* リクペラ・コン・ブルー 第3話 * | |
「シャルネの仕事はもう終わり! 早く寝て、明日ローランの手伝いをたくさんしてあげて頂戴!」 女将からそう言われたが、笑顔で聞き流して閉店時間まで店内を手伝った。いつもよりきびきびと働いたのは、先刻出逢った紫青の男を忘れるためだ。 数十あるテーブルをすべて拭き終わって息をつく。カウンターで布巾を洗って懐中時計を見れば、日付もとうに変わった深夜。普段は三人がかりでテーブルを拭いているが、今夜は他の店員たちを先に帰らせた。シャルネの家は町から徒歩で一時間近くかかる深い森との境にあり、酒場で歌う日はそのまま女将の家に泊まる。 ……そろそろ引き上げようかな。 女将に挨拶しておきたかったが、彼女は倉庫に行ったきり戻ってこない。いつものことだ。 シャルネは歌い手としてチップをもらうので、店員としての賃金はもらわないようにしている。今回もまかない飯と美味しい果実をいただいたから、とはっきり賃金を断ったのだが、女将は「それなら今回も現物支給は受け取りなさいね」と言って用意しに倉庫へ行ってしまったのだ。引き止めると機嫌が悪くなるので、シャルネもこの好意を無下にはできない。翌日、ローランが馬を連れて朝市に出ることを知っているのだ。そのとき渡してくるに違いない。 ……そば粉か小麦粉かしら。食費が浮くから本当に助かっているのだけれど。明日またちゃんと御礼を言わなきゃ。 エプロンで濡れた手を拭い、住居スペースへ入るとかすかに鼾が聞こえた。女将の旦那さんは気持ちよく眠っているようだ。家主の寝室に音が漏れぬよう、静かに木張りの階段を上がる。 ……明日はローランと朝市に出てから、ゆっくりお休みしよう。明後日の午後はカロイスと唄の練習もあるし。 少しカロイスの機嫌も気になる。紫青の男とのやり取りを舞台で見ていたせいか、給仕に戻ったシャルネを捕まえた彼は、新参者に対する悪口とシャルネへ厭味を浴びせてきたのだ。 変な目の色の男が邪魔だった、シャルネが気を散らすから音を合わせるのが大変だった、もっと自覚を持って歌ってほしい等々。謝ったら落ち着いてくれたが、あんなふうに一見の客に対して悪口を言うカロイスははじめてだった。 カロイスが帰って女将にこっそり相談すると「嫉妬でしょ」と一言で返され、「明日になればいつもどおりよ。カロイスは単純だから」と言われた。それならいい。カロイスに臍を曲げられたら少し困る。全曲アカペラで歌う勇気はないし、酒場に来る人たちを落胆させかねない。 ……今日はちょっと気疲れしちゃった。 ゆっくり息を吐いて楽屋兼仮眠室となっている部屋のドアを押す。 なぜか、ランプがついていた。 小籠を置きに来たときに消灯したはず、と首を傾げたがすぐに思い返す。 ……女将さんの娘が帰省したのかも! 一度突発的に帰省した女将の娘と遭遇したことがある。そのときは楽屋としてこの部屋を使うことができず仮眠も酒場の椅子を使うことになってしまい、けっこう苦労したのだ。また突然帰ってきたのかもしれない。 ……早く女将さんも言ってくれればいいのに! 「ごめんなさい!」 気難しい女将の娘に、小声で謝ってドアを閉める。 だが、ドアは遠慮なく内側から開かれた。 シャルネが驚いていると、手が伸びてきて細い腕を掴まれる。ビクッと肩を震え、次に覗いてきた顔に呼吸が止まった。 ……うそっ! パクパク口を動かすが声は出ない。 数時間前、紙幣を押しつけた相手が目の前にいるのだ。 紫青の瞳の男は、硬直したシャルネに悪びれもせず、さらに彼女の腕を引っ張った。 つんのめるように部屋に入れられ、促されるままベッドに座らされる。隣に腰を落として朗らかな表情をする男を、唖然としたまま見入った。 なぜ、彼がこんなところにいるのか。意味がわからなかった。 「ここの女将さんに頼んだんだ。聞いていなかったか」 シャルネの顔に状況を察したのか彼が口を開いた。 ふるふると首を振って瞳を見る。美しい色彩。鼻腔に届く深い香りが、混乱を助長させる。 「チップを突き返された事情を説明して、改めて御礼をしたいと話をしたんだ。彼女は良い人だな」 ニッコリと言ってくる彼に言葉が返せない。 「俺好みの、とても美しい歌声だった」 男はシャルネの追いつけない心にかまわず、懐から何かを取り出した。 視線を落とした先にあるのは、また高額紙幣だ。彼とお金を何度も見返す。 「受け取って欲しい」 しかも、紙幣が五枚に増えている。男はわざわざ渡し直しに来たのだ。 「ダ、ダメです!」 深夜であることも忘れて、シャルネは裏返った大声を上げた。 「さっきは不躾になってしまってごめんなさい。でも、こんな大金、やっぱり受け取ることはできません!」 彼がどんな身分であろうと、シャルネは決めたことを覆すつもりはなかった。単にお金が欲しくて歌っているわけではない。唄が終わって籠を客席に回すのも、おひねりを曲中に投げ込む習慣が出てきてしまったからだ。歌っているシャルネの気も散るし、奏者のカロイスも嫌がったため仕方なく小籠を使ってお駄賃としていただくようにしているのだ。 しかし、その経緯を知らない目の前の男は、シャルネが露骨な集金をしているように見えたのだろうか。 「お金には困っていないんです。お気持ちだけでけっこうです」 廃王家出身としてではなく、町娘としての誇りを込めて返す。すると、見つめていた彼は渋々紙幣を懐へ戻した。明らかに高貴な身分だろうが、相手の気持ちを汲み取れる男らしい。 「ならば、どういうものなら受け取ってくれるんだ?」 熱心な想いを拒否し続けるのも悪い気がして、受け入れられるものを伝えた。 「硬貨一枚でいいです」 「皆と同じは嫌だ」 即答だった。それなら仕方がない。 「……お金じゃないもので、」 もごもごと返す。彼は「そうか」と頷いて自身の衣服を見回した。 「今は旅の途中で手持ちがあまりないのだが、」 旅というより野営に適したハンティング用の服装にも見える。生地は上質で細かい刺繍とともに仕立て上げられている。充分似合っているが、盛装ならばもっと美しい容姿が映えるのだろうとシャルネは感じた。 ……髪はここでも珍しい濃金で、瞳は宝石のような紫青。きっとこの彼がまとう香りも希少なものなのかも。高いものには違いないわ。 待っている間、この男が何者なのか本当に気になってきた。オーラがここにそぐわない。この部屋に有名画家の大きな絵画を掲げているくらい、場違いだ。 ……それにこの人を見ていると、なんだかホッとするような、けれど胸がさわさわと揺れるような心地になる。 男性と二人きりになる機会はカロイスで何度も経験している。でも、リュート奏者と一緒にいてもこんな気持ちにはならない。 ……なんなのかしら、この気持ち。 紫青の男は、少し強引な性格をしているようだが、嫌な感じもしないし気持ちに真っ直ぐな性格であるのは少し話しただけでわかる。 ……本当に、不思議な人だわ。 「ああ、これがあるか」 ようやく良いものを見つけたように、彼が自身の左手首に嵌められたものを抜きだした。数珠のようなブレスレットだ。 「どうかな? 受け取ってくれるか?」 薄いランプに煌く小さな球体。宝石のようで、シャルネは神妙な顔つきになった。価格に換算して高額紙幣並になるかもしれない。 「高価なものではありませんか?」 「それほどのものではないよ」 心配して訊くが、本人は価値を見出させないようにあっさり答える。 「北の海岸沿いの浜を歩けば、簡単に手に入る」 続けられた言葉を信じた。浜で簡単に拾えるのなら、石か貝に似た類だろう。庶民が持っていておかしくないものだ。 「さあ、手を」 彼に促されるまま左腕を浮かすと、掴まれて嵌められる。 橙に似た飴色。光によく透過している。 「君によく似合う色だ」 アクセサリーの美しさにシャルネも頷いた。透明なアンバーの色彩と彼の瞳を往復する。 「とても綺麗です。濃い蜂蜜を固めたみたい」 掴んでいる彼の指に力が入った。そっと引き寄せられ、彼が頭を垂れるようにシャルネの指へ顔を近づける。手の甲へ口づけられた。 翠眼を見上げた紫青の眼が、燃えるように光る。 「口に含んだら甘そうだ」 紳士のような美しい所作から一転させた男の色香に、ゾクッと痺れるような電流が走った。 今まで感じたことのない青い熱。 ……彼は琥珀のことを言っているのに、違うことのように聞こえてしまった。 いけないものを体内に宿してしまった気分になって目を逸らす。 変な空気に慌てて声を出した。 「あの、貴方は何者なんですか?」 シャルネの問いに、姿勢と表情を戻した男が微笑む。 「しがない海の男だよ」 海の民だという直感は当たっていた。 でも、普通の船乗りには見えない。港町の豪商でもないのは確かだ。 「そうは思えません」 「大金を持っている、旅好きの海の男だよ。この世にある良いもの、価値あるものを海を巡りながら探している」 はっきり返しても平然と答えられる。 「海賊ではないですよね?」 不安になって一番当たって欲しくない肩書きを口にする。しかし、彼が含み笑いで見つめるだけだ。 「貴方の名前は?」 問いかけを重ねても、彼は何も言わず見つめたまま。 ノーコメントのようだが、海賊ではなさそうだ。女将が『お忍び』と称したことも思い出す。 ……つまり、言えないほど身分が高いということ? 「今夜は素敵な君に出逢えた。ここに来ればまた会えるのか?」 逆に問いかけられ、シャルネは頷いた。 「でも、毎日ではないです。唄は三日に一度くらいで」 「そうか。ならば、一度戻ってから訪れるのもいいな。何かもっと欲しいものはあるか? 紙幣じゃないもので」 会うたびに贈り物をするつもりらしい。シャルネは気が重くなった。このブレスレットでも十分だ。それならいっそ、かたちに残らないものがいい。 ふと、彼のまとう香りの名前が知りたいと思った。 ……この夏夜にまどろむ花みたいな香り。ローランにも嗅がせてあげたい。香り水があるなら、少しだけ欲しいかも。 「貴方のまとっている香り、なんですか?」 興味を瞳に湛えて尋ねてみる。彼が少し驚いたような表情をした。 「花の香りみたいだけれど、少し違うような」 「この香りが欲しいのか?」 男も意識して身につけているということだ。 大きく頷いて息を吸い込む。自然と彼に身体を寄せる姿勢となった。 「はい。無理でしたら花の名前だけでもいいので。夏の花ですか?」 「香料の名前を当てられたら、小瓶で分けてあげよう」 男の申し出は願ってもみないものだった。晴れやかな表情を向けたシャルネに、彼が目尻を細める。 「もっと近づいてごらん」 言われるまま鼻を近づければ、香りが強くなる。 ……本当になんなのかしら、この香り。 花の名を当てようと息を吸うと、男の手がシャルネの腰に回った。 ぐいっと寄せられて、彼の厚い胸元に頬が当たる。抱き締められていると気づいて鼓動が早くなった。 ……でも、御伽の国のお花畑で包まれている感じ。顔を上げる。抱き締める男の腕と至近距離にある整った造作。近づいて反射的に瞼を閉じた。 柔らかい感触が額をかすめる。 「君は不思議な子だ」 ……私が、不思議? 「貴方のほうが、」 翠の瞳を開き答えようとしたけれど、声を奪うように彼の指がくちびるに当たる。 「今夜は、ここまで。また来るよ」 やさしい微笑みに謎解きは果たせなかった。 ……もしかしたら、危険なひとかもしれないのに。 それでも彼が離れたときは、とても名残惜しくなっていた。
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