* リクペラ・コン・ブルー 第2話 * | |
……うーん。でもやっぱり、私には受け取れない。彼が帰ってしまう前にお金を返さなきゃ。 この大金で生活が楽になっても、もらいすぎてしまったという罪悪感を引きずっていくのは嫌だった。自分は大金をもらうほどの美声を持っているわけではない。テクニックがあるわけでも声量があるわけでもないし、知っている唄も少なくてカロイスに教わっているほどだ。しいて人から言われるのは、歌声がやさしくて癒される、くらいで。 ……ひとまず普段着に戻ってから、彼に話をかけに行こう。 そう決めると、シャルネは駆け足で部屋へ戻った。大急ぎで麻ブラウスとジャンパースカートに着替え直す。その間、男のことを反芻した。 ……彼は何者なのかしら? 着ている服の仕立ても生地もすごく良いものに見えた。けれど、力仕事を厭わない力強さも感じるの。聖職者ではないことは確かよね。女将さんがお忍びと言っていたのだから、大商人か貴族とか、どこかの御曹司? うーん、それでもあんなに日焼けしているものかしら? 賊の若い長とか? まさか、それはないと思うのだけれど。 ぐるぐると推理しつつ、長い髪をひとつの太い三つ編みにまとめ、町はずれの森に住む田舎娘に戻る。 白いヒール靴から茶色のショートブーツに履き替え、また小さな籠を抱えると店内へ戻った。とりあえず、男に話しかけてみなければはじまらない。 カウンターから背伸びして、紫青の男がいるテーブルを見る。しかし、目に入った後姿は黒髪で、濃金色ではなかった。テーブルにいる面々が別人になっていることを知って、慌てて店内を見渡す。 数人の客が、出入り口あたりで動いているのが見えた。 背が高い四人組。その中に、濃いブロンド髪をくくった男の後姿。 ……いた! もう帰っちゃうのかも! 早く捕まえにいかなきゃ、と心は焦ったが、帰り際のほうが好都合だということにと気づく。酒場の中で渡されたお金の話はできない。いっそ外に出てくれたほうが紙幣も返しやすい。 声をかけてくる客にシャルネは愛想を振りまきながら、酒場のドアへにじり寄った。 四人組がドアを開けて店外へ出る。見届けてすぐシャルネもドアを開け、しなやかな身体を滑り込ませた。 ゴドールの大通りを満月がいつもより明るく照らしている。初夏の夜は少しだけ肌寒いけれど、不思議な熱に包まれたまま彼らに駆け寄る。 「待ってください!」 シャルネの大声に、前を歩いていた四人が振り向いた。先頭を歩いているのは青紫の瞳の男だ。彼はじっと町娘の姿を見た後、表情を変えた。家臣のような三人を手で制し、口元を緩めたままシャルネの前に来る。 ……思ったより背が高くて、手脚も長い。立ち姿も綺麗。 間違いなく町に住んでいたら一番の美男と呼ばれる。 ……きっと、それ以上よ。この地域で一番になれる容姿だわ! ぽーっとしそうになったが、シャルネはやることを思い出して背筋を張った。間近で立ち止まった彼に鼓動が速くなる。 「歌姫様か。お見送りまでしてくれて、ありがとう」 はじめて聞いた声は、品の良さがにじみ出るテノールだった。貴族でもかなりの上位なのではないか、とシャルネの直感が働く。 謎が多すぎる美しい男に圧倒されながら、なんとか声を上げた。 「いえ、あの、これを返したくて。こんな大金、貴方ですよね?」 用件だけ伝えて彼の瞳を見る。店内より乏しい明かりの中でも、男の瞳はキラキラと煌いてシャルネを映す。 「返さなくていい。それはもう君のものだ」 やさしい物言いだったが、シャルネの心に変化をもたらした。 異論は決して認めない、という高圧的なニュアンスを聞き逃さなかったのだ。 支配する側に立つ者、高貴な者だけに垣間見える特有の口調。シャルネはスッといつもの冷静さを取り戻した。 「ダメです!」 大きく首を横に振って男を見る。お金持ちの気まぐれで施されても嬉しくない。 「いただくことはできません!」 意外な返答を聞いた、と言わんばかりの顔をする男へ、シャルネは掴み取った三枚を押しつけた。小さな手と紙幣が、彼の胸元に遠慮なく当たる。そのまま至近距離で見つめ合った。 唖然としたように瞬きをした男に、シャルネは堂々と息を吸った。 その途端、強い香りが鼻腔をくすぐる。 ……何かしら、この香り。 目の前の彼は不思議の香りを身にまとっている。花畑にいるような瑞々しく人を惹きつける強烈な香りだ。 育て親が香油などつくっていてそれなりに植物に詳しいシャルネでも、この花の名を特定できない。もう一度嗅ぎ直そうと呼吸する。 香りに集中しすぎて、男が手首を掴んできたときは全身が震えるほど大きく驚いてしまった。 「きゃっ」 握力の強そうな手の平。器用なこともこなしそうな長い指。シャルネは慌てて振りほどいて後ずさった。 はらり、はらり、と紙幣が落ちる。大きな拒絶を見せてしまったことを瞬時に悔いて頭を下げた。 「ごめんなさい!」 大金を返したかっただけだ。でも、これでは彼の親切を拒否したかのようだ。誤解をさせたのが怖くなって、顔が見れなくなってしまう。 「本当にごめんなさい! 今日は、私なんかの唄を聴いてくださって感謝しています。ありがとうございました!」 頭を下げたまま搾り出すように伝えたいことを口にし、脱兎のごとく酒場へ駆け戻った。 勢いよくドアを開き、バンッと音を立てて閉める。出入り口に近い客が数人振り返った。シャネルは小籠を抱えて深呼吸をした。 いつもの酒場のにおい。安心感が広がる。 「シャルネ、どうしたんだい?」 朝市でよくしてくれる、雑貨屋のご婦人に声をかけられる。帰るところだと気づき、ドアから身体をずらして笑顔をつくった。 「なんでもないです。今日はありがとうございました」 「うん、また明日ね」 酒場を出て行く夫婦を横目で見届け、耳を澄ませる。外はどうなっているのだろう。紫青の男はシャルネが押しつけた紙幣を拾って帰ったのだろうか。怒ってしまっただろうか。気になるけれど、確認する勇気はない。 ……あの人、本当に何者なんだろう。すごく良い香りもさせていた。あの香料はなんなのかしら。 瞳もだけれど、シャルネはあの香りに強く惹きつけられていた。 あの、涼しげな夏夜に咲く花のまどろみのような不思議な香り。 ……手だけでなく、鼻も彼の胸に当ててしまいそうだった。 もう一度嗅いでみたい。あの広い胸に顔を寄せてゆっくり息を吸ってみたい。 甘美な想いの芽生えに、シャルネは大きく戸惑いながら、トクントクンと跳ねる鼓動をそっと手で押さえていた。
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