* リクペラ・コン・ブルー 第6話 * | |
しかし、その夜からアドルフィトは姿を見せなくなった。 酒場で何度歌っても彼が訪れることはなく、シャルネはすっかり意気消沈してしまった。 アドルフィトの素性を勝手に暴いたことで嫌われてしまったのかもしれない。もしくは、シャルネ自身のミステリアスな部分に不信感を持ったのかもしれない。そう考えれば考えるほど気になって夜も眠れず、会えなくなってからの日にちを毎時間指折り数えた。 ……今日で、十二日目。 指折りしても虚しいだけ。大きく息を吐く。 「シャルネ、歌詞ちゃんと見たか」 叱るような声が真横で聞こえ、ハッとカロイスに目を向けた。 「ごめんなさい」 ムッした表情でリュートを抱えている彼へ、素直に謝る。 ここは酒場。店内を借りて営業開始前まで練習をしている最中なのだ。 「今夜披露するんだから、しっかりしてくれよ」 「はい。あの、新しい曲、テンポが少し変わっているのね」 気分を戻そうと新しい唄の感想を伝えた。 「これは最近つくられた唄で、転調が二度あるからな。最後のあたりはかなりキーも高いけど、歌えるか?」 「ええ、本来のキーで歌ってみるわ」 「じゃあ、早速やってみようぜ」 頷くと彼が弦を爪弾く。最近つくられたというわりに、古典童謡のやさしい音階が使われている。シャルネは歌ってみて、確かに後半から歌い苦しくなるかもしれないと思った。けれど、今夜の舞台で歌ってみたいと思う。すれ違う恋に心を痛める乙女の唄だからだ。 「高音部分も問題ないな。オレの伴奏を半音下げるってこともできるけど」 「ううん、カロイスは原曲のままで。喉の調子も良いから、今夜披露できるはず」 「今日は時間があるし、シャルネの調子に合わせるよ」 快い言葉にシャルネも微笑む。 もう一度唄を歌うと、カロイスは惚けたように視線を合わせてきた。 「シャルネは唄の覚えがいいよなあ。良い声してるし」 「ありがとう。でも、まだまだよ。カロイスに助けられているし」 「君が望むなら、オレはいつまでもそばにいるんだよ。どう?」 熱っぽく言われても、シャルネは肩を竦めるしかない。 「いつまでもカロイスを頼っていたらダメよ。私もいつか独り立ちしないと」 甘えてばかりはいけない、という気持ちを込めて答える。すると、なぜか彼の表情が曇った。 「今の曲、もう一度歌いたいのだけれど」 頼んでもカロイスの指は動かない。シャルネが首を傾げる。返ってきた言葉は予想したものと違っていた。 「あの男、ようやく見なくなったよな」 突然のことにシャルネの顔も曇った。 「それが、一体どうしたの?」 「もう二度と来ないんじゃないか」 その口調と向けてくる表情に、今夜も男の不在を期待するニュアンスが含まれている。シャルネはカロイスのこうした部分が嫌いだった。 「彼とこの前会ったとき、また来る、ってちゃんと言ってくれたわ」 我慢できず、密会をほのめかすような反論を返した。途端にカロイスが口許をひん曲げる。完全に機嫌が悪くなったのだ。こうなるとリュートを弾くより言葉の攻撃ばかりになる。 いつもは気を遣うシャルネではあったが、今回はアドルフィトのことを言われたため気持ちを譲りたくなかった。 「そんな保障はどこにあるんだよ。所詮、旅の野郎だろ。現にまったく現れなくなったじゃないか」 と、ブツブツ言いはじめたのにプイと顔を逸らす。 「あんたたち、調子はどうだい?」 すぐ後ろのドアから女将の声が響いてきた。シャルネは救われた心地で振り返った。 「調子はすごく良いです。今夜は新しい曲を二曲披露します」 「そうかい楽しみだねえ。カロイスもどうだい?」 「なんとか、まあ、」 「微妙な顔してるね。なんか飲むかい? シャルネは喉にやさしいジンジャーシロップのソーダにしようね」 「本当に、いつもありがとうございます!」 「いいんだよ。シャルネとカロイスのおかげでうちの店もすごく活気が出て、男ばかりのうるさい場所から町の社交場みたいになったんだから。二人の働きには感謝してるよ」 カウンターで二人分の飲み物をつくる女将に、シャルネは駆け寄ってコップを受け取った。カロイスのところへ戻って渡す。彼も少し機嫌を取り戻したようだ。 同じように、コップに葡萄酒を注いだ女将が二人の前に立つ。 「そうだシャルネ、収穫祭で歌って欲しいって話が出てるんだよ」 「え? 今年のですか?」 「そう、秋の」 願ってもない話だった。 すぐ、町一番のお祭りの舞台に出ることをローランが良しとしてくれるか頭によぎったけれど……毎年収穫祭はローランも手伝っているのだから、許してくれるだろう。 「はい、光栄です!」 笑顔で承諾した。 「よかった。是非歌ってほしいよ。私からも推薦しとくね。で、奏者はカロイスにお願いできればとも思っているんだけど」 女将は隣の男にも承諾を求める。顎を突き出して「しょうがないな」と答えているが、本人も晴れの舞台に推薦されて内心嬉しいに違いない。 「もうひとつお願いがあるんだけど。先に、新しい曲とやら、聴かせてくれないかい?」 二人は快く頷いて、女将に唄を披露した。 酒場は、太陽が地平線に近づくと営業をはじめる。 歌錬を終えて店を手伝っていたシャルネは、いつものとおり懐中時計で時刻を確認した後、仮の楽屋へ向かった。 部屋のドアを開けて、ランプを点す。 アドルフィトが座っていたベッドを見ると、瞬く間に押し込めていた切ない想いが溢れてきた。 ……ずっと店内でお手伝いしてるけど、今日も来る様子がないみたい。 前まで、シャルネの舞台がはじまる一時間前には特等席に座ってくれていた。そして唄を終えた後は、この部屋のベッドに座って二人語らった。 ……もう、来てくれないのかもしれない。 カロイスのいじわるな言葉が蘇る。 アドルフィトの素性を知ったところで、シャルネはこの酒場で待つことしかできない身の上だ。アドルフィトを探して追いかけることもできないし、そんなお金も勇気もない。それに、育ててくれたローランは見捨てられない。 ……今の私は、歌うことしかできないもの。 自分の気持ちも、どんな言葉にすればいいのかわからない。ぐるぐると渦巻く想いに、彼と会えない悲しみが覆いかぶさる。 振り切るように髪を解き、衣服を脱いで薄紺のドレスを取り出した。豊満な胸からくびれたウエストラインを整え紐で引っ張る。シャルネを大人びた雰囲気にさせてくれる衣装と化粧。シューズを履き替え、鏡で確認する。 「今日も素敵な唄を歌って盛り上げないと」 胸を軽く叩いて、歌い手になるスイッチを押した。そうして店内に戻る。 カウンターで女将と二、三言会話して、また酒場を見回す。 すぐに、瞳が引っかかったように一点へ集中した。 身に纏っている雰囲気が明らかにこの町と違っている男がいたのだ。 ……アドルフィトだわ! シャルネは確信した途端、パアアッと笑顔になった。 大きい酒樽をテーブルに仕立てた立見席。そこに彼はいた。今までのような狩猟スタイルではなく、貴族の軽装といえる品のある服装だ。立ち姿だから、いつも以上に目立っている。 アドルフィトは隣の男に話しかけた。男も似たような服装だから、お付の者なのだろう。いつもは四人で来るのに今夜は二人だ。 ……もうなんでもいい! アドルフィトがいてくれるだけで、十分。 「シャルネ、早く行っておいで」 女将の声に頷く。シャルネが一点を見たまま固まっていたことに気づいたようだ。カウンター越しに、よかったね、とウインクされた。 拍手と歓声をもらいながら舞台を目指す。途中、樽の立見席に顔を向けた。彼の微笑みとかち合った。店内でも端の場所だが舞台から近い。シャルネの横姿がよく見える位置だ。 カロイスは機嫌が優れないようだったが、シャルネは幸せな気分で満ち溢れていた。 待ちわびていた人と会えた喜び。聴いてほしい人に自分の唄を聴いてもらえる喜び。 リュートの旋律に合わせて歌声を発する。言葉とメロディーに様々な感情を織って、届ける。新しい曲にはアドルフィトに会えなかった分の悲しみを込めた。 互いの立ち位置から目を合わせるのは至難の業だが、がんばって何度も視線を向けた。そのたびに美しい紫青と翠の双眼は重なった。 ……ずっと、この時間が続けばいいのに。 唄の時間は喝采の中で終わった。いつものごとく小籠を回す。顔馴染みの老婦人に手招かれ、わざと迂回して彼の横を通る。アドルフィトもわかっているようで、シャルネを真っ直ぐ見つめ、過ぎ行く寸前に声をかけてきた。 「シャルネ、終わったら来てくれ」 それに頷いて、一時離れる。少し真面目な響きに不思議な芳香。 ……来てくれ? 待ってるじゃなくて? 聞き返す余裕がなく、真意は読めない。疑問を持ちながら客との雑談時間を終える。はける前に一度店内を確認したが、アドルフィトはすでに酒場からいなくなっていた。後でまた部屋で待っていてくれているのだろう。 小籠をもらって着替えに戻ろうとすれば、女将が急いでやってきた。 「シャルネ、ちょっといいかい?」 「どうしましたか?」 「例の彼から言付けだよ。すぐ宿屋に来てほしいって」 場所と時間の指定を受けたことに驚いて聞き返した。 「宿屋? 今ですか?」 「そうだよ。ここのことはもういいから、早く行っておいで。着替えもいいから。小籠は私が責任持って預かっておくよ」 酒場から追い出すように促され、シャルネも彼女と一緒に住居側の玄関口へ出た。 「いってらっしゃい」 手を振られて、釈然としない気持ちも生まれる。けれど、二人きりでお話ができる喜びのほうが上回っていた。 初夏に入ったゴドールの大通り。ドレス一枚でも寒くなく、軒の鉢には色んな花が咲いている。 ワクワクとドキドキが足取りを軽くさせて、あっという間に町唯一の宿屋に着いた。 木枠に嵌められたガラス扉を開ける。受付カウンターで雑用をしていた旦那もシャルネに気づいた。 「シャルネか。歌姫の時間は終わったのかい?」 「はい。あの、ここにす紫青の瞳の男性が泊まっていませんか? 少し用があって」 「ああ、アドルさんだな。一番高い部屋にいるよ」 宿屋の旦那は深入りすることなく教えてくれた。 「入っていいですか」 「どうぞ、二階の右奥だよ」 言われたとおりアンティークな木彫りが施された階段を昇る。裾を上げた薄紺のドレスは、長いシャルネの髪と一緒のリズムでふわふわと揺れた。 「今度、唄を聴きに行くよ」 後ろの声に振り返って会釈する。ドレス姿で酒場以外を歩いたことはなかったから不思議な気分だった。でも、この一張羅をアドルフィトにしっかり見せられる良い機会だ。 一等の宿泊部屋を示す、金の金具がついた扉の前に立つ。一呼吸してノックすれば、すぐに開いた。 見上げると念願の彼がいた。 「アドルフィト」 抱きつきたいと思うより早く、彼に抱き締められた。腕の強さだけで、アドルフィトもまた自分と同じように再会を待ちわびていたと知れる。嬉しくてシャルネもぎゅっと回した腕に力を込めた。 「シャルネ、会いたかった」 夏花のような深い香りを連れた彼にとしばし抱擁を続け、シャルネはようやく小さな疑問を口にした。 「いつもは酒場の上なのに、」 するとアドルフィトの表情が真面目なものに変わった。 「明日、この地域から離れる」 放たれた言葉に、シャルネの身体は一瞬で硬直した。 どういうことなのか、意味はわかっている。それなりに覚悟もしていた。 でも、もう会えなくなるかもしれないなんて思いたくなかった。 何も答えられなくなったシャルネの気持ちを理解しているのか、言い聞かせるように瞳を合わせて彼が続ける。 「船の修理がようやく終わったんだ。ロッカ王国の城へ行かなければならない用事もできたから、早朝にはこの町を発つ。今日も無理を言って、馬を走らせて来たばかりだ。歌姫の時間に間に合ってよかったよ」 無理をしてゴドールまで来てくれたということだ。 ……忙しいのに、ここまで来てくれたことは嬉しい。でも、これが最後になるのかもしれない。 シャルネは泣きたくなった。 本当にショックだった。アドルフィトが航海途中で、たまたま町に立ち寄っただけに過ぎないこともわかっている。旅の者が町にずっと留まるなんて稀だし、彼は他国の王子なのだ。 ……もう二度と、アドルフィトと会えなくなってしまうの? 置き去りにされる子どものような心細さと、想いが引き裂かれる悲しみと切なさがドッと押し寄せた。目尻に涙が溜まっていく。 「そんな顔しないでくれ」 彼が申し訳ないような表情を見せて、シャルネの涙を拭った。アドルフィトを困らせてしまっていることに気づいて、感情をきゅっと抑え込む。 ……悲しいけれど、アドルフィトを困らせて嫌われたくない。 「君に贈り物があるんだ」 明るい調子に変わって、腕を離した彼に手を引かれる。ベッドに座ると暖炉棚の上に置かれていた小箱を持ってきた。アドルフィトもシャルネの隣に腰をかける。 開いた小箱の中には、美しい真珠のイヤリング。真珠は町人でもわかるものだが、こんな大粒でピンクがかったものは見たことがなかった。 「これ、本物の真珠?」 目を丸くして聞いてみれば、アドルフィトが微笑む。 「そうだ。世界でも希少な真珠だよ」 彼はそのひとつを手に取って、シャルネの小さな耳に寄せた。イヤリングが固定される。わずかに重さを感じた。 「よく似合う。綺麗だ」 こんな高価なものはいらない、とは言えなかった。もしかしたらアドルフィトから頂く最後の贈り物かもしれない。 綺麗なのは嬉しいけれど、悲しみが勝る。 ……真珠のイヤリングよりも、私はアドルフィトがいい。 空いた手で彼の服の裾を掴んだ。 アドルフィトは指で真珠を揺らし、そっと耳にくちづける。 「シャルネにお願いがある」 瞳を上げて、紫青の中にいる自分を見つけた。 「はい」 「船の皆に君の唄を聴かせたい。俺の船に来てほしい」 大きく翠眼を見開いた。 熱願を聞き入れてほしいように、彼は目を逸らさない。 「八日後に迎えに行くから、一緒に来てほしい。ずっと、とは言わない。シャルネの唄を皆に聞かせたいんだ」 アドルフィトがゴドールにわざわざ戻ってきた理由。 それは思ってもみないお願い事だった。瞬時にシャルネの心から悲しみと心細さが消し去られた。 しかし、同時にあらわれるのは現実だ。 ローランを独りぽっちにするわけには行かないし、酒場のこともある。 ……アドルフィトの船に行ってみたい。この香りも、彼のことももっと知りたい。でも、色んな人に相談しないと。 とても嬉しい申し出だが考えなければいけない。酒場やローランとの折り合い、収穫祭の大役。 躊躇いが顔に浮かんだことを汲み取ったのか、アドルフィトの表情に意志の強さが宿った。 「今は、君と離れたくないんだ。君もそう想ってくれるのなら……俺の我が侭を一度受け入れてくれないか」 愛の告白のような台詞にシャルネの心臓が大きく震えた。 同時に、この人は本当に王子様なのだ、私はこの人が好きなのだ、と悟る。言葉に籠る情熱と惹きつける力。きっと好きになってはいけない相手。でも、想いが止まりそうにない。 彼が立ち上がる。そして、テーブルに置いていた金細工を手にした。片手を開くよう指示して、そっと渡される。 カフスだ。紋章が入っている。 「八日後、日の出前の酒場裏で会おう」 来ないことを微塵も疑わない紫青の瞳。大きな手が頬を包む。 シャルネは惚けたように頷いてしまっていた。
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