香は覚えていたのだ。そして、実際に彼女が目の前にあらわれたことで、気が動転してしまったらしい。職場では親会社の都合で新たな部署がつくられることになっていたそうで、彼女の登場とともに理香のそちらへ配属が決定したというのだから、聞くかぎり夢のとおりということだ。瑞穂は、それに黙って相づちを打った。理香はそれを、正夢だと考えているらしい。 彼女がスピリチュアル系に凝っていることは、何年も前から友人をしている瑞穂もよく知っているところで、この手の話は何度も聞いている。世間話の一環として聞くぶんには、瑞穂も好きだった。彼女自身も雑誌の占いを楽しむところがある。 「私もう、はじめてだったの、こういう感じの!」 「あれ、はじめてだっけ?」 意気込んで話していた理香に、瑞穂はとぼけたように返した。今まで聞いてきた話は、前世を見てもらっただとか、色診断の結果がどうだった、タロットをしてあげるなど、能動的なことばかりだったかもしれない。理香は改めて声に力を込めた。 「はじめてだったの! これ正夢じゃない? 今も信じられないんだけど、」 スピリチュアルパワーに憧れている理香でも、実際に遭遇して訝しく感じたようだ。不思議体験に嬉しいのかと思えば、複雑な表情を見せていた。 「確かに、不思議な話だと思うけど。それで、理香は信じないの? この現象、」 念願の初体験じゃない、と、瑞穂が言えば、彼女は首を傾げてマグカップの中身をすする。理香の飲み物はカモミールティーだ。瑞穂は、私もそうすれば同じ飲み物にすればよかった、と、少し思いながらそれを見つめる。 昨夜の瑞穂は、帰社後に夜更かしをしてしまい、寝たのが夜明け少し手前だった。理香と会う昼前から、外で一件済ませる用事があって、睡眠時間が足りていない。瑞穂は終始意識して、飲み物をブラックのコーヒーのみに統一していた。先ほどまで、気を抜いたら眠ってしまいそうな心地だったが、今は持ち直して理香の不可思議な話に快く相づちを打てるほど回復している。明日も休日で予定もないのだから、休息は帰宅してからにすると決めていた。冷めきったコーヒーは、もう飲みたくもない。 「実際に起きたから信じるけど……ううん、でも信じられないなあ。信じるとか信じないとかじゃなくて、不思議なの。なんなんだろう、この感覚、」 整理がつかないから、親しい友人に聞いてもらいたかった。そういう思いが、理香の顔から滲み出ている。瑞穂は、彼女の抱えているものを憶測でしか考えられない。正夢など体験したことがないのだ。深く考えなくてもいいんじゃない、と、答えた。 「それに、夢自体は悪い感じじゃなかったんでしょう?」 「うん、そうなんだけど」 「ならいいじゃない」 淡々と返答する瑞穂に、理香は神妙な表情を崩さない。 「……瑞穂さ、こういう話して、私のことおかしいとか思わないの?」 そう問われて、彼女はようやく理香が自分の顔色を伺っていたことに気づいた。頭がおかしいと思われたのではないかと不安になっているのかもしれない。その様子に苦笑した。理香は周囲の評価を気にするところがあるのだ。 「思わないわよ。だって、理香は元々そういうこと好きじゃない。それに、不思議なことでも、実際に起きたわけでしょう?」 「うん」 「そう思うなら、それでいいんじゃないの。ポルターガイストとか、記憶が飛んで気づいたら知らないところにいたとか、そういうヤバそうな話だったら別だけど、」 瑞穂は、彼女の言い分を突き放したように返す。このせいで、昔から女の子たちに怖がられていた。理香など瑞穂の元に残った友人は、彼女の言い種に慣れている者ばかりだ。 理香も瑞穂の言葉に、そうだよね、と、ようやく安心したような表情を浮かべた。瑞穂はそれを見届けて、ウェイターを呼ぶ。目の前に見えるものと同タイプのハーブティーを注文した。理香が黙っているところを見ると、正夢のことを肯定的に反芻してはじめたようだ。 瑞穂がスピリチュアルな話を聞いてところで、うらやましいだとか、一緒にパワースポットへ出かけたいだとかは思わない。単純に聞くのが好きなだけだ。理香は己の趣味を押しつけることはなく、新しい世界に覗いてみたい瑞穂を上手に刺激してくれる。 彼女自身も最近、読書で不思議な能力にまつわる小説を読んだばかりで、こうしたジャンルにたいして寛容になってきていた。元々の瑞穂も、幼いときは宇宙人の存在や心霊写真を信じていた。信じたほうが、おもしろかったからだ。 会話を続けてこない理香から目を離し、瑞穂は購入したばかりのブラウスの仕立てを見直そうと紙袋を手にした。出回りはじめた今期の秋物服は、好みのデザインが多い。冬のバーゲンは散財が増えるかもしれない。 「瑞穂もさあ、」 夢と現実の記憶を一巡させたらしい理香から、名前を呼ばれた。なあに? と、紙袋を膝元に置く。 「そういうことって、出会ったことある?」 「どういう? 正夢のこと? ないって言ってるじゃない、」 「正夢じゃなくて、ほかにもさあ。ちょっとくらいなんかあるはず、」 理香の目を見れば、わずかな期待がともっていた。年齢のわりに童顔な友人だ。正夢を見たと言われても、夢見心地だと一蹴されそうな雰囲気がある。本人はそれをわかっているのだろう。そして、瑞穂との共通意識が欲しくて投げかけてみた問いだ。 「そう、言われてもねえ。……なかったと思うけど、」 期待されてしまったので、瑞穂は幼少期の記憶をさかのぼる。子どもの頃に住んでいた田舎では、いろいろな迷信や言い伝えに胸を躍らせて生活していたが、大人になってどれも現実味がないと気づいてしまっている。正夢やデジャヴ、金縛りも遭遇したことはない。 だが、そういえば、と、瑞穂は理香の顔を見た。 「うちの母親が子どもの頃、たまに火の玉見かけたって言ってたわよ」 「え、火の玉!」 理香の表情が一気に明るくなった。久しぶりに聞いたという火の玉現象について、瑞穂は母親に話されたとおりに伝えた。 田舎、夕暮れ時、葬式、宙を浮く火の玉、そうした怪奇現象が起きそうな単語が連なり、理香が人の魂かもしれないよ、と、好奇心に声を浮かせる。瑞穂は幼いときから肉親に聞かされていた話で驚きもなかった。田んぼの多いあの田舎ならば、ありえる、と、思えたくらいだ。 ウェイターが会話の端からあらわれて、ハーブティーを置いていった。 「でも、瑞穂はそういうのないの?」 「私?」 「そう、一度くらいない?」 出来立てのカモミールティーに湯気が立つ。その薄いもやを見ながら、瑞穂は自分の身に降りかかったことのある、不思議な現象というものについて考えた。 特に怪奇現象で驚いたことはない。家族や親戚にも霊感が強い人間はおらず、肝試しに怪奇スポットへ赴いたこともなかった。怖がらない子どもだったから、神社や寺、墓地がある通りを夜出歩くことも厭わなかった。元実家があった近所の神社を遊び場にしていたくらいだ。 瑞穂は、その神社へ赴いたときのことを思い出した。 二週間ほど前、短い夏期休暇の実家帰省のついでに、中学まで住んでいたところへ友人を訪ねに行ったときのことだ。 現在の瑞穂の実家は、新幹線の通る隣の市に移っている。以前実家が在したところは、新幹線駅から在来線を経由する必要があるものの、友人たちがそれなりの数残っており、今回の休みの暇を使って数年ぶりに訪れた。その地に残る友人たちは皆結婚して子どもがいる。会うといっても、ものの数時間程度だ。瑞穂はその日、午前と午後にわけて二組の友人グループと盛り上がった。 「うーん、あったかしら……ひとつ、なんかちょっとヘンなの、っていうのはあるかもしれない」 どれほど考えても、理香の発言に該当するような現象はない。ただ、怪奇というより不思議なことならば、その日ひとつだけあった。それも、瑞穂はどう気持ちに決着をつけるべきかわからず、記憶回路に滞留させたままのものだ。 「それ、教えてくれない?」 少し諦めの入った表情をしていた理香が、目を輝かせて瑞穂を見た。火の玉のときよりも倍反応がいい。瑞穂は、そうした彼女の期待に沿えられるかわからず、たいしたことない話だけど、と、前置きして話しはじめた。 「子どもの頃の話なんだけど、昔住んでた場所の近くに神社があったの。けっこう暗めで緑が鬱蒼としていたところだったんだけど、雰囲気がよくてけっこう皆でそこ行って遊んでたのね」 「神社を遊び場にしてたの? それで?」 「遊ぶにはすごくいいところだったの。車とかが来ないから危なくもなくてね。その神社は広くて、末社を祀るところも多かったんだけど、そのなかでお気に入りの場所があったの。お気に入りで、誰にも教えなかったところなんだけど、そこ見つけた頃はけっこう一人で行ってたのよね」 「それっていくつのとき?」 「小学校二、三年くらいかしら。それでこの間、夏の帰省ついでに十数年ぶりに、その神社へ行ったの、」 午前、午後と別々の友人グループに会う約束をしたせいで、昼時間は半端に間が空いた。午前中の回でケーキを食べてしまった瑞穂は、午後の集まりのことを考えて昼食を抜くことにした。 駅前の喫茶店で時間をつぶすことも考えたが、午後会う友人グループの集合場所近くに、昔よく遊んだ神社があることを思い出して、瑞穂はそこへ赴き鳥居をくぐった。幼い頃、お気に入りにしていた場所が今どうなっているのか気になったのだ。 それは、境内の外れにある末社だ。神社は変わらず記憶どおりの配置で静謐を保っている。お気に入りの場所は、二本ある緑に囲まれた坂の長いほうだったはずだ。瑞穂は昔どおり数字を心で唱えながら歩いた。目的の末社はすぐ見つかると思っていた。 「……でも、あるはずの場所が見あたらなかったの。どれだけ探しても、その神社にないのよ。自分の記憶を疑ったんだけど、絶対にあった末社なの。すごくピカピカできれいだったし、何度も行ったから私の記憶が間違っているはずはないのよね」 しかし、いくら探しても三つ目の入り口がなかった。瑞穂は何度も坂を往復した。坂道を間違えたのかもしれないと、神社内にあるすべての歩道へ足を踏み入れた。子どもの頃決めていたように、少し小走りで三つ数えながら坂を下りても、結果は同じだった。 ひとつ社が足りない。結局最後まで見つからなかったのだ。 「それ、それってどういうこと?」 理香が状況を想像できずに問う。不思議という以前に説明が必要な話で、瑞穂はやはり言うべきではなかったと後悔しつつ、丁寧に答えた。 「その神社に、私がお気に入りにしていた場所はなかったの。つまり、そこは存在していなかったんじゃないかってこと……たぶん」 本当は信じたくない。中学生になるまで住んでいた地元で、そこは最も好きな場所だったのだ。それが存在していなかったという事実は、瑞穂にとって少なからずショックだった。しかし探しても見つからなかったのだ。 「でも、記憶ではあったんだよね? 壊されたとか、改築でどっか移されたとかじゃなくて?」 「それはないわよ。修繕とかの年号も、確認できるものは全部見たもの。最後にきれいにされたところは、二つめの木の末社で、三〇年前だった。それに、たとえ移動されたとしても土地の跡は残るじゃない。でも、その坂の末社は二つしかなかった。もうひとつの短い坂は、元々末社を祀る区画なんてないのよ。あっちは道も広くて、車道なのかしら。私が好きな長い坂は、狭くて末社を祀る用の感じなんだけど……なんていうかな、坂自体も私が思っていたより少し短かったの」 「……でも、子どものときと大人になってからじゃ、距離の感覚が違うんじゃないの」 「私もそう思った。けど、よく考えると、昔三つ目の社を見つけられたときは、いつもより坂が長いと思った記憶があるの。第一、その坂は二つ分くらいしか末社の出入り口をつくれないほどの距離だったのよ。それは当時もわかっていたはずなんだけど、三つ目の社があったことも確かなはずで、」 「おかしくない?」 理香が眉を寄せた。だから不思議な話として、瑞穂が話したのだ。 「だから、おかしな話でしょ。子どもの頃の記憶だからおぼろげなところはあるけど、……あの場所、絶対あったはずなのに」 瑞穂の記憶のなかには確かにある、あの場所を反芻する。 他人にこのことを話したのははじめてだった。とても説明しにくい内容だが、胸の内に秘めていたことを表に出すと、瑞穂自身が冷静になれる。 瑞穂は、末社が異様に綺麗だったことを思い返した。御影石か大理石のような、ピカピカした石材を豊富に使った場所だった。末社にしてはお金をかけすぎだったのではないだろうか。本堂よりも美しく、よく手入れされていることは、今考えれば不自然だ。 やはり、自分が記憶を改竄してつくりあげた、架空の場所なのかもしれない。理香は、自身の正夢話を語ったときよりも神妙な表情で黙っている。 実際に瑞穂がした話は、本当におかしな内容だったのだ。場の雰囲気までおかしくなりそうで、瑞穂は話題を変えようと息を吸った。 「なんか、神隠しみたいだね」 理香の言葉に、彼女は不意打ちを食らったように目が点となった。 「なにそれ、」 「そこ、たぶん瑞穂だけが行けたんでしょ?」 「……誰も連れていったことはないから、わからないわよ。それに、そこへ行っても普通に帰って来れたし、親に捜索されたこともないわよ。神隠しって何日もいなくなっちゃうんでしょう?」 「そうだけど。じゃあ、帰るときの記憶ある?」 真面目な表情に、瑞穂は気圧されて過去を掘り返す。 「普通に帰ってた記憶があるけど、」 「その場所を振り返ったことは?」 「振り返る? ……その末社を降りるときは、振り返ったと思うけど、いつも坂を上がるときは振り向かないで帰ったわね。夜は暗くて危ないから夕方には家帰って……時間を調べたことはなかったけど、あまり長いことあそこにいなかったかもしれない」 それでも、長居していた感覚が瑞穂のなかにある。考えれば考えるほど不思議な記憶が溢れ、理性が常識的におかしいと反論する。瑞穂は困惑した。 「もしかしたらだけど、瑞穂のいう場所はあるのかもしれないよ。でも……坂のどこかから次元がゆがんでるとか」 「次元がゆがんでるって、」 「だから、その場所はこの世にはないのかも」 本気で夢物語の仮説を立てる理香を、瑞穂は笑い飛ばそうとしたが、できなかった。 あの場所は在るが、この世に無い。 それは、瑞穂が今まで考えもしなかったことだった。バカげた推論だが、確かにそうかもしれないと思わせる部分もあった。あの末社の敷地は、あり得ないほど綺麗だった。排他的な清潔さと、心を鷲掴みにする魅力があった。はじめ、幼い瑞穂は天国のような場所だと思ったのだ。天国があるのならば、間違いなくこうした空気のところなのだろう。子どもながらにそう思って、あの場所を愛した。 「まるで、神隠しされた子どものほうみたいな。瑞穂はそれをたまたま大人になっても覚えてたんじゃない? 普通、忘れるもんなんだけど」 「……神隠しって、されたほうは忘れるものなの?」 「らしいよ。神様たちが不都合になるからって、記憶を消すんじゃない? その場所で、なにかに会わなかった?」 理香は、神隠し説で対処することに決めたようだ。腑に落ちないながら瑞穂は、彼女の仮説を解決法のひとつとして受け入れることにした。どちらにせよ、不思議な話なのだ。理香から訊かれる部分も、瑞穂が考えたことのない点を突いていて、解決の糸口になりそうだった。 それに、末社での記憶のなかで、すっぽり抜けている部分があるような気がしはじめている。検閲にかかって引き抜かれた映画のモンタージュのような箇所を、瑞穂は感じていた。 理香の、なにかに会わなかった? という言葉は、その扉のひとつを押し開ける呪文になった。 「……私、誰かを待っていた気がする」 答えた自分の言葉で、そのときの心情に確信が満ちた。 幼かったあのときの私は、あの場所で誰かを待っていた。 「かれ、……待って、記憶が抜けてる」 「男の人? 人なの?」 人のざわめきが遠い。口に出したほうが、頭で考えるより記憶に確実性を持たせた。 あのひとは、男性ではなかった。男性ではなかったが、そういう黒い服装をしていた。幼い瑞穂は、いつもなにかを見上げていた。 異様に澄んだ空を、ただずっと見上げていたわけではなかったのだ。 「かれは……、かれとしか言いようがない。それもなんて言えばいいのかしら。かれは、おそらくそういう人とかいうのじゃない。あのひとは、」 ……わからない。 瑞穂は混乱してきた額を押さえる。思い出したい。あの場所に染み渡る静謐さは、この世のどこにもないものだ。そう言っても過言ではないほど、魅力的な場所だった。情景を思い出すたび、あの場所に行きたい欲が出てくる。 今までの生活をすべて捨てて、住んでしまいたいほどの圧倒的な引力があるのだ。 「瑞穂、気持ち悪いの?」 頭を押さえ俯いて記憶の映像を眺めていた瑞穂は、現実に気づいて顔を上げた。白昼夢を見ている気分だった。 「ごめん、違うの。考えてて」 「なら、よかった。この話、神隠しとかならそっとしてたほうがいいような気がしてきた」 突然、罰悪く切り出した理香を瑞穂は見つめる。 瑞穂自身はまだ、自分が神隠しにあったものだと思っていない。その場所が存在する可能性のひとつの方法として、神隠しという仮説を受け入れたのだ。端から不思議な事象であるから、仮説が現実的でなくてもかまわない。 ただ、瑞穂はこの不思議な場所を見極めたかった。探して見つかるようなところであれば、どんな方法を使ってでも行きたい。ないというならば残念だが、それも受け入れられる。現状の中途半端に惹かれたままは嫌だった。 「神隠しかわからないけど、この場所があるのかないのかは知りたいわ。すごく好きなところだったの。いっそ、ないならなくてもいい。おかしな話だけど、理香はあると思う?」 「私は、あると思う」 瑞穂の問いかけに、理香は即答した。そして、なにかを思いついたのか、今までに幾度もほのめかしたことのある人物の話を持ち出した。 「そうだ。私の知り合いに、前世とかが視れるひとがいるの。前にも瑞穂に少し話したことがあったかなあ。もし、その知り合いが紹介してもいいっていうなら、紹介するけど、……そういうのって、どう?」 理香のスピリチュアルな交友関係まで、瑞穂は深く踏み込んだことはない。彼女がときおり持ち出す前世や未来が視えるという人物の話は、それこそ話半分に聞いていたのだ。 「嫌ならいいの、お金もかかるし。私も全部信じているわけじゃなくて、参考程度にしてるだけだよ。ただ、こんな不思議な話なら、そっちの専門の人に訊いてみるのもいいんじゃない?」 無理にスピリチュアルの世界へ勧誘しているわけではないという、理香の弁解に瑞穂は浅く頷いた。 普通にとらえれば、妄想で片づけられてしまう話だった。あの末社は現実的なものではない。それならばいっそ、現実的な判断をしない人に訊いてみれば、おもしろい回答が来るかもしれない。 真剣に過去をめぐらせていた脳裏から、瑞穂は少し離れて表情を取り戻した。 「そうね、一回だけなら。おもしろそうだし」 声のトーンに理香は口元をゆるめて頷いた。そして、いたずらな笑みで、そのときは結果教えてね、と、携帯電話を取り出す。 瑞穂がテーブルに所在なく置かれたティーカップを持ち上げれば、すでに中身は冷えていた。ここ、本当に空調効きすぎよ、という話題にもう一度返って、二人は次に向かう買い物場所の話へ移っていった。
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