* リクペラ・コン・ブルー 第13話 *


「どうしよう、アドルフィト!」
 焦った表情を見せるシャルネを、ゆっくり抱き締めてくれる。
「シャルネ、落ち着いてくれ」
 彼の香りと体温。難題を解決してくれる相手がいることに気づく。
「大丈夫、一曲だけだ。いつもどおりでいいんだよ」
 一曲間違えることなく自分の声で歌えばいいだけ、と難しくないことのように言ってくれる。そんな彼へ心配事を委ねた。
「どの国の曲を歌えばいいの?」
「ロッカの唄にしよう。シャルネが一番歌い慣れているものでいい」
「どんな晩餐会なの? 人数は?」
「一〇人くらいか。晩餐会というには小さいものだよ。正装は必要だが、踊るわけでもないしな。食事前の披露になると思う」
「伴奏は?」
「ないはずだ。アカペラで歌うことになるだろう」
 アカペラと言われてドキッとしたが、裏を返せば自分のテンポで歌えるということだ。歌詞を飛ばさず、声が変にならなければ問題なく唄を魅せることができる。
「……がんばって、歌うわ」
 シャルネは決心したように彼を見た。晩餐会でちゃんと歌えている自分がどうにか想像できたのだ。
「演奏付きでの調整はいるか?」
「ええ、そのほうが心強いかも」
「セリアとニルダに城まで来てくれるよう、ユーノスに頼もう」
「ありがとう」
 気丈夫にさせてくれるハイアード王国の第三王子に感謝すると、彼が珍しく眉を下げた。
「無理をさせてすまない」
 自分の公務にシャルネを巻き込んで心労を加えてしまったと思っているようだ。
「いえ、あなたがいてくれたよかった」
 シャルネのほうからそっと頬に口づけた。嬉しそうな表情になったアドルフィトを見つめ、素敵な晩餐会に花を添えたいという気持ちも生まれる。
 セリアとニルダが城に着き、練習の場を借りた。どの曲にするか相談し、とても有名な南部の童謡を選ぶ。
「森の花唄だから、王妃様も喜ぶよ」
「アカペラでも、風景がふわっと思い浮かびやすい曲だしね」
 楽士二人に励まされて、唄の調整をする。会のドレスは、歌いやすいようエンパイアラインのものを選択した。離宮の使用人に手伝ってもらい、化粧も髪型も変えていく。
 晩餐会の間へ向かう直前、正装のアドルフィトに抱き締められた。
「君ならできる」
 贈られた一言は大きな勇気となった。
 彼とともに招かれたのは白磁と金でふんだんに装飾され、ランプの輝きを強く反射させる明るい広間だった。王族は王妃とアドルフィトのみ。残りは、招待された数組の貴族。皆、ロッカ王国の唄が好きなのだという。
 シャルネは、ハイアード王国第三王子が愛する歌い手として改めて紹介された。披露する一曲のタイトルを先に伝えると、ロッカ王国南部の童謡だとすぐにわかった王妃は華やかな笑みを浮かべた。
 アドルフィトの言ったとおり、少人数の晩餐会だ。しかし、耳が肥えている者ばかりが揃っていて緊張は解けない。
 しん、と静まり返る間。促されて立ったところで、シャルネはそうっと息を吸った。
 ……市場で子どもたちに歌ったように、酒場で彼らに歌ったように、星降る海の下で歌ったように。
 どの場所であっても歌声に優劣はない。自分のテンポで、最初の一音を手繰り寄せる。
 響き渡った声は、確かなメロディーになった。
 清らかな森、動物たちのざわめき、その風に乗って香る夏の花。虫が探し、ウサギが振り向き、人々が草木を掻き分ける。花は、ここにいるよ、と歌うように香りで知らせる。賑やかな夏の花と森を愛でる歌詞だ。明るくかわいらしい唄だから、とりわけて幼い女の子たちに人気がある。
 技量に自信はないものの、シャルネは精いっぱいアカペラで歌った。一曲だけの披露ということで少し長い童謡にしたわけだ。本物の花は贈れないが、唄で華やかな花を見せられただろうか。
 ……聴いている皆様の心の中に、夏の花は届いたかしら。
 歌い終えてお辞儀をする。途端に沸いた拍手。シャルネは大きく胸を撫で下ろして顔を上げた。
 難関は過ぎ去った。席に座ったシャルネは、高貴な観客たちに褒められた。
「南部の童謡を久しく聴きました。素敵な歌声ですね」
 王妃には懐かしそうに言われ、選曲してよかったと思えた。ついでにロッカ王国最南部に住んでいることを知られてしまったが、晩餐会に揃っている全員はあまり身分を気にしない者たちのようだ。口を揃えて「唄が上手に歌えるなんて羨ましい」と、逆にシャルネを羨む始末。それには恐縮してしまうのだが、隣のアドルフィトは我が事のように上機嫌だ。
「唄を聴きながら、なぜかハイアード城の香りを思い出しました。ロッカの唄でしたのに」
 食事の最中、貴族の老婦人がシャルネとアドルフィトを見た。無意識に彼の香りを想像しながら歌っていた自分に気づく。
 ……だってアドルフィトの香り、夏の花のようなんだもの。
「最近我が国の城においでになられたのですか?」
「ええ、半年ほど前に」
「お寒い時期だったでしょう」
「でも、冬の娯楽鑑賞に招待されたものでしたから。素敵な琥珀も手に入れることができまして」
「琥珀! 後で私にも見せてくださる?」
「いいですのよ」
 婦人たちの会話が盛り上がりはじめると、アドルフィトは男性たちに声をかけられる。ほぼ毎年このように集まっているという話だから、皆顔馴染みのようだ。シャルネは穏やかな気持ちで眺め、彼らとともに食事を終えた。
 そのままサロンへ移動する。酒を嗜む男たちにアドルフィトも交ざるのだろうと思ったが、二つのグラスを手にシャルネの元へ戻ってくる。
「こちらが果汁だけの飲み物だ。カシスだよ」
「ありがとう。他の方はお話しなくていいの?」
「ああ。用があるなら、彼らからやってくるさ。シャルネは疲れていないか? 王妃に挨拶したら、ここを御暇しようと思っている」
「うん、大丈夫」
 シャルネの返事に彼が微笑む。寒色の内装が特徴的な夏城と島の成り立ちを聞いていると、遅れてマルグレッタ王妃があらわれた。彼女はアドルフィトの考えを知っているのか、真っ先にこちらへ向かってくる。
「本日はとても素敵な晩餐会でした。王子、今年もお越しいただきありがとうございます。そして、シャルネ、貴女にも感謝しています」
「今年も一番に招待いただき、有難く御礼申し上げます」
「王妃様、本当に素晴らしい場をありがとうございます」
 アドルフィトに倣って、頭を下げる。
「ところで、龍涎香ですけれど。まだお手元に?」
 切り替わった話題から、王妃が何かの確認をしに来たのだと気づく。
「まだ数年は持つ程度には残っています。また見つけられましたか?」
「ええ、らしきものが、発見されたと一昨日報告を受けました。鑑定して、本物の龍涎香であればまた、国王が外交手段としてそちらへ何かしらの打診とともにお贈りなされるのではないかと」
「お気遣いありがとうございます。我が父に先駆けて心づもりするよう伝え申します」
 頷いた王妃が一歩前に足を進め、アドルフィトへ顔を近づける。大胆な行動だとシャルネは少し驚いたが、二人とも慣れたものだ。何かを見つけたように、すぐ王妃は身を引いた。
「海でまれに拾われる形容しがたい塊でしかないのに。ハイアード王家の手に渡ると、こんなにも瑞々しい香りになりますもの。どのような調合をされているのか、本当に不思議」
 マルグレッタの呟きに、シャルネはハッと気づく。
 ……龍涎香というのが、アドルフィトの香りの原料?
「この香りを感じると、貴方が来る季節なのだと思うのですよ」
 続けた言葉で、さらに確信が増す。ずっと暴けずにいた香りの正体を、シャルネは心の中で繰り返した。
 ……香料の名前が答えられたら、少し分けてくれるって言っていたもの。龍涎香で当たりなら、ローランに嗅がせることができるんだわ!
 王妃が離れていくと、アドルフィトと一緒にサロンを引き上げた。二人きりで話す時間が欲しかったが、部屋は別々で使用人が張りついている。仕方なく誘導されるまま分かれ、シャルネはあてがわれた一室でネグリジェに着替えた。カモマイルのひんやりした飲み物も勧められていただく。安眠効果のあるハーブは、緊張から離れたシャルネの心を清め、ふわふわとさせる。
 ……香りのことは、船に戻ってからでもいいかしら。明日から演劇祭なんだし。
 長椅子で転寝すると風邪を引きかねない。ティーカップを置いたシャルネは天蓋のベッドへ移動する。
 アドルフィトの船室より一回り大きい寝具の前で、足が止まった。
 ……広い部屋に一人きり。
 大海原に独り取り残されたような気分になった。
 ……寂しい、なんて思ってしまってはダメよ。
 心を諫めてシーツを剥ぐ。すると、ちょうどよく部屋の外から呼び出しの声が響いた。世話をしてくれている使用人だろう。返事をすると扉が開く。
「シャルネ様、アドルフィト王子がお呼びです」
「アドルフィトが? 部屋へ来いと?」
「はい、ご案内いたします。ガウンはこちらでございます」
 入室してくる使用人に薄手のロングガウンを羽織らされた。唐突ながら、アドルフィトと二人きりでゆっくり話がしたいと思っていたところだったので、快く受け入れる。
 使用人に連れられて長い廊下を渡る。サロンはすでにお開きとなっていて、皆自室へ帰っているようだ。城は夜の中で涼しさを一層まとっていた。演劇祭は夕暮れ時から深夜にかけて行なわれると聞いたが、島の夜は確かに過ごしやすい。
「こちらでございます」
 部屋は同じ階だが、思ったよりも離れていた。公式の付き合いではない男女であるから、王妃も配慮したのだろう。
「あの、王妃様には内密になさってくださいね」
 部屋の扉前で、一応使用人に念を押す。シャルネより少し若い彼女は「はい」と答えた。ノックせずに入っても差し支えないとのことで、シャルネが自ら扉を開ける。使用人はすぐ場から離れた。
「アドルフィト」
 扉を閉じて薄暗がりに声をかける。軽装になっている彼は、手にしていたティーカップを置いてシャルネのそばへ寄った。言葉なく抱き締め合う。薄いシャツから、彼の香りと体温を感じた。
「何かあったの?」
「一人で部屋にいたら、急に会いたくなった。先程まで一緒だったのにな」
「私も、同じことを思っていた」
 嬉しい言葉に想いを添える。額にキスが落ちた。
「少し横になるか。疲れただろう」
「ベッドに……大丈夫なの?」
「王妃に知らされなければ。ここの使用人は静かな子が多いから、大丈夫だ」
 その言葉を信じてベッドへ上がる。ひとつだけのランプでは、表情も近づけなければわからない。必然的に身体を寄せ合った。
「今日は良い唄をありがとう。素敵だったよ」
 頭を撫でてくれるアドルフィトの胸元に、シャルネは頬をくっつける。
「こちらこそ、本当に無事に終わって安心した。最初はパニックでどうしようかと思ったけれど」
「明日は観る側だからな。王妃も新たな来賓者の対応で忙しくさせるだろうから、気楽にいられるはずだ」
「これから三日間、楽しみにしてる」
「俺もだ。……君と、この島を楽しみたい」
 数度当てるだけのキス。見つめ合った後、シャルネは口を開いた。
「アドルフィトに訊きたいことがあるの」
「なんだ?」
「貴方の香り」
 ここにも漂う、王族のみが扱う香料。
「香り当てゲームの続きか?」
 話がわかった彼は、紫青の瞳をパチリと開いた。
「うん。答えがわかったの」
「言ってごらん」
「りゅうぜんこう。違う? そんな響きだったと思うけれど」
「ヒントが大きすぎたな」
 王妃との会話を思い出したのか、苦笑してみせた。
「当たり?」
「正解だ。不思議な香りと称させるのは、龍涎香の仕業だ。海で取れる希少な香料だよ」
「動物性なの?」
「そうだ、よくわかったな。何の動物でどの部分かわからないんだが、時々海岸に流れ着くんだ。おそらく海洋生物の化石あたりだろう。見つかるところも俺の国の海岸か、ロッカ王国の北海岸だけだから、……それもあって、ロッカ王国と特別な関係を築いているというわけだ」
 外交の道具にも使われる一品と聞いて、さらに不思議さは増す。嗜好品が国家を動かすなんて、シャルネには考えつかない。
  「そんなに重要なものなの? 単なる香料なのに」
 そういうと彼は王子の気品で微笑んだ。
「海の加護だからな」
「どういう意味?」
「太古から海運王国として栄えた俺の国には、古い伝統があってな。この龍涎香を使った香りを身につけると海の加護が得られるという……王家の慣習だ。古臭い伝統かもしれないが、生まれてこの方身に着け続けていると慣れてしまうというか、つけていないと落ち着かないというか」
 王家の文化だと知り、ふと自身の身の上を思い出す。シャルネにも身に着けていないと落ち着かないブルーステラの首飾りがある。
「私はこの香りとっても好きよ」
 海の香料を使った香り水は、アドルフィトをよりよく引き立ててくれるとも思うのだ。
「そう言ってくれると嬉しい。さて、ゲームの勝者には戦利品、だな」
 嬉しそうな王子は、ゲームをはじめたときの約束を覚えていた。戦利品、という言葉にシャルネの瞳も輝く。
「本当に、くれるの?」
「小瓶に少しだけ。王族以外身につけてはいけないから、これは秘密だよ」
「ありがとう! 嬉しい!」
 口元に人差し指を添えるアドルフィトに、満面の笑みを返した。



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