* リクペラ・コン・ブルー 第7話 * | |
船に乗ることを承諾した次の日、しゃがんでローズマリーを摘みながら、シャルネは懊悩の表情を隠せずにいた。 ……どうすればいいんだろう。あと七日しかないのに。 頭が冴えていく潔い香り。大きく吸い込むと頭上で小鳥が美しく鳴いた。平屋の小さな家のそばには広大な森が広がり、綺麗な泉も点在している。さらに陸地を進めば山に当たる。 ……アドルフィトのいる海と、ここはとても遠い。 帰宅するまでは、彼との約束に浮かれていた。が、森を散策してローランの手伝いをしている内にすっかり我に返ってしまった。 彼の船に乗ってみたいという気持ちがあっても、現実的にそれが可能なのだろうか。勝手に約束を決めてしまってよかったのだろうか。 ……ローランにどうするべきか早く相談しなきゃ。直前に話してダメだって反対されたら大変なことになってしまうし。いっそ言わないで、船に乗ってしまうとか? ダメよ、それはダメ。ローランを傷つけるようなことはできないもの。 「ティータイムにするつもりですが、」 突然降ってきた声に、シャルネは飛び上がった。 「きゃ! ローランいたの!」 振り返れば、ローランが呆れた顔で籠を持っている。漂ってくるのはジャスミンの芳香だ。 「いましたよ。どうしますか?」 「うん。お庭で」 「では、お湯の用意をしてきますね」 「はーい」 ローランが家へ戻っていくと、シャルネは立ち上がってエプロンをはたいた。色の褪せたジャンパースカートが、王子であるアドルフィトとの落差を可視化させる。たまらず溜息がこぼれた。 ……私のどこが良かったんだろう。歌声が良いって言ってくれていたけれど。 自分の長所を探そうとしても簡単に思い浮かばず肩が落ちる。 ローズマリーを詰めた籠を持ってとぼとぼと家へ向かった。途中、動くものが目に入る。シャルネの前を無防備なリスが横切ってきた。餌を口にほうばってどこへ行くのだろう。自然と笑みがこぼれる。 栗やブナなどの木々で溢れる森の情景。多くの動物たちと共生する世界をシャルネは愛してきた。 ……アドルフィトにとって、こういう景色は新鮮なのかしら。 ふと、彼にこの風景を見てもらいたいと思った。海に飽きて陸地散策をしていた、と言っていたのだから、好きになってくれるかもしれない。 玄関の脇に籠を置いてドアを開ける。ちょうどお湯が沸いた頃合のようで、大きな銀ポットにローランが湯を注いでいた。もうひとつ小さいポットがティータイム用だ。彼女のそばに寄って中を覗くと、摘んだばかりのハーブが数種類入っていた。 「先にカップ持って行くね」 「お願いします」 棚から木のコップを二つ取り出す。ティーセットくらいは王国時代のように陶器で揃えてあげたかったです、とローランが嘆いていたのを聞いたこともある。だが、シャルネは使えればいいという感覚だ。木製は簡単に壊れないから好きだ。 外に出ると午後の陽射しはまたシャルネを迎えてくれた。家の裏手に置いてある簡易的なテーブルとチェア。器用なローランがつくってくれたもので、お茶をしたり森を見ながら休息したりする格好の場所になっている。 切り株のようなチェアに座り、木漏れ日を仰ぐ。初夏の風が様々な生命の香りを連れてくる。 ……まだ彼の纏う香りもわかってないのよね。陸地の樹木や野に咲く花とは少し違う気がするんだけど、この森でも手に入る香料を使っているのかしら。 「ベリーもいかがです?」 ローランが両手にポットと木の小皿を持ってくる。 「ありがとう」 ポットから注がれる瑞々しいハーブの香り。口に含むと心が潤う。 色んな香りに満たされて、シャルネはずっと気になっていたことを尋ねた。 「ねえ、ローラン。香り水や香油って、普通は花や草木でつくられるものよね?」 この町一番の香りの専門家である彼女は、向かいでコップを置いた。 「そうですね、基本的には」 「すると、例外もあるの?」 「はい。本格的な調合では、動物性の香料も使われる場合がありますから」 「動物って、リスとか?」 驚きのままそばの木で走り回っているリスを指差す。ローランはクスッと笑った。 「いいえ、ある特定の動物です。私も詳しくは知りませんが、希少価値が高い分、人を惹きつける力に優れた香りだとか」 ……したら、アドルフィトのまとっている香りは、植物のものではないのかも。 「動物性のものは癖が強く香りも強大なので、しっかり技術を学んだ者しか扱えないはずですよ。香油のように使う場合は、動物性のものに花や樹木の香りも配合するでしょうし」 はじめて聞く香料の話は、とても有益な情報だった。ローランならばアドルフィトの使っている香りを当てられるかもしれない。期待感から身を乗り出す。 「その動物性の香りは、海でとれるものもあるの?」 訊くとローランは合点がいったという表情になった。 「そこまでは存じません。気になるのでしたら、別の方に尋ねてみればよろしいかと」 暗にアドルフィトに訊いてみなさい、と言っていることがわかり、シャルネは口を噤んだ。 次会う日は、彼の船に乗る日になるのだ。 ……話すなら、今しかないわ。 意を決して口を開いた。 「ねえ、ローラン」 真面目な表情になったのをローランも察して「はい」と頷く。 「彼から真珠のイヤリングと紋章入りのカフスをいただいたの。尋ねたら、ローランの言ったとおり王子様だって」 ポケットからカフスを取り出す。王家の証を身に着けていない彼が、あえて渡してくれたものだ。信用して身元を明かしてくれた証拠である。ローランはカフスを見て答えた。 「ハイアード王家の紋章です。あの奔放な第三王子で間違いないでしょうね」 「それでね、あの、」 「彼に何か言われたんですか?」 「船でこの地域を離れることになったって」 「そうですか。とうとう陸地の散策を終えられるんですね」 じっと彼女に見つめられる。心を透かされているようで、反射的に視線を落とした。 「それにしては、あまり悲壮感が見られませんが……寂しくはないんですか?」 「えっ」 「お辛くなければ、別にいいのですけど」 慎重な言い方にローランが勘違いしていると気づく。 いや、会えなくなるのは悲しいし辛い。でも、今は約束があるのだ。 「あのね、違うの。彼と約束をしてしまって」 本題を言葉にすると彼女も神妙な表情になった。反対されないように祈りながら、言葉を続ける。 「船にいる皆に私の唄を聴かせたい、迎えに行くから来てほしいって。七日後に迎えが来るの」 ローランはシャルネを見て、そうっと息をついた。 「そういうことですか」 「ずっとじゃないって言ってたけど……どうしよう、ローラン」 「身元はしっかりしていますし、ご自身が決めてください」 拍子抜けするほど、あっさりした回答だった。嬉しさより戸惑いが勝る。 「いいの?」 念押ししてみると彼女は肩を竦めた。 「ええ、彼がずっとではないと仰ったのでしょう? 一国の王子がそう言うなら私も信じますし、素性さえシャルネが隠し通せるなら……あとは貴女次第ですよ」 「でも、酒場の歌い手はどうすればいいと思う?」 「女将さんに話して、お休みをいただければよろしいじゃないですか。元々強制されてはじめたことではないんですし」 「待っている皆さんのこととか……」 不安を次々吐露すれば、「シャルネ」と名を呼ばれた。 「貴女はどうされたいのですか?」 厳しい声でピシャリと言われ、泥遊びをして怒られた子どもの頃のように黙る。 本当に行きたいなら自分でどうにかしなさい、ということだ。どうにかする気がないなら、その程度の約束だと言いたいのだろう。 シャルネの気持ちは決まっていた。 「行く前に髪の根元、染めてくださいね。美しい金が陽射しに瞬いて見えていますよ」 答える前に彼女が言う。シャルネは慌てて頭に手を当てた。素性を隠すために金髪を亜麻色に染めているのだ。船に乗る前に最低限のことはしておきなさいという意味合いだろう。 ローランはとうにシャルネの気持ちを読んでいた。 シャルネは、コクンと首を縦に動かしてハーブティーを飲み干した。
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