* 天球をすべる、第1話 *


 1.

「先週のアレ、まだゼンゼンわかんないんだよね」
「わかんないとかヤバくない? あれ、地球規模だったじゃん。今日のテレビ見た?」
「見た見た。外国のやつもやってたよね。映像見た? 日本よりヤバかったよ、一気に暗くなって」
「うちらんとこは夜近かったからあんま気づかなかったもんね。NASAとか超調べてんでしょ?」
「らしいけど、ニュース見てても新しい情報ないじゃん」
「国の緊急発令出たときは、マジ引いたよ。学校も休みになるし」
「休みになったのは良かったけど。つか、翌日には晴れたから安心したよ」
「マジあのまんまだったらどうしようってビビッたけどさ、あれからなんもないよね」
「でも、原因解明中とか言ってるけど、隠蔽してそうじゃない?」
「だよね。今の政府じゃやりかねなくない? 超ヤバイって」
「ヤバイっていうか、だいたいさ、あんなんが起きたことがキモいって」
 だって、ありえないじゃん! 
 甲高く上がった声に、明日香は顔を引きつらせて小走りに通り過ぎた。
 これ以上聞きたくない。一音でも耳にしたくない言葉が、今日も通学路をざわめかせている。一人で歩いていると、他生徒たちの余計な話が耳に障るから嫌なのだ。いつも一緒に登校している相手を恋しく思うと同時に、この長い道のりが恨めしい。
 彼女たちが話すとおり、一昨日は緊急事態のせいでゴールデンウィークの休みが一日増えていた。明日香は唐突に訪れた休校日をどのように過ごしていたのかほとんど覚えていない。両親が働きに出る日中は、食事も摂らず部屋で放心していた気がする。まともに実生活が成り立たなかったのだ。それくらい、強大な不安に苛まれていた。寝付くことすらままならなかった。
 バラバラバラ、と、遠くからヘリコプターの音が聞こえて、明日香はとっさに顔を上げた。跳ねた心臓に息を詰め、すぐ黒いアスファルトに視線を落とす。聴覚が敏感になっている自分を叱咤する。美しい快晴の配色は、まったく目に留まらなかった。夏に近づこうとする時期の空を明日香はとても好んでいたはずだが、今は彩るすべてがただただ不穏に見える。
 早く建物の中に入りたいと願いながら、二〇分以上かかる道のりを早足で過ぎて行く。ヘリコプターの音が離れれば、ほうっと息をついた。正門まで、あと少しの距離だ。中学校というくくりに溶け込めば、多少現実を忘れることができる。少なくとも授業中は、今までどおり何も変わらないのだ。まだ、誰もあの現象が起きた原因を知らない。
 三日前から、明日香はずっと怯えて過ごしていた。
 どうしてこんなことになってしまったのか、なぜあんなものが家にあるのか、今でも説明のしようがない。ただ、明日香の関与で起きてしまった事実だけが一人歩きし、世界中を混乱の渦に叩き落としたのだ。
 今も、全世界の宇宙、気象研究者たちが血まなこになって原因究明に勤しんでいるという。彼らが原因を隠蔽するどころか、起因の尻尾すらつかんでいないことを明日香はよく知っている。占い師や預言者などが、これは重大な何かが起こる予兆だとテレビのワイドショーで話しているのを見た。明日香は、このときばかりは鼻で笑った。
 鍵を握るのが日本に住む平凡な中学三年生だとわかったとき、国家はどのように動くのだろう。世界の混乱をテレビ映像で目にして、明日香は改めてショックを受けた。あの現象を間接的でも引き起こしたのは明日香だった。ささいな動作で世界中をパニックにさせてしまったのだ。地球にいるすべての生物たちが目撃者となった。
 明日香の地区にある防災無線は、異常現象が終わってから何度も響き渡った。世界は数日を経てようやく落ち着きを取り戻しはじめているが、国家機密レベルのものが家にある事実を考えれば考えるほど、明日香の頭からすうっと血の気が引いていく。自分は外国に重要人物として差し出されてしまうのか、地球規模で有名になって普通の生活が送れなくなってしまうのではないか。何より、また同じようなことが起こってしまうのではないか不安でたまらなかった。
 同じ屋根の下に住む共働きの両親は、一人娘の様子に気づかず日常を繰り返している。そこには、明日香とは打って変わって少し解放的な空気があった。先月は同居していた祖母が倒れ、家族一同慌しく動いていたせいだ。そのまま病院で目覚めることなく亡くなった彼女の葬式は、先週執り行われた。明日香はゴールデンウィークに挟まれた平日を丸々忌引きで休んだ。祖母のことで残りの休みを物悲しく過ごしていたが、そのときは連休の結末など考えもしていなかった。
 両親にはあの現象が収束した後すぐ、亡き祖母の部屋に変わったものがなかったか訊いた。欲しい回答は得られなかった。他人事でテレビから情報を得る肉親に、明日香は失望した。学校が再開するまで、食事もろくに喉が通らず、考え事ばかりしていた。
 両端に木々の茂る正門を抜け、三年生用の玄関口に着けば友人たちから声をかけられる。まだ何も知らない彼女たちの無邪気さは、明日香の癒しだ。だからこうして、家に引き籠もらず外に出て息を吸う。
 本当に、昨朝は登校するまで辛かったのだ。親友の三織から、風邪で休むというSNSが届いたことも心細さを生んだ。精神的な安らぎを求めながら、明日香は外へ出ることに怖気づいた。日中一人で家にいることと学校に行くことを天秤にかけ、結果的に気力を振り絞って学校に出てきてよかったと思う。おかげで昨夜はようやく眠れるほどの安息を、日常生活から少しだけ手にできた。
 しかし、解決することはないのだ。目覚めてテレビを見れば、三日前の異常現象の話が続いている。先刻も登校前に、テレビのコンセントを根元から引き抜いて親を怒らせたばかりだ。国単位で発信される情報など、朝から聞きたくない。
「おはよう、明日香ちゃん」
「あ、うん、おはよう」
「ね、三織ちゃん休み? 今日は部活あるから」
「うん、まだ休みだよ。でも、明日は来られるって」
「そっか、ありがと」
「そうだ明日香ちゃん、英語の宿題した?」
「英語の? 一応、でも、五時間目の数学はやってないから休み時間にやらないと」
「私もしてないからヤバい! 休憩時間に一緒にしようよ」
「いいよ」
「あ、それ私も入る!」
 秒単位で三年一組の教室に生徒が入ってくる。友人に声をかけられ、いつもと変わらない会話がはじまることに明日香は心から安堵する。そして、自分も普通であることを確かめる。
 チャイムが鳴った。担任がやってきて、挨拶からのホームルーム、掃除の時間、一時間目、と、カリキュラムがすべるように行なわれる。今日の明日香の大きな支えになっていたのは、三織に会える、という一点にあった。親友の三織は今日も学校を休んでいるが、熱は下がっているという。本人はほぼ元気なのだろう。SNSの絵文字が昨日よりも多かった。聞いてほしい話があると返信に添えれば、放課後に見舞い名目で遊びに来ていいよ、と、願ってもない回答が来た。
 この混乱にたいして、話を聞いてくれる相手が欲しかった。一人っ子の明日香にとって、一番身近な同年代の話し相手は三織だ。この秘密を話すことに大きな躊躇いはあったが、一人で抱え込む勇気はない。三織は理数が得意だから、何かしら起きた現象の助言をくれるかもしれないとも考えていた。
 しかし、どうやってこのことを話そう。授業中はそのことばかりが頭にめぐる。三時間目の理科では、ヒントを探そうと教科書をめくり続けた。理科の先生は先日の異常現象について一言も発さない。今月末に行なわれる中間テストの範囲をほのめかす程度だ。学校は休み明けの気だるさから抜けきれず、窓から肌をなぞる風に数人の生徒が目を開けて意識を取り戻す。世界が終わってしまうかもしれない、と、皆が本気で考えていた三日前が嘘のようだった。
 明日香は、陽の当たる席から窓を覗くように見上げた。真昼の太陽が照っている。青い空に綿毛のような雲がゆうゆうと泳いでいる。この景色が、一瞬にして暗闇に陥るというのはナンセンスだ。しかし、そのナンセンスなことが実際に起こった。
 室内のブレーカーが飛んだように、空が一面真っ暗になったのだ。
 闇が訪れたというよりも、地球から太陽がなくなったというほうが正しい表現なのだろう。日の出は一向に訪れず、明けない皆既日食、南北極に訪れる極夜などと表現されていたのを聞いた。神が岩隠れしたという古代の神話をなぞったひともいた。しかし、太陽が消えただけでなく、月も星も見えなくなったのは異常だった。地球全体の空が漆黒に包まれた。黒い画用紙を貼り付けたような奥行きのない天上を見て、明日香もはじめ夜にしては奇妙だと思ったのだ。
 日本では、四日前のちょうど太陽が沈んだ頃に起こった。明日香はその日、午後からずっと和室で祖母の遺品整理をしていた。
 亡くなった祖母はとても品が良いひとだった。読書と洋菓子が好きで、両親や親戚からは変わったひと、物静かだけれど隙のないひとというイメージがついていた。しかし、一番身近に接していた明日香は、彼女のやさしさを知っている。祖母が自分から会話をはじめることはまずなかったが、昔のお話を聞かせてほしいと頼めば話してくれた。最後まで何を考えているのかわからないところもあったひとだったが、共働きの親をもつ明日香にとって、家に帰れば出迎えてくれるのが祖母で、亡くなったことによる喪失感は大きかった。
 間延びしたゴールデンウィークは、そうした祖母の部屋の片付けをかってでた。あまり部屋に家族を招くことをしなかった祖母だったが、彼女の所持品にアンティーク小物が多いことを知っていて、母親より先に欲しい形見を選りわけておきたかった。鼈甲の髪留めや琥珀のブローチ、貴婦人の姿が象られたカメオ、模様の入ったカフスなど様々な種類のアクセサリーから、飾りの美しいペーパーナイフや木と紙でできた帆船の入ったちいさな壜、金であしらわれた白磁の飾り小皿など、押入れの中にはすてきな品がたくさんおさまっていて、明日香は宝物を見つけたような気分で遺品整理に没頭した。和室の電灯をつけて作業していたこともあって、明日香は異常現象に気づくのが遅れたのだ。
 海外のような大きな騒ぎには至らなかったが、その日の夜から国主導の異常事態宣言とともに、テレビやインターネットすべてが消えた太陽の行方ばかりを追い、翌朝になっても暗闇は剥がれなかったことから、店やスーパーに住民たちが大挙して押し寄せた。暗くなったままの空を、ひとびとは過度に不安視したのだろう。いつ太陽が戻ってくるのか誰もわからなかった。騒がしい屋外の声を聞きながら、明日香はテレビで情報を見つめていた。
 このまま、世界が滅びるかもしれない。
 その不安は、この家に集まっていた母親と親戚たちから強く伝染していた。宇宙開発機関が状況を説明する前から、全人類一致で世界の終わりを考えただろう。治安が悪い地域は、略奪などの犯罪が激増したという。各国のトップが、民衆に冷静さを失わないよう訴えていた。
 しかし、不思議な点もあった。太陽の光と熱が失われているにも関わらず、気温への影響がまったくなかったのだ。暗くなった直後は電話回線が混雑していたものの、電波にも支障はなかった。単純に、空が真っ暗となっただけだ。それも、翌日の昼前には一瞬にして取り払われた。瞬きして気づくと太陽が戻っていた、というくらい呆気ないものだった。
 明日香は、空から暗闇が取り払われた時刻を正確に覚えている。午前十一時六分。
 また、ヘリコプターの巡回する音が聞こえている。原因がわからないせいで、何が次起こるのか、これが再度起こるものなのか誰も予測できていない。野外を見つめていた明日香は一度黒板に目を向け、ノートに書き写すものがないと知ればグラウンドへ視線を投げた。窓の外の景色を眺めるというよりも、不審な様子がないか気になった。国の機関に突然連れ出されてしまうのではないか、という強迫観念もあった。
 自分は何も悪くない。そう強く思い、心の中で弁解を繰り返すことでどうにかやり過ごしている。本来自分は関係なかったのだ。祖母が亡くならなければ知ることもなかった。
 四時間目が終わる合図で、クラス中が席を立った。明日香も気を引き締めて彼らの動作に追随する。給食を終えて、数学の宿題を集団で仕上げると職員室に赴いた。三織の家へ見舞いに行く口実を受け取る必要があった。
 クラスの違う彼女の担任はあいにく不在だったが、三年四組の副担任から「平野三織さんへの渡しものの件は伝えておくから、放課後にまた来てくれない?」と言われ、明日香は頷いた。
「佐伯明日香さんね。三年一組の」
「そうです。お願いします」
 五時間目の数学の宿題は全問正解だった。安堵が積もれば、比例して三日前の出来事の影を薄くなる。しかし、帰宅すればまた我に返るのだ。家には対峙したくないものが鎮座している。学校にいれば家に帰る気が失せ、家にいれば外に出ることが怖くなる。こうした気持ちになったのは生まれてはじめてだった。散乱する思考は次第に首を俯かせ、早く放課後になることだけを祈るようになった。
 家に一旦帰宅するより、先に三織の家へ行こう。終礼の前に、トイレでこっそり三織へメッセージを送った。三織ちゃんの担任からプリントをもらって渡すことを文面に添えた。
「明日香ちゃん、今日部活?」
 学校が終わって教室に残る明日香に、二人組のクラスメイトが声をかける。首を横に振ると、タイミングよく鞄の中で携帯電話が振動した。急いで見なくても相手は三織とわかっている。
「ううん、美術部は明日。ちょっと職員室に用があって待ってるんだけど、まだ四組終わってないよね」
「あそこの先生に用あんの? 話長いんだよね。去年担任でうざくてさ」
「そうそう、それに比べて今の担任は早くていいよね。私らはこれから部活だから」
「そっか。したら、私もそろそろ職員室のほうに行こうかな」
「じゃ、途中まで一緒に行く?」
 明日香の言葉を拾った友人に甘えて、一緒に教室を離れる。アース・ブラックアウト現象の話題がはじまったところで、テニス部へ向かう彼女たちと別れ、大きなため息をついた。
 今朝から、あの世界が真っ暗になった現象に、アース・ブラックアウトという名をつけられているのは知っていた。テレビのアナウンサーが、おもむろにそう言い出したのだ。明日香はそのネーミングセンスがあまり好きではなかった。一日の半分が過ぎて、何の変哲もない日常に感謝したい気持ちになっていたが、またこの話を聞いてテンションが落ちる。
 一階にある職員室の手前で、明日香は四組の先生を待った。途中、明日香の担任に何か用かと声をかけられたが、四組の平野三織の話をすれば用件を悟ったようだ。気をつけて帰れよ、と、言って離れていった。受け持つ生徒の不安感も心配事も気づかない男担任の鈍感さは明日香にとって有難い。逆に、四組の若い女担任と顔をあわせたときは「元気ないようだけど大丈夫?」と、待たせた詫びついでに言われ、ドキッとした。
「だ、大丈夫です。あの、平野さんのプリントとかありますか」
「あるわよ。昨日のぶんとあわせてお願いできるかしら?」
「はい、大丈夫です」
「助かるわ。ちょっと待っててね、用意してくるから」
 この先生と会う前に、SNSを見ておけばよかった。そう考えながら、職員室の中を見回す。三日前のことを、ここにいる大人たちはほとんど話さない。昨日学校再開のときに、担任から一度状況説明されただけだ。今は通常業務に戻っているのだろう。昨夜仕事から帰ってきた両親も、思いのほか業務の混乱はなかったと話していた。
 海外の略奪や大パニックのことは知りたくもないが、明日香の地域がアース・ブラックアウトと名づけられた現象で大混乱に至らなかったことは幸いだった。そのおかげで、明日香も勇気を出して学校に行き続けることができ、さらなる後悔の念にとらわれることもない。
「平野さんに渡すぶん、ファイルに全部おさめたからよろしくね」
 職員室の出入り口で待っていた明日香は、戻ってきた女性教諭の声に頷いてファイルを受け取った。彼女が担当している国語のプリントも中におさまっているようだ。
「そうだ、穂波さんのおうちも知ってる?」
「えっ」
 突然問われた名前から、明日香は反射的に声を出した。この中学校では、二つの小学校の生徒があわさって四つの学級を編成している。同じ小学校出身者に穂波という姓はいないが、聞き覚えはあった。下の名前は凛子だったはずだ。かなり変わった子だという噂を聞いているが、一緒のクラスになったことがなく接点もない。
「佐伯さんは知らない? 彼女も昨日から休んでいるんだけど、誰かプリント渡してくれる子いないかしら」
 困ったように明日香を見られても、四組自体に知っている子は少ないのだ。わからないです、と、簡潔に答えて退出の挨拶をする。三織の担任は明日香を引き留めることなく、平野さんによろしくね、と、言葉を返した。職員室に出る前に、一人の生徒が入室してくる。色違いの名札は一学年下を表していた。明日香の後ろで、三織の担任の名を呼んでいる。プレートには、穂波、と彫られてあった。
 兄弟のいる家庭を明日香は羨ましく思いながら、ローファーに履き替えて校門を離れる。下校する生徒のほとんどいない道で携帯電話を開きながら歩いた。SNSに、学校でたよ、これから三織ちゃんちに行くね、と、返信する。三織も五つ下の弟がいる。兄弟がいれば、一人で重大な秘密を抱えなくて済んだのではないかと痛切に思う。
 せめて、祖母が生きている間に教えてくれれば、こうしたことにはならなかった。しかし、あの物静かな祖母が打ち明けてくれるようには思えなかった。遺書も何もなかったのだから、そもそも本人もこうして呆気なく亡くなると考えてもいなかったのだろう。祖母が同居するようになったのは、六年前のことだ。彼女の生前の部屋は今と変わらず、一度も模様替えをしなかった。同居してから調度品も置物も位置を変えたことはなかったはずだ。
 祖母のことを考えながら歩くと、すぐ三織の家がある道に差しかかる。彼女の家は学校から一五分ほど離れたところにある。畑に面した道路の向かいにあり、数年前に建て直したばかりで少し目立つ。古い家の多い地区において、その家は三織の自慢になっていた。
 インターホンを鳴らせば、すぐツインテールの三織が出てきた。学校を風邪で欠席したわりに元気な表情だ。部屋着ではなく、カーゴパンツにロングTシャツという出で立ちだった。
「明日香ちゃん、久しぶり! 制服のままなの?」
「そのまま来ちゃったもん。三織ちゃん、外出ていいの?」
「いいよ、熱ないし。咳がちょっと出るだけだし。中入ってよ、今おかあさんたちいないから」
 手招く彼女に頷いて、門扉を開けて家に入る。忌引きと風邪の欠席を交互にしたせいで、三織と会うのは先月末以来だ。本当に久しぶりだよね、と、明日香は声を洩らした。
「プリントもらってきたんだ?」
「うん、けっこう枚数あったよ」
「えー、なんだろ。あの担任のことだから、宿題も入ってそう」
「アタリ。国語のプリント入ってた」
「マジで! 超うざいんだけど! 明日も休もうかなあ」
 でも、部活は出たいし。そうつぶやく三織とともに階段を昇って部屋に着く。見慣れた場所に明日香は大きな安らぎを感じて、カーペットの上に座り込んだ。三織の変わらない様子に気持ちが和らぐ。
「ちょっと飲み物とお菓子取ってくる」
 当然のように、三織は何も知らない。明日香はどう相談を持ち出そうか考えながら、鞄の中を探った。ファイルを取り出して地べたに置く。ベッドの端にかけられた折り畳み式ローテーブルを取って、脚を広げた。ハート型の小さいテーブルは小学生のときから三織の部屋にある。
 階段のほうから一度下った足音が戻ってきた。
「お菓子、これしかなかったんだけど」
 円状の菓子缶の上にペットボトルとプラスチックコップを二つ重ねた三織が、ゆっくりした足取りで戻ってくる。明日香は手伝いながら口を開いた。
「いいよ。はい、これがプリント、」
「げっ、マジでけっこうあんじゃん! もう、やだなあ」
 テーブルに品を置いた三織がかかさずファイルを取って、中身を確かめる。
「うわあ、進路調査票まであるって。マジ何考えてんのあの担任」
「え、四組ちょっと早くない?」
「一組まだなの? あの担任いっつもやること早いんだよ」
「じゃあ、うちのクラスも明日くらいに進路票配られるのかあ」
「そうじゃん? いいよね、一組って。あの担任楽じゃん。私も明日香ちゃんと一緒のクラスがよかったなあ。中学になってから、結局一年のときだけだよね、一緒だったの」
「そうだよね。しかも一組と四組って教室遠すぎるよ」
「だよねえ。マジ階段からも遠いし、担任だるいし」
 愚痴に似た会話は、親密である証拠でもあった。当たり障りなく友人関係をつくる三織のやり方に、明日香は少し憧れている。そのぶん、幼なじみの明日香の前ではきちんと本音を話してくれるのだ。意外に好き嫌いがはっきりしていることは明日香だけが知っていて、二人きりの時間を好んでいた。普段は三織がバトミントン部で忙しいため、遊ぶのは休日が多い。登校ではかならず二人連れ立って校門をくぐる。
 プリントを確認する三織を横目に、明日香はグレープジュースの蓋を開けた。お菓子は食べる気にならなかった。水音に、三織が顔を上げる。明日香は彼女のぶんもコップに注いだ。
「ありがと。ああ、どうしよ進路。一応考えてるけど」
「前言ってた高校が第一志望なんじゃないの?」
「そうだけど、家から遠いじゃんあそこ。あと、噂で好きじゃない男子も第一志望にしてるとか聞いてさあ。あんなんと高校も一緒とか萎えるんだよね。明日香ちゃんは? 前言ってた、美術コースあるとことかにすんの?」
「ううん、まだ三織ちゃんみたいにちゃんと決めてない」
 進学先と言われても、明日香にとって現状一番の悩み事が脳裏の大部分を占めていて考える余地はないのだ。どうしよう、と、つぶやいたのは志望校のことではない。三織はそれに気づかず、だったら一緒の志望校にしようよ、と、嬉しそうに提案する。明日香は小さく頷いて俯いた。その感情の起伏を察したのか、三織の声色も変わる。
「どうしたの? なんかあった? ……あ、おばあちゃんのこと、残念だったよね。退院できると思ってたけど」
 祖母が亡くなったことを重くとらえているのかもしれない、と、彼女は思ったのだろう。三織も明日香の祖母と何度も顔をあわせていたのだ。先週の通夜にも、母親とともに訪れてくれた。明日香はちょうど親戚たちと斎場を離れていて、三織には会えなかった。
 明日香の心に巣くう感情は、祖母の死に起因しているものではなかったが、とりあえず頷いた。祖母の死が悲しくないと言えば嘘になる。
「わざわざ通夜まで来てくれてありがとう」
「いいよ、明日香ちゃんがちょうどいなかったときだったからタイミング悪かったけど」
「そうだよね。来るの知ってたら、ずっといたんだけど」
「連絡しとけばよかったね。でも、電源切ってた?」
「うん、式のときは親に怒られるし、ずっと切ってた」
「だよね。うっかり鳴ったらヤバいもんね。そういえば、おばあちゃんっていくつだったの?」
「九〇だよ」
「えッ! マジで!」
 飛び上がるような驚きに、明日香は少し笑った。素直に笑みが出たのは久しぶりだった。
「そうだよ。三織ちゃん、知らなかった?」
「知らないよ。訊いたことなかったもん。そんなふうに見えないくらい若かったじゃん」
「うん、服装とかいつもキレイするおばあちゃんだったから、よく言われる。うちの家系、長生きらしいんだよ」
「っていうか、おばあちゃんにしては歳取りすぎじゃない?」
「うん、おとうさん生んだのがすごい遅かったみたいだよ。あと私が生まれたとき、おとうさん四〇近かったし」
「そうだったっけ?」
 三織と明日香の母親が同じ年齢だからこそ、彼女は納得できないような声を出す。明日香はその姿を見ながら、どうやって抱える秘密を打ち明けるべきか考えていた。葬式の後日に起こったことを、彼女もよく知っているはずだった。風邪を引いて寝込んでいたとはいえ、家族から話は聞いているはずで、テレビも見ているだろう。当日と翌日は防災アナウンスも騒がしく外で響いていたのだ。
「それにしてもさあ、」
 向かい側に座る彼女が話題を変えようとしていた。明日香は顔を上げて三織を見つめた。アース・ブラックアウトが、と、言い出すに違いない。彼女は世間の時事に敏感なのだ。
「ゴールデンウィーク、風邪のせいでよくわかんないうちに終わっちゃったなあ」
 しかし、大きなため息は明日香に問いかけるものではなかった。意外な言葉に、明日香は厭っていた話題を自ら持ち出した。
「でも、すごいのあったよね? アース・ブラックアウトとかって、」
 前代未聞の異常現象が起きたことを、三織が知らないわけがない。しかし、彼女はピンと来ない表情をしていた。
「ああ、なんかそんなんもあったらしいね。私その日一番熱があって、ずっと寝てたからよく知らないんだよ。すっかり置き去りにされた感じ、みたいな。おかあさんとかに言われてもよくわかんなんなかったし」
 真っ暗になったんだよね? でも、夜だったからあんま変わってなかったじゃん。
 予想外の反応に、明日香は大きく戸惑った。翌日も昼頃まで真っ暗だったんだよ、と話しても、ベッドでずっと寝てたし熱にうなされててそれどころじゃなかったんだってば、と答えられる。昨日ようやく病院に行って下剤をもらった、それまでマジしんどくて大変だったという話を聞きながら、明日香の心は新たな不安に蝕まれはじめた。それでも、打ち明けたい相手は今のところ三織しかいない。
「それでね、三織ちゃん。そのアース・ブラックアウトのことなんだけど、」
 意を決して口を開けば、アース・ブラックアウトってちょっとカッコよくない? と、のん気な言葉が返ってくる。明日香は三織の様子に、嫌な気持ちを芽生えさせながら話を続けた。
「私ね、原因知ってるの」
「なんの?」
「だから、アース・ブラックアウトの、」
「そうなの? まだ調査中じゃないの?」
「そうなんだけど……うちの家に、それを起こしたものがあったの」
 世界レベルで重要機密の事項について、明日香は表情を強張らせて口にする。とうとう、言ってしまった。だが、聞いている三織はただ不思議そうな顔をする。同じ台詞を繰り返した。
「そうなの?」
「うん。死んだおばあちゃんの部屋にあったの。その日ね、私おばあちゃんの部屋の整理をしてたんだよ。おばあちゃんけっこうオシャレだったじゃん」
「ああ、オシャレだったよねえ」
 そこは、声に力をつけて同意してくれた。話を聞く耳を持ってくれていることに明日香は安堵した。
「それで、いい感じのものは形見にもらおうと思って、おかあさんに言って、おばあちゃんの部屋で整理してたの。そのときにね、いつも棚に飾ってた置物の中で、四角い透明の立方体みたいな、中に青い球体が浮かんで入っているやつがあって。クリスタルでできた感じなんだけど、色が青っぽくて少し不思議で、手のひらに乗るくらいの大きさの。持ったらけっこうずっしりしてたから、紙とか飛ばないようにする重石にちょうどいいなって思ったんだよ」
「ふうん」
「他にも、かんざしとか懐中時計とかあって、欲しいやつ全部ひとつの箱にまとめて。それで蓋を閉めて押入れにとりあえず片付けて……したら、アース・ブラックアウトが起こってたんだよ。私、親に言われるまで全然気づかなくて、」
「ふうん」
「ちょうどおばあちゃんが亡くなったときだったから、親も親戚も、祖母の祟りかも、とか変なこと言ってて、」
「おばあちゃん、祟るタイプだったっけ?」
「冗談に決まってるじゃん」
 当時のことを思い出して苦笑する。親たちは死者にたいして人聞きの悪い言い方をしていたが、世界中が不可解な現象に顔を引きつらせ強大な不安に襲われていたのだ。まともな思考は働いていなかった。まともな状況ではなかったのだから仕方がない。
「次の日、私ちょっとピンときたことがあって、暗い中おばあちゃんの部屋に行ったの。それで、電気つけて、」
 あのときのことは、今もスローモーションのような映像で頭の中に残っている。とても嫌な予感がしたのだ。それは直感にも似ていた。確かめるべく押入れの襖を開けて、奥から深緑色の鉄製ボックスを取り出した。祖母の美しい遺品を明日香が厳選しておさめた箱だった。
「その箱を開けて、そのクリスタルみたいな置物、取り出してみたの」
 蓋を開ければ、前日と変わらずアンティークな品々が整然とおさまっていた。明日香は、迷いなく球体を内包した透明の立方体を手に取った。蛍光灯の下で、もう一度よく眺めたのだ。目の前で、球は蒼い光の反射を滑らせた。
「さっき言ってた置物がね、変な感じで光ったの。気づいたら、外に太陽が戻ってた」
「ふうん」
「三織ちゃん、あの置物の中にある球、地球なのかもしれない。本物の。だから、私が箱の蓋閉じたらここの世界もいっぺんに真っ暗になったんだよ。タイミングがぴったりだったんだもん!」
「そうなの?」
「そうだよ。あれ、まだ家にあるの、」
 何の変哲もない置物だと思っていた。しかし、今は地球の映し姿だと知っている。世界一重要なものが、自宅の中に存在していることが明日香の拭えぬ恐怖心につながっていた。
 あの置物ひとつで、地球という存在を生かしも殺しもできる。悪い人間に知られれば、地球がとんでもなことになる。それ以前に、血まなこで原因究明をしている国家や国際機関に見つかれば、明日香自身も平穏から切り離されてしまうのだ。それだけは断固として避けたかった。だからといって、危険物は郵送することも持ち運ぶこともできない。小さなアクシデントで、地球が重大な危機に見舞われるのだ。明日香があの置物を箱に入れ蓋をした程度で、一寸の光すら失った脆さだ。
 しかし、置物の素性を隠したまま、一生をかけて守る勇気も意志も出てこない。自分のことですら精一杯の中学三年生なのだ。人生を賭けて守りたいものなど、欲しいと思ったことはない。
 明日香の怯えた目を、三織は至って普段通りの眼差しで見つめていた。理解してくれたのかわからない。明日香は次の一声を待った。彼女は、ふうん、と、息をついた。
「よくわかんないけど。一気に暗くなったんだよね?」
 話がはじめのところに戻っている。一気に暗くなって一気に光を取り戻した現象は、紛れもなく事実だ。世界中のひとたちが証人になっている。しかし、三織はその時点から疑っているようだった。
「なったよ。テレビでもずっとやってる話じゃん!」
「私、そこからあんまよくわかってないんだよね。だって漫画みたいな話じゃね? 学校行って、みんなから話聞けばもっと実感できるのかなあ」
 コクリ、と、喉を鳴らしてジュースを飲む。三織は完全に世界から蚊帳の外にいた。空が漆黒に固定されていた恐怖を味わっていないのだ。世界中のひとと違えてしまっている彼女の発言に、明日香は大きなショックを受けた。
「三織ちゃん、信じてないの?」
「ううん、実際起きたんだから、信じるも信じないもなくない? だって、リアルで起きちゃってんだから。でも、あんま私は覚えてないんだよね。けっこうすごかった? 学校も休みになったんだよね? 臨時休校になると授業の進みって、キツくなるんだよね。そうだ、一組って英語どこまで進んでんの? うちのクラス、遅れてるらしいんだよ。今月末の中間テスト、いい成績とらないと通信簿に響くし。推薦とか滑り止めとかも考えないと」
 三織の言葉は変遷して、結局進路調査の件に戻った。彼女の中で今最も重要なことは、配られた調査票なのだろう。うやむやのまま話を切り上げられ、明日香は勇気を打ち砕かれた気分になった。信頼する相手と、奇妙で不穏な置物のことを共有したかったのに、これではまったく駄目だ。
「ね、明日香ちゃん、」
 声をかけられ、消沈したまま顔を上げる。三織は長らく行っていない学校のことを気にしているようで、明日香の気持ちに気づいてなかった。
「学校、クラスで私以外に休んだひととかって、いたか知ってる? 一組って授業けっこう進んじゃってる?」
 明日香はその質問に首を振った。すぐ、一言だけ発する。
「三織ちゃんのクラス、穂波さんも休みだったよ」
「ああ、穂波凛子。あの子も休んでんだ。私好きじゃないんだよね、なんか変な感じで不気味な雰囲気あるじゃん。出欠番号すごい近いんだけど、後ろに立たれると嫌な感じ……そうそう、霊が見れるらしいよ、あっちの小学校のとき、よくそんなこと言ってたんだって」
 ゴシップ好きの三織は、頻繁に明日香へ情報を流してくれる。学内や生徒のことは、三織に訊けば大抵わかるのだ。明日香はそれを少し重宝していた。しかし、今そうした話は聞きたくない。
 あと彼氏いたらしいよ、早くない? 中学校のときならわかるけど、でも誰だったんだろ、うちの中学に元カレいるか探してみようかなあ、と、明日香が相づちを打たなくても三織は話を続けている。少しだけ無視しようと思ったが、三織が咳込みはじめたので、慌てて彼女を見た。肺を痛めるような強い咳を続け、明日香は彼女の背をさすった。
「だ、大丈夫?」
「ッ……う、うん。はあ、この咳まだ治んないかあ」
「ちゃんと治ってないじゃん、明日も休んだほうがよくない?」
「いいよ、薬ちゃんと飲んでるし。明日は一応学校行って、咳止まらなかったら明後日また病院行くから。……そろそろおかあさんも帰ってくる頃だし」
 見上げた掛け時計は、桃色基調の部屋にあわせて紅い。時針は夕方五時を指していた。外の薄暗さを考えると、空は曇ってきているのだろう。明日香は鞄を引き寄せた。
「今日は長くいても悪いし、そろそろ帰る」
「そうだね、明日も会えるし。プリントありがとう」
 どういう気持ちで明日香が彼女の声を聞いて、立ち上がったのかわかっていないようだ。三織は引き留めもせず、軽く咳を繰り返しながら玄関先で手を振った。
 明日香もよくわからない気分になっていた。家路を急ぐ途中、突然発された大きなサイレン音に心臓が飛び出そうになって歩調をゆるめた。一本向こう側の大通りで、パトカーが通り過ぎたのだろう。次は空から水滴が落ちてきた。途端に明日香は悲しくなった。
 自分の持つ苦しみを、誰も理解してくれないかもしれない。その孤独感と空しさが、一気に胸を覆っていた。
 明日香が体験したことは紛れもない事実だった。あの置物が原因であることも確かだ。しかし、それを気軽に打ち明けられる相手がいない。内容が重過ぎるのだ。それに、立証できるものもなかった。もう一度、箱の中にクリスタルの立方体を閉じ込める勇気もない。再びアース・ブラックアウトが起きれば、また世界は混乱する。 
 誰もいない家に着いて、明日香は鍵を開けた。亡き祖母の部屋と自室は二階で隣りあっている。階段を昇る気も失せ、リビングのソファにもたれた。濡れた髪や衣服にかまわず、雨の音を耳にする。明日香はそのまま、母親が帰宅するまで身じろぎすらできなかった。



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