* 柔らかなしとね、第6話(最終話) *


 

 『探さずとも、見つけることができるよ』

 子どもの頃に三つめの末社で、そう教えてもらった。
 瑞穂が、ときどきこの末社が見つからないの、と、かれに相談したときのことだ。かれは、はじめ不思議そうな表情をしていたが、棲むところの違う少女の言う意味に気づいたのだろう。少女の好きな動物に姿をかえた従者の隣で、かれはやさしく答えてくれたのだ。瑞穂が、やがて訪れることができなくなる、少し前の話だ。
 彼女は、沈む土の部分を、底のないブーツで歩いていた。
 踏むたびに、ふわふわと土地に埋もれる。枯れた葉が、色濃い地面と同化していく姿だ。すでに、雪を敷き詰める土地から離れ、どの音も属すことができない世界に移り変わっていた。凍るほどの大気を宿しながら、痛覚を喪失させる甘美な大地の色だ。空気は寒さと違う、独特の冷たさをはらんで瑞穂にとりついた。
  来てはいけない
 制止する声の美しさに、瑞穂は微笑んだ。幾度となく胸に響かせてきた音だ。幼い頃の瑞穂は、かれの声が聞きたくて三つめの末社を許されるかぎり通い続けた。
 目の前に、かれが在った。
 藍に近い黒の眼が、悲しみを内包してなにかを伝えている。瑞穂は、その袂で立ち止まった。
 来るな、と、言いながら扉を開けたのはかれだ。
 探す必要もなく、足が動くまま近所の神社の奥へ進めば、この場所へ辿り着いた。周囲にまき散らされていた雪は一瞬で消えた。密度ある大気に、寒さも暑さもない。グレイの雲に覆われていた空は、薄い青に色を替えている。
 瑞穂はすでに、かれ以外の存在をかすかにとらえることができていた。しかし、かれしかこの瞳に映さない。かれしか、見たいと思わない。
「あなたの、そばに、」
 青白い頬、やせ衰えた身体。触れることは叶わないが、かれの響かせる声を、瑞穂は上手に咀嚼することができる。脳のなかでとらえ、美味しく食べることができる。
 それは歓喜だ。制止でも非難でも拒絶でも、どんな言葉でもいいから声が聞きたかった。
  来てはいけない
 もっと言って。もっと響かせて。
  来ては、ならないというのに、
 瑞穂は言葉にせず乞う。彼女の胸中には、すでに言葉にできないものがいっぱいに詰まっていた。かれは長い時間をかけて少しずつ瑞穂の心に、なにかを送り込んでいたのだ。ちいさな水滴でも、心の器に溜まればいつかはあふれる。その存在に気づいてしまう。
 かれが一歩後ずさりした。
  ここより先は、来てはならない
 大きなためらいがあった。あなたほどのかたが、なにをためらっているの、と、瑞穂は少し笑いたくなった。周囲もそう言っている。元々そうなるために出逢ったのではないにせよ、時が来ればいずれ必要となるのだ。
「私を、連れていって」
 誰かを持っていかなければならないのならば、他の誰でもない、わたしにしてほしい。
 それが瑞穂の唯一の願いだった。かれがどれだけ気高いものであったとしても、選ばれるものが同じ種の誰でもいいというのならば、迷わず私を選ばせる。それだけの意志と自負があった。
 かれがわずかにゆがんだ。まるでにんげんのようだ。
 にんげんのような感情を持つ、かれに瑞穂は同情した。もっと他のものたちのように、容赦なくすればいい。あなたは、やさしすぎる。
 そして、やさしすぎるから、こうなってしまったのだ。
 荒れた土地を鎮めるためならば、かれらがどのような手でも使うことを、瑞穂はこの地へ訪れて知った。後戻りをしないことを条件に、注ぎ込まれた多くの情報があった。
 かれは、来てはならない、というが、それはすでに塞がれている選択肢だ。まだつながる道があったとしても、かれ以外が許さない。瑞穂も、かれに往かないでほしい、と、いうことはできない。それならばついていくしかない。瑞穂はかれに笑いかける。
 ひとは、しあわせになりたいという。
 瑞穂は幼いときから、しあわせの先にはなにがあるのだろうと思っていた。しあわせが人生の到達点だとすれば、その先にあるものはなにだろう。向こう側には、なにが待っているのだろう。
 三つめの末社で空を眺め、幼い瑞穂はかれを待ちながら何度も考えていた。
 畏怖も喪失感も、彼女のなかではとうに費えた。人間同士も互いを摩擦し消尽されていくものだ。満たされるようでいて、結局は消耗していくだけだ。しあわせに向こう側など在りはしない、と、瑞穂は成長していくつれに悟っていった。それは無自覚な空虚を胸の内につくった。自覚できなかったのは、そこに少しずつ注がれるやわらかいなにかがあったせいだ。色にすれば、かれの瞳の色とそっくりの粘り気のない蜜だ。虚無を誘う感情を排して、少しずつ瑞穂をこの場所へと近づけた。
 目の前のかれが、布を残して透過していく。空気が異様に澄んでいるのは、こうしてかれらが解けているからだ。
 瑞穂は、言葉なく眼を閉じたかれの肯定に、指を伸ばした。仮衣が途端に落ちる。彼女はしゃがみ込んで、かれの身に着けていたものをかき集める。両手で握って抱きしめた。
 土のにおいと同じだ。
 かれと同じにおいを求めて、瑞穂は地面に寄り添った。包まれる空気に瞼を閉じる。
 しあわせの向こう側があるのだとすれば、私にとってそれは、かれのそばだ。
 あなたのしとねに、身を重ねる。落ち葉が、かたちをかえて再生する。波が、いくつもひだをつくる。それはすべて等しく同じことだ。解け合うのならば、どれも同じなのだ。瑞穂の愛するものは、かれがそのすべてを内包している。
 同じようになりたい。もう、個である必要はない。
 ちりちりと太陽の熱を感じた。大地がそれにあわせて少しずつ発熱する。生きている証のようだった。彼女は息を吸って、吐く。
 降り注ぐ熱の破片をかきわけ、瑞穂の脳内に、ギイ、と、鈍い音が響いてくる。それは木扉が閉じていく音に、とてもよく似ていた。



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