* リクペラ・コン・ブルー 第12話 *


 息抜きと称して定期的に行なわれる宴以外でも、乞われれば歌うようになった。楽士の二人は良い先生で、午後はもっぱら唄の練習になっている。
「シャルネ、ハイアードの唄も一曲やってみない?」
 笛からくちびるを離したセリアが、歌い終えたばかりのシャルネに提案した。
 夕食前の食堂。ニルダの誘いで公開練習中だ。楽士の二人は普段から、船内にある憩いの場で突発的な公開演奏をしているという。
「へえ、うちの国の曲も歌えるようになったんだ?」
 片肘をついて食前酒を嗜むリアンの声に、一瞬考え込んでいたシャルネが視線をやる。入出港と嵐のとき以外は余裕ができるという航海士は、公開練習のたびに観客になってくれている。今回もどこからか旋律を拾って来て、テーブルに世界地図を広げていた。
「ええ、歌えるのはまだ少ないのですけど」
 シャルネは自信なく応えた。歌詞を全部覚えられたが、公の場で歌えるほど完成されていないと思う。地図を眺めながら音楽を聴くのが好きだと教えてくれたリアンに、歌い手として下手なものは聴かせられないと考えてしまうのだが……楽士はそう思わないようだ。
「その中の一曲、やってみようよ。歌詞が飛んでもフォローするからさ!」
 リュートを奏でながらニルダが推してくる。仕事を終えて談笑ついでに聴いてくれていた数人の船員もシャルネを一斉に見つめていた。他国の歌い手が自国の唄を歌うということに、興味をもったようだ。
「したら、最初に教えてくれた浜の唄を」
 皆の気持ちに期待に応え、一番歌える曲を楽士に伝える。リアンが涼しげな容貌を柔らかなものにして歓迎の拍手をした。後方にいる観客も手を叩く。セリアが笛を口元に添え、場は静かになった。
 緊張が走ったけれど、シャルネは目を閉じてハイアードの特徴的な音色に心を委ねた。はじめは独特な音階と発音に戸惑ったが、韻の踏み方が綺麗ですぐに馴染んだ。
 声帯をふるわせ、ソプラノの唄を室内へ響かせる。
 メロディーに乗って瞳を開けば、室内の全員が懐かしむようにシャルネを見ていた。口元が動いている者もいる。故郷の唄はやはり心を動かすようだ。嬉しい気持ちが生まれてくると、食堂のドアが開かれるのが見えた。
 アドルフィトだ。ハイアード王国の唄を歌っているシャルネに気づいて、迷いなくこちらへ向かってくる。
 リアンの隣のチェアに座って、シャルネを見上げる。リアンに用があったのだろうが、真っ直ぐな眼差しはシャルネから動かない。
 歌い終わるときには、すっかり別の緊張感に包まれてしまっていた。
 ……あんまり見つめられると、ドキドキしてしまう。
 拍手にハッと顔を上げた。
 リアンと船員が穏やかな笑みで手を叩いている。シャルネの心情を知らないアドルフィトも微笑んで彼らに倣っていた。
 ……ここは食堂なのよ。私ったら、しっかりしなきゃ!
「ハイアードの曲は巻き舌が強くて音階にも癖があるけど、上手くクリアさせてる」
 リアンの言葉に、シャルネはやましい感情をすぐに飛ばした。
「ありがとうございます」
「シャルネは本当に歌のセンスがあるよ。一緒にやってて楽しいもん!」
 ニルダも褒めてくれる。唄をよく知る者たちに評価されるのは素直に嬉しい。
 特にこの曲は、アドルフィトにアカペラで披露した際にすごく喜ばれたのだ。
「もう一曲、歌えるのがあるんじゃないか」
 王子の声に反応して見れば、妙に含み笑いを浮かべている。昨夜、彼だけに披露した曲があるのだ。
 ……アドルフィト、変なこと言わないで。
 しかし、非難するわけにもいかず、視線だけ逸らす。
「それは……まだ、人前で歌えるほどになっていなくて」
 もごもごと答えれば、実直なニルダが頷いた。
「そうだね、あと少しかなあ」
「明日明後日には皆に披露できるんじゃない?」
 セリアの声に、シャルネは頷いた。アドルフィトを見れば、口元が楽しそうに緩んでいる。
「ならば、今夜も二人きりのときに聴かせてもらおうかな」
「あんまり歌姫をからかったら、愛想尽かされるよ」
 言葉が返せないシャルネを助けるように、リアンが呆れた眼差しをアドルフィトに向ける。シャルネは慌てて手を振った。
「え、あ、そんなことないです」
 変なことを思い出した自分が悪いというニュアンスを込めたが、後ろの楽士たちもリアンに同意のようだ。
「アドルフィト様、わたしたちもいるんですから」
「仲良しなのはいいけどね!」
 他の船員も笑っている。
「えっと、今日はこれでおしまいです。いいよね、セリアとニルダ」
 場を収めたくなったシャルネが羞恥に耐えつつ、お開きの声をかける。頷いた二人は軽くお辞儀をすると楽器を置きに部屋へ戻っていった。
「おいで、シャルネ」
 シャルネはアドルフィトに手招かれてチェアに座る。リアンと外交の話をするのかと思いきや、そうではなかったらしい。
「地図があるからちょうどいい。リアン、今はどのあたりだ?」
 船の長に訊かれた航海士は指を差す。シャルネが乗り込んでから一度も着岸していないだけあって、陸地からだいぶ離れている。しかし、ずっと海上を進むだけだったかというと、そういうわけでもない。
 この短い期間に、貿易船との交流が二度あった。それだけでなく、海賊船との親睦もあって、シャルネは驚いたのだ。海賊にも、良い海賊と悪い海賊がいるということも学んだ。パルマが教えてくれたように、ハイアード王国の第三王子は単に国同士の外交を引き受けているわけではなく、国と国の間にある海の調和にも一役買っていたのである。
「天候も先三日は晴れ。波も静かだよ」
 リアンの解説にアドルフィトが頷く。
「シャルネ、これからのことを話す」
 少し真面目な表情となった彼に、シャルネは「はい」と答えた。今まで航路について話してくれることはなかった。もしかしたら何かをはじめるのかもしれない。
 そのとおり、王子はポケットから白い封筒を取り出した。
 シンプルに見えて、細かい模様が施された高級な封筒だ。中から取り出された紙は白地に繊細な金が散らされている。シャルネも招待状だとすぐに気づく。
「ロッカ王国の王妃が後援している島の演劇祭に、今年も招かれた。皆は船に残るが、俺とシャルネは来賓者として出席する」
 ロッカ王国の島というと、大きいものが四つ。その中で王族が関与する祭典を開く島があるとシャルネは聞いたことがあった。ロッカ王国は廃したエラゥル王国の三倍は大きい国だ。長年住んでいてもすべては把握しきれないし、まして王家の住まう北部の首都に行ったこともない。
 ……そんな私が、ハイアード王国の来賓者として参加できるものなの? しかも、私は出生を明かせない身なのよ。
「王妃の離宮へ五日間滞在することになるから、宜しく頼む」
 奔放な発言を続ける彼に、シャルネは尋ねた。
「私は一般の人間で、ロッカの民だけれど、いいの?」
「俺が決めたんだ。先方にも伝えてある」
 ハイアード王国の王子が言うのだから、問題はないということなのだろう。しかし、隣国の廃された王女という素性を隠して住んでいる身で、王妃へ謁見するのは危険だ。シャルネは黙ってしまった。
 ……演劇祭に興味はあるけれど、出席するリスクが大きすぎる。
 回避したい気持ちで、アドルフィトを見る。すると、シャルネの瞳に宿るものを見つけたのか怪訝そうな表情に変わった。
「何か不都合でもあるのか?」
「あ、いいえ、何も」
「こういった祭典で、嫌な目に遭ったとか?」
 シャルネは即答したが、リアンが重ねてくる。二人の心配りに微笑んだ。
「あの、嫌な目はないけれど、……大掛かりな祭典は、実は少し苦手で」
 嘘を混ぜてしまったことを心の中で謝罪した。人前で歌っておきながら、大きい会場が苦手だというチープなパラドックス。確かにシャルネは百人以上の観客の前で歌ったことはない。大きな祭典で唄を披露するなんてことになったら、足が竦んでしまうかもしれない。
 ……想像したら、本当に怖いかも。私のことを知っている人がいたら困るし。
 彼に視線を重ねれば、不安を吹き飛ばすような笑みを向けられた。
「大丈夫、今回はシャルネが出るわけではないんだ。専用の来賓席が設けられているから出入りも自由だよ。島では基本俺がエスコートするから、困ったことがあれば船へすぐ伝達させる。補佐にはユーノスを連れていく」
 王子の力強いサポートを無下にすることなんてできなかった。シャルネは前向きな気持ちで笑顔を返した。
 ……アドルフィトにお任せすれば、なんとかなるかもしれない。王妃様もエラゥル王国のことを知っているだろうけど、私の顔なんて知らないはずなんだし。
「少しハードだろうから、体調だけは気を遣ったほうがいいかもしれない。最悪、途中で船に戻っても大丈夫だからな」
 船に戻れる権利も得て、安堵も生まれる。
 そうなると、今度は身元を暴かれる不安より、礼儀よくこなせるのかが心配になってきた。なんせ、はじめて王族の公務に付き添うのだ。
「私、作法に自信がないのだけど」
「それはパルマに頼もう。気になることがあれば、俺も教えるよ」
 アドルフィトの言葉にシャルネは頷いた。
 夜、改めて演劇祭のことを聞いた。
 イスカーラという名の島の、古代遺跡を利用した特設会場で行なわれる三日間。ロッカ王国北部の伝統劇と舞踊と唄に分かれ、普段の人口の十倍の観客が訪れるのだそうだ。
「北部に特化した祭らしいから、シャルネが知らなくても無理はない」
 と、アドルフィトが言う。最南部に住んでいるシャルネには、確かに縁遠い祭だ。北部の唄も数えるほどしか知らない。
 元々ロッカ王国の極北に在する貴族出身である王妃は、お年を召されて比較的自由が得られてからというもの、毎年わざわざ単身で夏の暑い島城を訪れているという。避暑地より文化的行事を選ぶ王妃の姿勢には好感が持てた。アドルフィトと話が合うというのだから、リベラルな性格をしているのだろう。
「開演は夕暮れ時だ。日中の島は太陽光が強いからな」
「だいぶ遅くまで続くの?」
「深夜までやっている。その三日間だけは体調管理に気をつけてほしい」
「三日間なら、昼夜逆転でもなんとかなるかも」
「あまり無理はさせないよ。離宮は島の中で一番涼しい場所に建てられているから、疲れたらすぐ休めばいい」
 島に着くまで、そうした夜が続いた。アドルフィトのささやきは魅力的で安心感がある。シャルネは楽しみを膨らませた。
 イスカーラ島の姿が船から見えた朝、船員たちも一際明るい表情になった。音楽が好きなハイアード王国の民は、他国の演劇も唄も大好きだ。セリアもニルダも観客として、大いに楽しむのだとはしゃいでいた。
 シャルネはというと、パルマ主導の準備に追われていた。離宮へ泊まるための荷造りや作法の確認を入念に行なう。先日、貿易船で受け取った新しいドレスは祭のためのもので、事前に伝達してつくらせたのだと教わった。王子は行動が早い。
 島に着岸したのは昼を過ぎてから。すでにロッカ王国の家臣たちが待機しており、挨拶もそこそこに荷物が運び出された。シャルネは王子とともに用意された馬車に乗る。はじめて受ける高貴な扱いに、気持ちが瞬く間に揺れていく。
 ……私、大丈夫かしら。粗相をしたら、身元を怪しまれたら、逃げ場がないのに。
 オフショルダーの淡い空色ドレス。髪型と化粧はパルマと楽士に任せているので心配はないが、自分に自信がない。緊張と不安を顔に張り付かせていると、隣に座っている王子が頬に触れてきた。
「シャルネ、気楽に構えてくれ。王妃も休暇で島に来ている身なのだから、いつもどおりでかまわないよ」
「はい。……でも、」
「大丈夫だ」
 紫青の瞳に励まされ、耳元の真珠も揺れる。離宮に着いたシャルネは脚を竦ませることなく馬車を降りた。
 謁見の間に着くと、涼しげな蒼のドレスと透けたショールを身に纏った王妃があらわれた。ひんやりとした空間で微笑む、ロッカ王国のマルグレッタ王妃。どうにか緊張を見せないようシャルネもアドルフィトに倣う。
「彼女はシャルネ。私にとって、最も大切な女性です」
 王子の紹介には驚いたが丁重に挨拶をした。
 アドルフィトは続ける。シャルネが唄を生業としていること、旅先で知り合ったこと、歌い手としての経験のためどうしても演劇祭をシャルネに見せたかったということ。
 ……そんなことまで、考えていてくれたの。
 驚きは嬉しさに変わった。アドルフィトの愛情を感じて、緊張も和らぐ。ロッカ王国に住んでいることや、育て親とともに町を転々としていたといったプライベートなことを話さなかったことも有難かった。
「そうなのですね。三日間の演劇祭、どうぞ楽しんで」
 マルグレッタ王妃は朗らかに返す。彼女もアドルフィトへの信頼からか、シャルネの出生などの質問はしなかった。深く礼をして、もう一度顔を上げる。
 ……絵画で、何度か見たことのあるお方だ。でも、絵のお姿より素敵。ロッカ王国に住んでいて良かったって、思わせてくれる王妃様だわ。
「今宵の晩餐会に、シャルネもいらっしゃる?」
 親交の深いアドルフィトは、王妃に対して気軽な感じで頷いた。
「そのつもりです」
「でしたら、一曲、披露いただけないかしら」
 ニッコリと口にした言葉は、青天の霹靂だった。上手に緊張をやり過ごしていたシャルネも完全に表情を固めてしまう。
「シャルネ、どうだ? 無理強いはさせないが」
 王妃の思いつきに、アドルフィトも心配そうな面持ちだ。しかし、歌いたくないと言える状況ではない。脊髄反射のように言葉を発した。
「は、はい! 光栄です!」
 鼓動と同じように跳ねてしまったが、王妃は楽しいことを見つけたような表情を見せた。
「楽しみにしておりますね」
 謁見はつつがなく終了した。続けて来賓用の各部屋へ案内される。シャルネはその間、美しい調度や装飾に目もくれず、ぐるぐると頭を悩ませた。
 ……今夜の晩餐会で歌ってって言われても、何を歌えばいいの? ロッカの唄? ハイアードの唄? どういう場で、人数は? アドルフィトの顔に泥を塗るわけにはいかないのに、突然すぎて、私、どうすればいいの?
 嫌な感じの緊張に心が追い立てられる。
 ようやくアドルフィトと二人きりになれた瞬間、不安は勢いよくかたちになった。



... back