* リクペラ・コン・ブルー 第1話 * | |
エプロンと革のベルトを解くと、シャルネはゆっくり息をついた。続けて青いジャンパースカートと麻のブラウスを脱ぎ、軽く伸びをする。 豊かな胸にシュミーズから透けて見えるすらりとした脚。耳を澄ませなくても聞こえるのは明るい夜の喧騒。 「さて、と。早く用意しなくちゃ」 衣装箱から薄紺色のドレスを取り出す。レースがふんだんに使われたパフスリーブドレスは、町唯一の酒場を切り盛りする女将からいただいたお気に入りだ。この部屋も度々シャルネの楽屋として使わせてくれている。 素早く身につけ、ウェーブがかった長い亜麻色の髪を前にかき寄せる。 ……後ろの編み上げは少し緩めたほうがいいわね。この前、きつくしすぎて歌い辛かったもの。 手を後ろに回してコルセット紐を調節する。身体を縦に揺らせば、胸元の首飾りが大きく跳ねた。 革紐にくくりつけられているのは、大粒のブルーステラという宝石のような石だ。シャルネは大事にドレスの中へ仕舞う。 『それは、シャルネが城から逃げるときに亡き父王から託された鍵なのですよ』 そう育て親のローランに教わっているけれど、当時一歳だったシャルネには御伽噺のような響きだ。現に、自分が本当に王女という立場だったのか半信半疑でもある。 ……女将さんの娘さん、いつも使わせてくれて感謝しています。 鏡台の前に座り、ランプに照らされた輪郭に沿ってお粉をはたく。晩春の花咲く季節、日々の手伝いで少し日に焼けてしまっている肌だが、また冬になれば白さを取り戻す。 金糸のような長い睫毛とぱっちりした翠眼。健康的な薄紅色のくちびると、細いデコルデ。髪の色も元は明るい金だけれど、ローランに言われてわざと亜麻色に染めている。高い鼻梁は母である王妃譲りと言われているが、廃王国には肖像画一枚すら残されておらず、ローランも逃げるときに最低限の持ち物しか持たされていなかったと言うのだから比較しようもない。 港町から山岳地帯へ延びる大街道の中腹にある町、ゴドールに住み着いて八年。転々としてきた日々が嘘のように、すっかり地に足が着いた生活をしている。シャルネの身体もしなやかに成長を遂げ、一八歳になった今では町内で最も美しい娘として有名になった。 特にこの数ヶ月、シャルネの評判は格段に上がっている。 それというのも、唄を歌うようになったからだ。 今では三日に一回くらいの頻度で、酒場の舞台に立っている。 きっかけは市場だった。花の香り水や香油を売るローランの手伝いをする合間、子どもたちにねだられ童謡を歌っていたところ、女将からスカウトされたのだ。 『うちで歌ってみない? 皆娯楽に飢えているところだから』 そのとおり、唄を披露するようになったシャルネを町人たちは歓迎した。 ゴドールは豊かな水源を持ち農業が盛んだ。ただ、町には娯楽が少なく、数ヶ月に一度行なわれる祭りと酒場程度のもの。時々大道芸人などが訪れても、すぐ次の町へ去ってしまう。 酒場も以前まではムッとする空気で立ち込める男だらけの場所でしかなかったが、今はシャルネの唄目当てで酒場へ繰り出す婦人も増えて、町の活気に一役買っている。女将もこの変化に大喜びで、歌う日を増やしてくれないかと訴えてくるほどだ。 シャルネ自身も歌うことが大好きで、そこで心付けまでもらえることを有難く感じている。一方、育て親のローランはシャルネが目立つことを好ましく思っていない。シャルネ自身は廃王族の生き残りである実感はまったくないものの、ローランを悲しませないよう一応は気配っていた。 「うん、こんな感じでいいかしら」 口紅を引いて自分の笑顔を確認し、シャルネは立ち上がった。ふわりと揺れるドレスの裾を持ち上げ、白いシューズに履き替える。 「喉の調子も、……ん、大丈夫ね」 脱いだエプロンのポケットに収められている懐中時計で時刻を確認し、歌い手となるべく部屋を出た。スカートをひらりひらりはためかせて階段を降り、住居と酒場の狭間へ行き着く。 ドアの向こうは町一番の賑やかな世界だ。 大人の社交場の入り口を開く。数十の丸テーブルと隙間なく木椅子に座る人々。店内の隅には酒樽がいくつも置かれ、テーブル代わりにして立ち飲みしている男たちもいる。出番の前まで店の手伝いをしていたのだが、そのときよりも女性客が増えているようだ。 人々の熱気とアルコールと食事の匂いに、シャルネは微笑む。こうした場は嫌いじゃない。皆楽しそうにしているのを見ているのが好きなのだ。 カウンター内にいたエプロン姿の女将が振り向き、シャルネと目を合わせる。恰幅の良い身体に笑顔がよく似合う恩人だ。 「シャルネ、今夜も綺麗だねえ。嫁いだうちの娘より似合ってるよ」 「ありがとうございます。もう、向かっていいですか?」 「うん、皆待ってるよ。さあ今日も素敵な唄を歌って頂戴ね!」 激励と憧れに似た眼差しをニッコリと受け取る。カウンターの小さな出入り口をくぐってフロアへ移った。そのまま一番奥にある舞台へ向かおうとすれば、すぐカウンター越しから肩を叩かれた。 「シャルネ、ちょっと」 身体を女将に向ける。何か言いたげな顔をしているのを察して、カウンターに身を乗り出した。小声で尋ねる。 「何かありました? 身だしなみ、おかしいですか?」 「違う違う。化粧も前に比べてうんとうまくなったよ。そうじゃなくて、シャルネが着替えに行ってる間にね、珍しいご一行様が来たんだ」 「え?」 「新参者のお客だよ」 唐突な話に、シャルネもフロアへ首をひねった。本日の歌手の登場に気づいている者は何人もいるが、全員町に住む馴染みの顔だ。サッと見渡しても新参者がいるようには見えない。 ……新参者のご一行様? どこにいるのかしら? 「ほら、四人組で舞台前方のテーブルにいるよ。コソコソしてる感じはないけど、あれはお忍びだろうねえ」 ……お忍び? 旅行の途中で立ち寄ったのかしら? 高貴な位の者たちか聖職者か。ますます気になるが、ここで探している余裕はない。 「あの手の新参者に唄を聴かせるのははじめてなんじゃないかい? 今日は普段の倍張り切って歌っといで。ほらほら皆シャルネを待っているよ」 ……張り切ってって言われると、緊張してしまうのだけれど。 望まないプレッシャーに困惑しながら頷くと、止めていた足を動かした。それと同時に舞台からのリュートの音が響く。店内の客は待ちわびたように歓声を上げた。 「やっとシャルネの時間だ!」 「待ってたよ、シャルネ!」 「今夜も綺麗ねえ!」 「町一番の歌姫!」 「ありがとうございます。お待たせしました」 酒の力で大声になった客たちに笑みを見せながら、満員御礼の円卓の間をすり抜けていく。 舞台上では奏者のカロイスが美しい旋律を紡ぎながら、シャルネに熱っぽい視線を送っていた。 カロイスもまたシャルネの甘く柔らかい歌声に魅了された一人だ。伴奏役だけでなく、レパートリーが乏しいシャルネの練習相手もしてくれている。今夜はカロイスから新たに教わった船乗りを待つ女性の唄を含めて、七曲。最後は女将が大好きな民謡で締める。市場で子どもたち相手に歌っていた、この国に伝わる茉莉花の唄だ。 酒場奥にある二段高い舞台はもう間もなく。少しずつ店内の声量が下がり、弦を爪弾くカロイスが軽く頷く。シャルネも歌い手としての心持ちに切り替わる。 だが、舞台に上がる直前。ぐいっと腕を誰かに掴まれた。 突然のことだった。シャルネはビクッと身体を震わせ、足を止めた。 ……誰なの? こんな本番寸前のときに。 椅子に座る男性客の手だとわかり、少しムッとする。酒飲みばかりの店だが、歌う前に腕を掴まれるという不躾な行為を受けたのははじめてだ。 すぐに手は離れた。シャルネは咎めるように男を見下ろす。 次の瞬間、雷が落ちたように身体が硬直してしまった。 見上げている若い男は明らかにゴドールの者ではない。でも、そんなことはどうでもよかった。 シャルネは息を詰めた。顔や表情よりも先に両眼に心を奪われた。 ……なんて美しい色の、瞳なの。 力強く燃えるような紫青の瞳。はじめて見た色は宝珠のような煌きで、キラキラとシャルネを映している。 ……宝石みたい。これが、人間の瞳だなんて。 鋭いリュートの音が響いて、シャルネはハッと舞台へ視線を返した。 初対面の男に関わらず惚けたように見つめてしまった。 店内客はシャルネの異変に気づいていないようだが、高台にいるカロイスは変な男に捕まっているとわかっているようだ。シャルネにしかわからない非難するような表情に、慌てて男から離れて舞台へ駆け上がった。 ドキドキと心臓が鳴る。舞台に辿り着いた歌姫を客たちは歓声で出迎えた。 ……落ち着いて。今は皆のため、歌うことに集中するのよ。 そうっと深呼吸する。 「シャルネ」 カロイスの呼ぶ声に、顔を向けてゆっくり合図した。 遠くを見つめ、口を開く。 はじまりはアカペラ。一小節を越えて、リュートの美しい旋律が重なる。 歌いはじめると心は落ち着いた。一曲目を終え拍手をもらい、二曲目のリュート音が柔らかく締まる前に、そっと前方のテーブルへ視線を向けた。腕を掴んだ男を確認するためだ。 大きなシャルネの翠眼は、すぐに彼を捉えた。 ……いた、紫青の男の人。 最初に飛び込んでくる、紫に青を灯したような特異な瞳。 それ以上に、目を見張るほど見栄えの良い彼の容姿にシャルネは驚いた。日に焼けた顔立ちはハッとするくらい整っており、太い眉は髪とともに濃金だ。シャツから覗く男らしい腕としっかりした上半身。歳はシャルネより数歳上に見える。 直感で彼が山育ちでもないと知れた。港町のほうから来たのだろう。 ……女将さんが言ってたご一行様に違いないわ。 彼は先ほどの厚意に悪びれることなく、シャルネをじっと見つめていた。唄を聴いているというより、真剣にシャルネの姿を焼き付けんばかりだ。 ……吸い込まれそうなくらい美しい瞳だけれど、雰囲気もなんだか不思議。粗野っぽいのに気品があるというか。 シャルネと目が合っていることに気づいたのか、紫青の男は熱心な眼差しから突然パッと子どものような表情になった。精悍な容姿に明るい甘さが宿る。その変化にシャルネの目尻もふっと緩んだ。 ……腕を掴まれたときはびっくりしたけれど。はじめて来たみたいだし、嫌な感じはしないかな。悪い人ではないと思う。 二度目の拍手に我に返る。歓声に埋もれ挨拶をして、シャルネはまた歌いはじめた。紫青の男も自分の唄に乗せられて楽しそうに手を叩いてくれる。いつもより歌っているのが気持ちよくなった。 七曲をすべて歌い切ると、アンコールに応えて皆で歌える唄を選んだ。合唱が終わり、拍手とともにローランがつくってくれた小さな籠が回りはじめる。これがシャルネの稼ぎになるのだ。 「歌姫さん、ちょいとお話いいかしら?」 大きくお辞儀をすると、馴染みの老婦人に早速手招かれてすぐ舞台を降りた。籠が手元に戻ってくるまで、歌い手としての交流タイムだ。 とはいえ、ほとんど見知った大人たちだから粗相をされることはないし、会話も「次はこの曲を覚えて歌ってよ」だとか「ローランの香り水、次回はどの花かしら。一瓶取り置きしてほしいのだけれど」といった、普段の雑談や依頼に近いものばかり。 いつものペースに戻ると、紫青の新参者を目で追う余裕はなくなった。客たちとの会話にすっかり夢中になってしまったところで、女将からチップの入った籠を渡される。これで歌い手の時間は終了だ。 カウンターまで一時引き上げて、シャルネは本日のお駄賃を覗き込んだ。 普段は硬貨ばかりだが、今日はは紙幣が何枚入っていた。 ……あら、珍しいわ。 なんて思いながら一枚手にして、その額面に瞠目した。 シャルネが数度しか見たことがない、この国の最高額紙幣だ。しかも三枚もある。町の人たちが容易く出せる金額ではない。 すぐに放り込んだ人間が誰なのか気づく。 ……あの紫青の瞳の人だわ! 小籠を抱え、つま先立ちになってフロアを見直した。
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