* 柔らかなしとね、第4話 *


 4.

 十一月の下旬に差しかかった朝の太陽は、風の冷たさから脆弱になった。室内も必然的に気温を落として、ベッドから起き上がる時間を遅くする。日ごろの寝不足から目覚まし時計を使わず起床した瑞穂は、時刻を確認するとすぐ外出準備に追われた。食事は理香と待ちあわせて摂る予定でいるため、朝食の用意はしない。携帯電話の通知を見れば、理香から待ちあわせ時間通りに着ける、という、文面が送られていた。
 瑞穂もカジュアルな服装に軽いコートを羽織って、家を出た。薄手のトレンチコートは、この季節になってはじめておろしたものだ。待ち合わせ場所で理香に会えば、早速見たことのないコートだと言われた。
「秋物の出はじめに購入したのよ。今年の流行の型みたい」
「とてもいい緑じゃない。発色がしつこくなくて、」
「カーキ色と悩んだけど、こちらのほうが落ち着いた感じだったの」
 そうした会話を続けながら、近間のカフェに入店する。理香が興味を引くトレンチコートの購入日を、瑞穂は珍しくしっかり覚えていた。買った翌週にリノウと接触したからだ。それからというもの、服に使う予定だった持ち金は、ほぼすべて不思議なあの場所を見つけるための活動資金に変更されている。
「……でもさあ、瑞穂。やっぱり、言ってたとこがあったっていうのが、すごいよ。あるんだね、そういう世界。むしろ行ったことがあるって言われたところがすごい。私、リノウさんにそういうこと一切言われたことないもん。聞いても、あなたはないってはっきり言われちゃったし、行けたなんて瑞穂がうらやましい!」
 服の話題、食事の味から、ヒーラーと接した際の報告へと移って、彼女の感想へと耳を傾けながら、瑞穂は到着したチョコレートがけのガレットにナイフを入れた。野外はかすかに植物のにおいがする。風が吹けば少し肌寒いものの、日中はまだ太陽の熱を十分に感じることができる。
 室外のテラスにはストーブも設置され、理香が緑を豊富に置いた中庭のオープンカフェで雑談することを望んだ。瑞穂もそれに異議なくフォークを動かす。スピリチュアルな物事が好きな彼女の言葉を、平然と聞いていた。
 理香はうらやましいと言ったが、瑞穂にとってあそこは憧れの場所ではなかった。在って当然の場所なのだ。あの空気感を理香に感じてほしいと思ったが、言葉にするとなぜか陳腐になり、結局胸の内に留める。
「そうね。私は、子どものときの記憶がすごくリアルだったから、在ると思ってたわよ。だから、この感覚が嘘じゃなくて安心してる。ただ彼女は、この世にないと言ってたけど、……とりあえず別次元だろうと、在るなら探せば見つかると思うのよね」
 瑞穂の言葉に、彼女は疑問符を顔に乗せて口を開いた。
「そういうものなの?」
「わからないけど」
「リノウさんはなんて言ってた? 神隠しだったんなら、こっちから探すのって、かなり難しいんじゃない? だって、神様が呼び寄せてたようなもんじゃない」
 彼女の見解は、瑞穂とは少し異なっていた。神秘世界を尊重している。リノウと同じ考え方だった。瑞穂は肩をすくめた。
「神様が呼び寄せたかどうかわからないわよ。そもそも視てもらったときも彼女、かれのことを神様とは言ってなかったもの。出入りできたことについても、子どもだったから行けたって言ってたけど、大人も入れないことはないみたいだし、何度も入れたということは、何度も入り口は開いたことがあったわけでしょう。おそらく、あの神社以外にもそうした出入り口ができる場所はある気がするの。神隠しに近いだろうけど、私は少し違うと思ってる。私はかれに呼び寄せられたというより、あの場所でいつも待ってたわけだし」
 非現実な話を、瑞穂は常に現実的にとらえようとしていた。一方の理香は表情だけを見て取れば、瑞穂の考え方にあまり乗り気ではないようだ。あいまいなものは、あいまいなままでいいと思っている。
 彼女は瑞穂の返答に、確かにそうした場所は他にあるかもしれないけどね、と、つぶやいた。
「ほら、理香たちが好きななんとかのパワーが集まるスポットとかあるじゃない。そういうところで、ないのかしら」
「パワースポットね。不思議な気が感じられるところとか、力をくれるところとかあるけど。そういうところで、……天上の世界みたいなところとつながってるって場所、あったかな」
 その話に、瑞穂は顔を上げた。パワースポットという言葉をなんとなく出してみたが、それはあの場所への糸口になってくれる可能性がある。日本神話からかれを探し出すよりも、片っ端から怪しいパワースポットなる場所へ赴いたほうが見つかる確率は高いかもしれなかった。
 そもそも、かれが神話内の人物である確証もないのだ。あの場所がとても高貴で、入り口が神社を経由したことから神道であると決めつけていた。しかし、実際はそれすらも不確かだ。
「理香、そういういわくのパワースポット、教えてくれない?」
 苺のガレットを切り分ける彼女へ、瑞穂はお願いごとをする。いいよ、という、気さくな返事がきた。
「家に帰って調べてみる。わかったら連絡するから。あと、パワースポットと言えば、再来週の土曜日に留梨ちゃんと亜希子の三人でちょっとしたリゾートホテルに泊まる予定なんだけど、瑞穂も来る?」
 実はそれ、パワースポットめぐりも兼ねてるんだけど。
 唐突なことだったが、気軽に旅行の誘いをしてきたのは旅行メンバーが共通の友人だったからだろう。もう予約しちゃってるんじゃないの? という問いに、彼女は、予約してるけど、と、続けた。
「ファミリー向けのリゾートホテルだから、おさえた和洋室、定員四人なんだ。人数は言えば増やせると思うよ。おいしい空気吸って、おいしい料理食べて、温泉はいって、だらだらDVDを見る。前にもやったことあるじゃない? 今回もそんな感じ」
 翌日はそれにパワースポットめぐりが追加される。突然の誘いはままあるが、ここまで段取りが組まれていて誘われることは珍しかった。その旅行先へは車を使うと聞いて、すぐ理香の思惑に気がついた。
「免許証を持ってるのって、もしかして亜希子ちゃんだけじゃない?」
 都内から高速道路を使っても、片道三時間近く要する避暑地だ。これから寒くなるというのに、さらに寒い場所へ行こうとしている。理香は真意をつかれて、えへへ、と、笑った。
「実は、瑞穂を誘えないかなって話してたりして」
 言い出したのは、唯一の運転手になってしまう亜希子だろう。瑞穂が加われば、運転手は二人になる。瑞穂が運転する機会は多くないが、車を持っている亜希子とドライブに行くときは、かならず瑞穂も運転していた。
 それに夏以降、瑞穂は亜希子たちと会っていない。盆休みを明けてから、件の末社探しをはじめてしまったからだ。仕事と探索に追われて友人たちにかまっている余裕がなかった。
「……そんなことだろうと思ったけど、」
「でもね、あと四人になると旅行代もいろいろ安くなるし、人数いたほうが楽しいし」
「確かにね。そういえば、最近旅行してないなあ、私」
 毎年秋はかならず、気の知れた人と温泉旅行をしていた。今年は実家に帰省しただけで、季節が冬になろうとしている。
「あっちもまだ雪は降ってないみたいよ、どう?」
 理香の誘いを聴いていると、久しぶりに運転したくなってきた。運転手がもう一人いるのならば、安心して車を扱える。しかも亜希子はドライブ好きで道に詳しかった。彼女たちが行く予定の避暑地は新幹線も通っているが、徹底して遊ぶのならば車で往復したほうが楽しめるうえ、旅費もかなり浮く。
 唐突感のある誘いだったが、気分転換にはちょうどよさそうな内容だった。パワースポットというところも、瑞穂は意識して行ったことが一度もない。三人のなかでスピリチュアルに一番傾倒しているのは間違いなく目の前の理香で、残りの二人は付きあい程度のものだろう。
 瑞穂は理香からもう一度日程を聞いて、バッグから手帳を取り出した。十二月の話になるが、中旬までの土日は自由だ。その週あたりから、会社の忘年会がはじまるかもしれない。仕事状況が少し気にかかるが、日時としては行っても支障はなさそうだ。
「したら、その話に乗ろうかな」
「ほんと! やった、亜希子たちも喜ぶよ。最近会ってないって言ってたし」
「そう、会ってないのよね。なんだかんだで予定があわなくて」
「亜希子も留梨も多趣味だからね」
 瑞穂自身も、子どもの頃に愛したあの場所を探すことが新たな趣味になっているのかもしれないと思った。ライフワークといったほうがいいのだろうか。しかし、探しに行きたくても手がかりがほとんどない状態だ。
 この旅行では、パワースポットへ訪れるという。自らの持つ感覚を頼りにすれば、そうした不思議な磁場から瑞穂の探している場所へ導かれるかもしれない。
 友人たちと遊ぶ楽しみもあわせて、瑞穂は理香とともに旅行先の話題で花を咲かせた。


 都心と避暑地の冬は、体感温度がまるで違っている。
 午前中に立ち寄った高速道路のサービスエリアで、瑞穂は冷えた空気の鋭さを改めて思い知った。初冬から高気圧に恵まれ、ホテルがある静養地も、積もるほどの雪をまだ迎えていないようだ。しかし、自然の彩りは完全に冬だった。厚手のコートがなければ凍えている。
 瑞穂が助手席のドアを開ければ、運転手の亜希子がエンジンをかけた。車内にいるメンバー四人のなかで一番薄着の格好をしている留梨は、外温の冷たさに顔を色白くさせ、車のなかに籠もりっきりだ。その隣で理香が話しかける。先ほどまで三人に散々からかわれ、留梨は少しすねていた。
「目的地まで、あと一時間半くらいだね」
 瑞穂が乗り込むと、運転手がそう言いながら車を動かす。旅行一日目は、ホテルのチェックイン開始直後に部屋のキーをもらう算段だ。泊まる予定でいるファミリー向けの大型リゾートホテルは、内部にさまざまなレジャー施設を擁している。室内プールやパターゴルフ、ものづくり体験教室、フィットネスルーム、ゲームセンターなどがあり、館内で過ごすだけでも飽きないつくりになっている、と、インターネット上に記載されていた。それもあって、観光はチェックアウト後にまわしている。いっそのこと、一日ホテルから出なくてもかわまない、と四人全員が思っているくらいだ。  こうした立ち寄り予定の少ない旅行は、得てして脱線しやすい。高速道路越しにアウトレットモールのような施設を見つけた途端、一行はすぐさまルートを変更した。
 最寄りのインターから、車を公道に降ろしてショッピング会場へ向かう。その間に理香が携帯電話を使い、これから訪れようとしている大型施設の全容を調べる。瑞穂が思っていたとおり、アウトレットモールのようだ。携帯電話を駆使する理香が、名称を口にすると、最近できたばっかりのとこじゃない? と、ドライブ好きの亜希子が問いかける。それで正解らしく、新築に近い建物群が目の前にあらわれた。広い駐車場に停めるまでは、自動車の持ち主である亜希子がハンドルを握り、それ以降は瑞穂が運転することとなった。
「さっきも思ったけど、空気がきれいだねえ」
 開店して間もないアウトレットモールは、まだ人が少なく快適だ。身体を伸ばした亜希子に、留梨が両腕を組んで、風来るとすごい寒い! と、小さく叫んだ。
「ほら留梨ちゃん、ここで上着調達してきなさいよ」
「そ、そうする。一着あればなんとかなるよね」
「そうだよ、早く買いに行こうよ」
 理香は寒がる留梨を誘って、レンガ敷きの道を行く。最後に降りた亜希子が車錠のロックを確認して、瑞穂の横についた。
「ミズホ、次よろしく。あたしは助手席座って補佐するよ」
 そう言う彼女に鍵を渡された。亜希子は瑞穂の知っている友人のなかでとりわけ単独行動好きだが、ときどき友人と連れだって遊びたがる。車を使う旅行を提案するのは決まって亜希子だった。
「ありがと。ちょっと久しぶりだから、緊張するわ」
「アクセルとブレーキさえ間違えなきゃ大丈夫よ」
「それって基本じゃない」
「基本が、わかってんならいいじゃん。それで、ついでにここで昼食もまかなうのかねえ」
「留梨ちゃんは、行きたいお蕎麦屋さんがあるみたいよ」
 瑞穂は理香経由で聞いた話を亜希子に伝えた。旅行の行程を仕切るのは理香で、それぞれの希望を上手に組んで行動するのだ。
 蕎麦いいね、水おいしいところの蕎麦はうまいんだよ。そう留梨の提案に同意する亜希子も、話し方はきついが友人想いの女性だった。末っ子気質は留梨で、瑞穂が下手をすれば一番頑固な性格ともいえた。
 その瑞穂は、三つ目の末社と同じような場所がないか、その手がかりを求めに来ている。少しでも直感に来るものがあれば、三人を置き去りにしてでも確認しに行く。それくらいの心意気を持って来ていた。この三人ならば、単独行動を簡単に許してくれる。
 一時間半ほどのショッピングで、結果的に全員が洋服を一着以上購入していた。早速荷物が増えたという会話を続けつつ、瑞穂の安全運転で目的地のほど近くまで辿り着く。午後の遅い昼食は、留梨のリサーチどおりとてもおいしかった。彼女は以前、家族とこの近辺を旅行したことがあるのだそうだ。
 食事が済んだ後の運転は、緊張が一気にほぐれた。瑞穂は亜希子に言われるまま、美術館やテーマパークを覗くことなく真っ直ぐホテルへ向かった。チェックインを済ませてから、荷物を部屋に置き、その後の予定を決めてもう一度車に乗り込む。
 宿泊するファミリータイプの和洋室は、中央にベッドと畳間を仕切るガラス壁があるものの、長椅子を二つ置くくつろぎのスペースがあり、ティーサーバーなどの器具も充実していた。機能に適した広さで居心地が良い。出入り口の向かい側は全面が窓になっていて、一二階という位置から、緑の多い丘や山の風景が楽しめる。パノラマの奥には遊園地の観覧車も見えた。
 このまま部屋に籠もるのも良かったが、近くにガラス細工の美術館があるというので、四人は車を走らせた。ガラス工芸を見るくらいならば、そう時間はかからない。亜希子はすでに運転ができない身となっており、瑞穂がその後一日の運転手となった。
 海外の著名なガラス工芸を展示する施設内は、土曜日の午後でも静かだった。子どもたちが訪れるような場所ではないからだろう。近所には、家族連れが好みそうな牧場やテーマパークが揃っている。
「こういうのも斬新でいいけど、ガラス細工なら、江戸切子が一番好きだわ」
 昼食から日本酒を味わっていた亜希子が、瑞穂と同じ歩調でつぶやく。展示品を見まわった彼女にとって、ガラス食器はあくまで食器以上の価値がない、という判断が言葉にあらわれていた。表情を見れば、瑞穂が運転役になってからずいぶん上機嫌だ。酒浸りできることが嬉しいのだろう。
 亜希子の発言を聞いていた留梨が、こないだ切子体験一緒にしてきたよね、と、会話に混ざってきた。
「亜希子ちゃんと留梨ちゃんで、体験してきたの?」
「ねえ、キリコってなんの話?」
 少し後ろを歩いていた理香が尋ねてくる。江戸切子は日本伝統芸能のガラス細工だと、亜希子は説明をはじめた。その隣で、一番背の低い留梨が頷く。
「あと別の友達と一緒にね。アキちゃんは、お酒用のマイグラスにするとかいって、はじめてなのにすごい上手くて、ほめられてたよね」
「酒飲むグラスになら、そりゃあんた本気出すでしょ」
「それアキちゃんだけだから。うち飲めないもん。うちのは、逆にお母さんが喜んで自分のものにしちゃったよ」
「その切子体験っておもしろそうだけど、グラスを削るわけでしょ? けっこう怖くない?」
「そうでもなかったよ。ルリができたくらいだし」
 亜希子の発言に留梨が、どういうことよそれ、と、すぐにむくれる。瑞穂と理香は小さく笑った。三つ年下の留梨はムードメーカーだ。亜希子が気に入っている友人ということで、留梨を紹介されて仲良くなったのだ。
「それで、出口に着いたわけだけど、」
 瑞穂が口を開けば、一斉に六つの目が向かってきた。冬至前の空はすっかり暗くなっている。夏であれば、もう一カ所くらい寄り道するところだが、慣れない暗がりで運転することを考えれば、ホテルに直帰したくなる。
「ホテル戻ってゆっくりするのもいいんじゃない。あちらでもやることがあるでしょう、温泉とか」
 運転手の言葉に、誰からも異論は出なかった。ホテルまでの夜道を、瑞穂は慎重な運転で戻る。夜になって野外の寒さは増したが、建物内に入れば上着がいらないくらい暖かい。浴衣一枚で行き来する客も多かった。
 フロントで夕食時刻を確認してから、余った時間を二人は温泉、もう二人は施設内の散策で使い切る。瑞穂は亜希子とともに後者を選んだ。リゾートホテルのレイアウトを確認してから、売店へ向かう。亜希子は部屋に持ち込む地ビールと食べ物を買いあさる気のようだ。瑞穂は早々に会社用の土産を購入して、エントランス奥にあるライトアップが美しい庭を眺めることにした。
 吹き抜けのフロント兼待合い場は、イベントが行なわれるくらい、広々とつくられている。正面は客室のように一面ガラス張りだ。大きな庭がスポットライトで風情よく映し出されていた。片隅には手動のガラス扉があり、外へ出られるらしい。瑞穂が近づいてみると、施錠がかけられていることがわかった。そのドアから先は林道へつながっているようだ。マップを見たかぎり、ホテルの広い敷地には散歩道が多い。
 しかし、なにか特別なものが存在しているけはいはない。ただの森で丘が広がるばかりだった。それが少し残念だ。
 理香が行きたがっているパワースポットは、このホテルから一時間近くかかる別地域だという。翌日は理香の願いを果たしに行くのだ。
 瑞穂は今日一日だけ、不思議な体験を回想しないと決めた。今日はなにを考えても無駄だ。明日のパワースポットを楽しみにしていよう。
「ごめん、待たせた」
 亜希子の声に瑞穂は振り返る。彼女は重そうなビニール袋を二つ手下げていた。缶を一〇本は購入したと知れる。
「こんなに飲むの?」
「さすがに全部は飲まないって。ここでしか手に入らない地ビールだっていうから、土産用にすんの。何本かはここで飲むよ。ワインも買ったけど、瑞穂も飲む?」
「……ワインなら、ね。理香たちは飲むかしら?」
「ルリもリサもほとんど飲めないからねえ。ミズホがいて助かったよ、ほんと」
「運転と酒の相手って意味でしょ」
「そのとおり!」
 少年のような瞳で返され、瑞穂が小さく笑う。高層階の部屋へ戻る途中、亜希子が誰もいない廊下で、なんか変な音がしなかった? と、訊いてきたが、瑞穂は首を横に振ってカードキーをポケットから取り出した。
 部屋に戻って時刻を見れば、三〇分も経たず夕食の時間だった。部屋で飲む酒を冷蔵庫に入れて、荷物の整理をしていれば、留梨と理香が戻ってくる。私服と浴衣という組みあわせのまま夕食に向かって、現地料理を味わった。内陸のせいか山の幸と肉が多く、味つけは薄めだったのは良かった。
 その後は、温泉よりも先にDVD鑑賞会をはじめる。留梨が、朝まで上映しても見終わらない枚数のDVDを持ってきていた。気合いが入りすぎだと、残りの三人で彼女をからかいつつ、ホテル側から借りたデッキを使って、まずは皆が見たがっていた映画を見る。
 赤ワインのボトルを開けて、四人は乾杯した。瑞穂も映画に丸々一本付きあったが、DVD二本目は途中退室して温泉へ向かった。温泉自体は深夜の二時頃まで開いているという話だが、部屋に長居するだけ、ずるずると酒を飲んでしまう。亜希子はワインボトルを一人で一本開けられるほど酒に強いから、瑞穂が温泉に入っている間に、ボトルは空になっていることだろう。
 十一時を過ぎた大浴場は人が少なかった。温泉のなかでも、露天は瑞穂の好物だ。アルカリ性の単純泉は癖もなく長居にあう。掛け流しならば文句なしだが、加熱タイプだとプレートに説明書きがされていた。泉質を見るのも、彼女の楽しみのひとつになっている。
 瑞穂は手早く身体を洗い、すぐ露天風呂へ向かった。屋外の湯船に人はいない。外気はとても冷たいが、温泉のなかに入ると心地よく作用する。冬は長風呂しやすくなるのだ。
 露天風呂を独占できる贅沢に浸りながら、瑞穂は湯気の立つ空間を見まわした。露天風呂を囲む庭も、綺麗につくられている。裏手の自然と上手にかみあうよう、敷地内の緑も細かく手入れされていた。空気がとても綺麗だ。
 瑞穂の実家がある田舎は海が近い。空気の質がこの地域とは違っていた。澄んでいるのに少し有機的な重さがある。山から染み出るにおいなのかもしれない。
 情景と雰囲気と軽いアルコールがまわり、瑞穂はガラス戸が開くまで陶然と庭を眺めていた。人工音に振り返るときに、ツン、と、頭痛が通過する。人物を見留めてすぐ霧散した。
「あら、理香」
「瑞穂、帰ってこないと思ったら、まだ温泉にいたんだね」
 名を呼ばれた彼女は、あくびをしながら瑞穂のいる湯船に近づいて滑り込んだ。
「また入りにきたの? 眠いなら寝ればいいのに」
「明日、絶対ぎりぎりまで寝てると思ったから、今のうちにまた入りにきたの」
「亜希子は?」
「あとで入るみたい」
 絶妙な湯加減に、理香が表情をゆるめて腕を伸ばす。亜希子はアルコールをどれだけ摂取しても顔色ひとつ変えないのだから、湯船に入ったところで身体の負担にはならないだろう。瑞穂がそう思っていると、理香が露天風呂の雰囲気いいよね、と、言葉をつなげてくる。瑞穂は同意を込めて頷いた。
「そういえば、あの話、何か進展あった?」
 理香が問いかけた言葉は、ひととき忘れていた物事を思い出させた。
 三つ目の末社が見つからないことは、理香もよく知っている。状況を聞いてくるのも当然だろう。しかし、こと細かく説明する気にはなれない。実際に、神社まで探しに行った話も、図書館に籠もって調べごとをしていたことも、前回会ったときに話さなかった。
 ヒーラーのリノウと知りあいである理香に、瑞穂の怪しい動きを知られてしまえば、情報はすぐリノウの元へ届く。それに超能力を持つとされるヒーラーならば、理香と接した時点で、その背後にいる瑞穂の動きを感知してしまう可能性もあった。理香に迂闊な話はできなかった。
 だからといって、進展はなにもないことも、また事実だった。
「まったくないわよ。まず探しようがないんだもの」
「そうよね。そうだ、前に言ってたパワースポットも、なんかピンと来るところはなかった?」
「……うーん、今のところわね。どこも遠いし」
 瑞穂は、事前にお願いしていたとおり、理香からめぼしいパワースポットを教えてもらっていた。それらの場所について、暇があればインターネットや本屋に立ち寄り検討していたが、結局のところ、その場の雰囲気は行ってみないとわからない。それが瑞穂の行き着いた結論だ。
 ただ、そのどれもが遠いところにあった。飛行機を使わなければならず、日帰り旅行もしにくい。師走はこれ以上旅行に休みを割く気になれず、来月の新年から少しずつ見まわろうと考えている。
「そうなのよね。遠いから、私も行きたいんだけど、一人で行く気にはなれないんだよね」
「そうね」
 一緒に行こう、とは言えず、瑞穂は理香の言葉に関心薄く相づちを打つ。行くのであれば、瑞穂は一人で行くつもりだった。遊びに行くわけではないのだ。
 しかし、実際に旅費をはたいて行ったところで、なにも手がかりが見つからないというのも虚しい。瑞穂は理香のように、スピリチュアルに傾倒しているわけではなかった。あの場所に関する手がかりがないパワースポットに用はない。
 この世から切り離された非現実なところを、どのような手口で解明していくのか。逢ったという、かれをどのように見つけだすのか。
 かれの名と所在を、神話のなかから見つけられるのではないか。そう仮説を立てたところで、立証できるものが一切なかった。
 探したいのに、手がかりがほとんどないもどかしさは正直つらかった。どうすることもできないのだ。しかし、澄んだ場所を忘れることはできない。あれほど透明で美しい大気に触れたことはないのだ。思い返すたび、胸が苦しくなるほど切望してしまう。
 明日行くパワースポットで、その欠片でもあれば、私は安心できるのかもしれない。そう思う瑞穂の隣で、理香が両手で湯をすくった。
「とりあえず、明日のパワースポットでなにかあればいいね」
 理香も同じようなことを考えていたようだ。スピリチュアルな物事が好きな彼女は、少なからず好奇心を持ってこの話題に接しているのだろう。
 しかし瑞穂は、自分の経験はそうしたムーブメントと一線を画すものだという意識があった。スピリチュアル関係の助力を借りるが、あの場所はそういう俗世的なものではない。より高貴で手のつけられない、気高いものだ。人が簡単に扱えるものではない。
 実際は、リノウからもそのような趣旨で忠告を受けていたものの、その点を瑞穂は棚に上げていた。自分は人と違う、あの世界を知っているという自負を持っていた。
「そうね、少し楽しみにしてる。ところで今、何時なの?」
 簡潔に肯定して、瑞穂は話題をそらした。彼女はその言葉にきょろきょろと周囲を見渡す。時計を探したようだ。
「露天風呂には時計ないんだ。ここ来たときは、十二時すぎてたよ。瑞穂、よくのぼせないね」
 理香の感心した言葉に、瑞穂のほうが驚いた。のぼせない程度の外気と湯質だったが、そこまで時間が経っていたとは思っても見なかったのだ。
「零時すぎてるの! そんな時間経ってたなんて気づかなかった」
「瑞穂一時間以上、温泉にいたんじゃない?」
「そうなるかも。もう出なきゃ、」
「私も。少し入りたかっただけだし」
 瑞穂が水音を立てて身体を起こせば、理香もそれに続く。心地いい場を離れ、むっとする室内浴場を渡って洗面具を回収し、脱衣所へ戻る。会話をしながら支度をすると、ますます時間がかかってしまい、客室に戻れば、亜希子に遅いよ、と、呆れた声をかけられた。留梨はベッドに寄りかかる亜希子の膝を枕にして寝ている。
 DVDは、別の映画になっていた。
「亜希子、これから行くの?」
「今から行く。行かないと寝ちゃう。ねえ、ルリも起きて。一緒に行くなら今起きてよ。置いてくよ、いいの?」
 ゆすって起こす亜希子の律儀さに、瑞穂と理香は微笑ましく見ながら後かたづけをする。目を覚ました留梨は、亜希子と一緒に温泉へ向かうようだ。映画に未練なく風のように出ていった二人を後目に、残った二人はDVDキットをあさって、画面を好みのものに切り替えた。



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