* 柔らかなしとね、第5話 *




 理香がしつこく瑞穂へ電話をかけていたのには、理由があった。瑞穂が慌てたように朝食会場へ向かえば、理香と亜希子が不安をたたえた表情で待っていた。
 留梨が腹を下して朝食をパスするという。突然の体調不良で、本人も腹を押さえながら腑に落ちない様子だ。
 二人はベッドから出て来られない留梨の心配をしていたが、瑞穂は彼女たちへ謝りもそこそこに、先ほど起きた不思議な現象を悶々と考えていた。うわの空になる瑞穂に、理香が大丈夫かと声をかけてくれたが、瑞穂は簡単な返事ではぐらかした。
 チェックアウトを行なう頃には、どうにか留梨も動けるようになり、一行は行程変更を回避した。車移動でなければ、直帰していたところだろう。
 素早くパワースポットめぐりを実行しようと静養地から離れれば、次第に留梨の体調も落ち着いていき、目的地へ着く頃には朝の不調が嘘のように復活した。留梨自身は、えぐれるほどの胃の痛みに救急車が思い浮かんだほどだと言うが、亜希子の常備していた薬が効いたのか、パワースポットの不思議な力がなしたのか、治った理由も原因も謎のままだった。
 一方の瑞穂は、まともに現実を直視することができず、ふわふわと留梨たちの会話を聞いていた。体験したばかりの出来事から、完全に心を奪われていた。
 理香セレクトで訪れたパワースポットでは、先ほどの体験から比較すべく、三人から少し距離をおいて注意深く周辺を散策した。霊気の宿るスポットだというが、やはり瑞穂の知っている静謐な空気とは幾分種類が違っていた。それに、朝は現世のパワースポットを上回る本物の空気に触れたのだ。
 幼い頃に感じたことのあるおぼろげな質感は、今や更新された。あの感触は忘れない。あの声も、あの世界もすべてが忘れられない。あの静謐な場所は、神社やパワースポットといったところにまったく関係なく、突如としてあらわれる。それがわかっただけでも大きな収穫だった。瑞穂は今朝、リゾートホテルの裏手にその入り口がつくられたことを知った。出現は一度きりかもしれないが、何度も行って確かめる価値はある。近いうちに、一人でリゾートホテルへ再訪問しなければならなかった。たとえ泊まれなくても、遊歩道を散策するだけでいい。
 手がかりがあちら側から降ってきたことは、瑞穂にとってとても嬉しいことだった。そして、このことは誰にも話さないでおこうとも思った。誰かに話してしまえば、奇跡的に再会できたかれとあの場所が逃げてしまう気がしたからだ。
 まるで、かれが自ら望んで接触してきたようだ。
 瑞穂は、旅行を終え帰宅した夜、同じ旅行先の宿泊予約をすぐ手配した。年末直前に無理やり旅行を追加することで、忙しくなるのは確実だったが、このチャンスを一瞬でも逃したくない。かれからアプローチしてきてくれたのだ。
 瑞穂は、かれが待っているとしか思えなくなってきていた。
 リゾートホテルの部屋はハイシーズンで満室だったが、代わりに近くの民宿を押さえることができた。レンタカーを借りることにして、仕事をしながら翌週を心待ちにする。一人で旅行する場所でもないが、瑞穂には大きな目的がある。
 かれは「戻れ」と、言った。
 しかし、その理由を聞いていなかった。本当に接触したくないのであれば、かれ自身がこの世と向こうの世界をつながなければよかっただけの話だ。しかし、かれは自分の前にあらわれた。アプローチをかけながらも、戻れ、と、言った意味が知りたかった。
 それに、リノウが言っていた「大人は一度あの世界を見てしまうと帰ってこられなくなる」という、法則から瑞穂ははじかれていた。途中までは確かにリゾートホテルの遊歩道を歩いていたが、ある地点から現実環境を模造した別世界になっていた。空気の質感は、瑞穂とリノウが知るこの世ではない場所と同じだった。通常は戻ることができなくなると言う場所から、瑞穂はかれの言われるまま「戻って」来ることができたのだ。つまり、自分だけは行き来可能なのだろう。瑞穂は不思議とその点に自信を持っていた。
 かれは、自分へなにか言いたいことがあったのかもしれない。
 体験した出来事から五日離れると、さまざまな解釈ができるようになった。不可思議な物事を理性的に対処しようと、瑞穂は一人で躍起になった。
 かれのことを思い返す。病的に色白かったことが引っかかった。かれを実際に見たことで、幼い頃の記憶がより詳しく甦っている。そのなかのかれは、きめ細かく血色のよい肌をしていた。先日見た弱々しさはなかった。
 そして、あのときは供も引き連れていなかった。不自然に姿をあらわしたかれへ、瑞穂は問いたいことがたくさんあった。探していたのは事実だが、ここまで呆気なくあらわれると思いもしていなかったのだ。これには、大きな理由があるのではないかと推測した。
 再度リゾートホテルへ赴く前日に、理香から電話がきた。旅行最終日に様子がおかしかった留梨と瑞穂の状態が気になっていたから、という簡単な理由だ。瑞穂は平静を努めて、理香の心配を会話で拭った。旅行した次の週に同じ場所を旅するという、奇妙なことをする自分の姿は隠した。リノウが背後にいる理香には決して知られてはならなかった。
 年末年始は忙しいうえ、実家帰省を親に約束しており、どこのホテルも旅館も満員御礼だ。毎日行くにも怪しまれるという理性が働いて、今年は後一度だけ確認のために静養地へ向かう。早くも瑞穂は来月分のリゾートホテル予約を重ねて一泊分押さえていた。あとはレンタカーを借りて日帰りするつもりだ。一月は、十二月以上に忙しくなる。
 予想のとおり、一人旅行の二日間で、かれがあらわれることはなかった。その分、瑞穂はリゾートホテルの裏手にある林の遊歩道の全容を確認した。そこで、明らかに瑞穂がはじめて歩いたときと、遊歩道の距離感がまったく違っていることを知った。瑞穂がかれと会ったところは、現実世界で二〇分もせず林を抜けて分岐点に着く。
 あのとき、どこからこの世ではなくなったのか、瑞穂は昼休憩をはさみながら、朝から日暮れまでリゾートホテルの遊歩道を歩き回っていた。
 かれとあの場所を見つけられなかったが、確認することはできた。師走の日々は瞬く間に過ぎ、年末実家へ帰省したときにも、念のため幼い頃にかれと出逢った神社へ向かった。初詣のせいか、ふだんより参拝者が多く、あの場所もかれもあらわれるけはいがなかった。変哲ない神社だ。おそらく、リゾート地の遊歩道のほうが今は逢える確率が高い。
 瑞穂は年が明けるのを待って、もう一度静養地へ訪れた。そうしたことを三度も繰り返して、一月が過ぎていこうとしていた。
 我に返ったのは、カード残高を見たときだった。日帰りで遊歩道を見に行くやり方が定着した頃にカード明細が送られてきた。バーゲンに行ったわけでもないのに、旅費でかなりの金額を使っていた。
 一度見つけられものが、また見つからない。そのフラストレーションを抱えはじめていた瑞穂は、重なっていた疲労とともに頭を抱えた。
 自分はなにをしているんだろう。
 カードの支払い額を見て、すべてがバカバカしく思えた。あの奇妙な場所と存在が定かではないかれをただ探すために、現実を犠牲にしてきたのだ。瑞穂は自分の愚かさを思い知った。
 探しても見つからないのであれば、この先も見つからない可能性が高い。それに、先月自分の前にあらわれたときは「探していない」ときだった。つまり、探す以前に、時がくればまた相手から接触してくるものなのかもしれない。
 だが、瑞穂は待っていられなかった。
 年末前の旅行で、かれに逢ってしまったのだ。あのときに満足できるような別れ方をしていれば、ここまで瑞穂が躍起になることはなかった。後味が悪すぎた。
 なにも教えてもらっていない。なにも返していない。子どもとき遊んでくれてありがとう、すら言えていない。
 だが、もうそうした想いは、胸の奥にしまったほうがいいのかもしれない。
 寒い平日の夜、独り部屋で瑞穂はそう思った。ヒーラーの言うとおり、良い思い出にしたほうがいいのかもしれない。
 タイミングよく、携帯電話へ通知が届いた。亜希子からの、理香と留梨を呼んで飲み会をするという文面だった。瑞穂はかかさず飛びついた。
 瑞穂は、強い酒を気の知れた友人たちと飲みたかった。そして、酔いから醒めたかった。

 * * *

 冬の嵐が続いていた。瑞穂が非現実な出来事から離れることを決意した翌日から、勢力の強い寒気団が日本に東一帯を居座っている。
 静養地はテレビの情報によれば、連日大雪に見舞われているということだった。瑞穂が通いつめている間は快晴の日が多かったのだから、この現象は瑞穂にとって好都合だった。たとえ探すことを止めなかったところで、雪に降られれば活動は中止せざるを得ない。
 二月に差しかかる前の金曜日に、瑞穂は友人たちと久しぶりの飲み会を楽しんだ。メンバーは先々月の旅行に連れ添った理香と亜希子、留梨の四人だ。
 雪があまり降らない東京でも、先日は交通機関をマヒさせるほどの雪害に遭った。太陽が顔を出す日は、それからずっと途絶えている。このところの気温の冷たさに、四人は出会い頭最近の天候についての悪態をついた。仕事をする気を萎えさせる気候だ。
 瑞穂はその集まりで、皆で楽しんだ旅行の日程は本来二月に設定されていたものであったと知った。積雪を気にして、十二月に振り替えたのだという。車で行くことを考えれば、雪はなるべく避けたい。十二月のハイシーズン直前、たまたま第一希望のホテルに空室があったことで、旅行は年末前に急遽変更となったのだ。瑞穂はそう、亜希子から聞いた。この偶然がなければ、瑞穂はかれやあの場所と再会することもなかったのかもしれない。
 理香は向かいの席で、本当はあの旅行、今週の土日にしたかったんだけど、と、小さく呟いていた。彼女としては旧暦の正月を向こうで過ごしたかったようだ。だが実際二月上旬に旅行をしていたならば、雪で大事になっていたかもしれない。そう皆に慰められた。
 その彼女は、二月三日で心機一転すると豪語していた。元旦にも今年の目標を立てたそうだが、実行は旧正月からという彼女なりの信条があるらしい。都合のいい考え方に、全員が呆れたものの、瑞穂は一方で妙案だと思った。
 二月三日から、不可思議な出来事に想いを馳せることは止める。先々月に起きた遊歩道での現象は、不可思議だがリアルだった。間違いなく現実に起きたものだ。しかし、周囲のすべての人が探すなと瑞穂を制止した。あの、かれですら、「戻れ」と、伝えてきたのだ。
 それを振り切ってまで探したい欲があるものの、瑞穂は見つけ方がわからない。出入り口が開かれるのは、気まぐれのようにも思える。まるで神様の気まぐれと同じだ。瑞穂が強く願ったところで、簡単に入れる場所ではないのだ。
 心に引っかかることが多すぎた。しかし、日常生活を続けていけば、不可思議な出来事は自然と胸の内から風化していくだろう。瑞穂はそう考えることにした。そもそも三つ目の末社についても、長い間忘れていた身だ。思い出さなければ、神社に行くこともなかったのだ。
 私は、現実を生きるべきだ。
 寒さが厳しい週末は、気分を持ち上げるためにショッピングへ出かけた。バーゲンにすっかり乗り遅れていたものの、まだセール期間中の店はあって、瑞穂は安堵しながら買い物をした。働いて得たお金で物欲を満たしていれば、現実世界のほうが楽しいと思える。
 このほうが自分にとっては良いのだ。このほうが良い、と、ヒーラーもかれも言っていた。彼女は、想いを振り切るために何度も胸中に言い聞かせた。  その帰宅途中で、珍しい雷雪に見舞われた。駅から出られなくなった瑞穂は、最寄り駅のホームをつなぐ屋根付きの高架橋の上で雷鳴を聞く羽目になった。
 雪が降りはじめてすぐ、彼女は繁華街から家路を急いだが、ぼた雪の襲来を防げたのは最寄り駅までだ。電車も、瑞穂が乗った後発から少しずつ遅延しはじめて、少し不安になった。
 瑞穂の住むマンションに近い改札口は、ホームの向かい側にある。開かずの踏切と揶揄されるところを渡る習慣のない彼女は、いつも高架橋を使っていた。屋根のある階段を安心しながら昇り、窓から一時外の様子を見下ろす。改札口周辺に立ち往生する人々が、空をしきりを眺めていた。
 彼女は、風が防げる屋根付きの高架橋で、雷鳴を聞いていた。雲に走る稲光が窓からよく見える。携帯電話を確認すれば連絡が入っていた。そこから眼を離して、自然のつくる神秘的な現象が映る窓を見やる。
 リノウさんが、瑞穂のことなにか気にしてるみたい。今度会う時間ない? 平日夜でもいいんだけど。
 理香の送ってきた文面に、瑞穂は返信する気を失って、携帯電話をバッグに押し込んだ。すべて忘れたいと思った。もうどれにも、関与したくない。
 空気が一段と冷たくなった。あの場所にはほど遠い冷たさだ。
 雷鳴が近づいていた。瑞穂は、当分駅から離れることができないと悟り、ため息を吐いた。垂直に突き刺さる雷が増えて、同時に音量が上がっている。
 降雪の増した白い世界に、さらに白い一寸の光が落ちる。落雷の音が鳴り響いて、かすかな悲鳴が高架橋まで届いた。
 激しい光が何度も瑞穂の目に映る。彼女は、その光を畏れて一歩下がった。高架橋にいるのは瑞穂だけだ。
 もしかしたら、ここに居るのは危険かもしれない。
 彼女は判断を正す。人の多い改札口へ行こうと、踝を進行方向にあわせた。その直後、ドン、と、足下がわずかに揺れる。
 間近で雷が落ちた気がした。高架橋に落ちたものだと瑞穂は即座に思い、鼓動を跳ね上げる。この周辺を雷が狙っているようだ。独りで対峙することから、大きな畏怖を感じたと同時に、激しい音がもう一度鳴り響いた。
 光は一瞬だった。目の前が真っ白になった。
 美しい白だった。
 白というよりも、色という概念を突き抜けて瑞穂の目に刺さった。
 消防車の音が聞こえる。瑞穂は何度か瞬きをして、窓を見た。視界は明瞭だった。雷は続いている。濃い白を重ね塗りした景色から、くすんだ煙が立ち上っていた。火事が起こったのだ。
 瑞穂の足下には、バッグと買い物袋が転がっていた。彼女は緩慢に見下ろして、自らの手から落ちたものだとようやく気づく。試着までして決めたものが、今更どうでもいいように思えた。物は所詮、物でしかないせいだ。
 心にあったなにかを奪われたように、放心していた。
 サイレンと雷鳴が響いている。電車は辿り着く様子がなく、駅は機能を失って、しん、としている。
 なぜ、私は此処にいるのだろう。
 瑞穂は漠然と思った。此処にいることが滑稽だった。
 この世界で息をしていることが不思議だった。
 なぜ、息ができるのだろう。
 なぜ、此処で、生きているかように振る舞えるのだろう。


  戻りなさい

 かれの声が聞きたかった。瑞穂は、喉を押さえた。
 あの声を食べてしまいたい。
 全身に包んでしまいたい。抱きしめたい。それがしあわせ向こう側を見せてくれるのならば、あの場所に行かなければならない。
 行かなくては、ならないのだ。
 彼女は転がるように、階段を駆け降りていた。

  ――探さずとも、見つけることができるよ



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