* リクペラ・コン・ブルー 第14話 *


 翌日の夕刻前、アドルフィトとともに会場へ赴いた。
 すり鉢状の古代遺跡を上手く利用した舞台には、すでに多くの客が座っていた。石造りの会場の中でも、前方は立派な椅子が用意されている。王族と貴族の観覧席だ。決められた席に座ってからも、使用人がひっきりなしに飲み物を用意してきたり、大きな団扇で涼しい風を送ったり、細やかに動いてくれている。段上の人々とは明らかに違う扱いに恐縮しながら、二人で祭典のはじまりを待った。
 演奏とともに演劇が幕を上げると、シャルネはまばゆい光と鮮やかな衣装、唄、物語の人間模様に見入った。今まで観たことのない、本物の芸術の世界だ。完成度の高さに感動するだけでなく、自分自身の力量も思い知らされる。昨夜、王妃に披露した一曲で満足してしまった己を恥じた。
 二幕が終わった休憩の間、アドルフィトが顔を覗き込んできた。
「疲れてないか」
「ううん。すごく素晴らしくて、私の知らない世界があったんだって」
「楽しめているなら、いいんだ」
「うん……本物の唄と演技は、こんなにも人を惹きつけるのね」
「シャルネ、唄に優劣はない。君には君のよさがあるんだ」
 素直に感動した気持ちと自己卑下する気持ちがない交ぜになっているのが表情でも垣間見えたのだろう。紫青の瞳が重なる。
「俺は、シャルネの唄が一番だと思っているよ」
 偽りのない眼に救われる。シャルネは卑屈な自分を手放した。
「ありがとう」
 力強い言葉と存在に救われ、その後に観た劇では、私もこんな唄が歌いたい、と前向きな気持ちが溢れた。演劇祭は一日目だけでも、シャルネの感性を十分に潤した。劇が終わってから、改めて祭典に連れて来てくれた御礼をアドルフィトに伝えた。
 深夜まで続く余興から離れて、数時間ぶりに離宮へ戻る。すると、慌てたような表情でユーノスが駆け寄ってきた。
「先にいるのも珍しいな。何かあったか?」
「王妃様に呼び出されたんだ」
「ユーノスに用? 俺ではなく?」
 アドルフィトが不可思議だと顔で伝える。シャルネも少し不安になった。
「いや、アドルフィトはシャルネと真剣に演劇鑑賞してただろ。王妃様が気を利かせて、オレに言付けてくれって……頼まれたんだけど、それがちょっとな」
「何を頼まれたんだ」
「演劇祭の最終日、シャルネの歌う時間を特別に用意したから出てほしいって」
「え、ええっ!」
 ユーノスの言葉に、シャルネは衝撃のあまり大声を上げた。ドクドクと爆発したように心臓が動く。倒れそうになるところをアドルフィトにかかさず支えられた。
「大丈夫か」
「シャルネ、ゴメンな」
「いえ、いえ、」
「とりあえずどういう内容だ?」
「昨夜の晩餐会で、ロッカ王国南部の唄が聴けたことがすごく良かったらしいんだ。王妃からはロッカ王国南部の唄とハイアード王国の唄をそれぞれ一曲ずつ、会場の舞台で披露してほしい、伴奏は任せるってさ」
 明確な指名だ。たかが二曲と言われても、昨夜とはわけが違う。
「無理よ、あんな何千人もの前で、私にはできない」
 搾り出すように拒絶の言葉を口にする。しかし、辞退できないことはわかっていた。この国の王妃が後援している演劇祭なのだ。
「シャルネ、王妃が君の唄を認めてくれているということなんだ。曲目まで指定されているわけではないから、ある程度は君の裁量でやれる」
 王子が宥めてくれるが、簡単な話ではない。まずは気持ちを落ち着かせなければ状況の判断もつかない。
「俺の部屋に行こう。ユーノス、使用人を呼んでくれ。また、王妃へは俺からも話をするが、ユーノスも訊ねられたら話は受けると伝えてくれ」
「わかった」
 立つのもやっとのシャルネを、アドルフィトは横抱きにするとゆっくり部屋に向かった。マーメイドブルーのドレスが揺れ、振り落とされないように回していた腕を強めた。
 王妃が場を用意したと言い、ハイアード王国第三王子が話を受けると言ったのだから、もうシャルネの反論は聞き入れられない。
 ……本来の歌い手さんならば、こんな晴れの舞台を用意されて、喜ばないわけがないのに。
 恵まれている自身の立場を思い出し、激しく動揺してしまったことを反省した。多くの人に聴いてもらえるチャンスだと思えばいい。とはいっても、特別目立ちたくて、唄を生業にしたくて歌っていたわけでもない。
 懊悩の中で、アドルフィトとともに部屋へ着く。長椅子に降ろされ、彼の腕はシャルネを包み込むように抱き締めた。
「無理は承知だ」
 声だけで心配されているとわかる。誰が悪いわけでもなく、むしろシャルネ自身が期待されているからこそ、今回の話が出たのだ。
「私も、わかってる」
 深呼吸して本音を漏らした。
「勇気がないだけなの。大勢を前に、胸を張って歌うっていう」
「それなら、俺のために歌ってほしい」
 吸い込まれそうな美しい瞳に見つめられる。
「俺だけを見て、俺を想って。それなら、難しくないだろう?」
 アドルフィトへ届ける唄。目の前の男のためならば、緊張を超えて愛しく歌うことができる。
「でも、王妃様の頼みごとなのに?」
 気になる部分を訊ねると、王子はウインクした。
「歌っている人間の心の中までは、誰も見えやしないさ」
 ……アドルフィトの言うとおりかもしれない。彼の言葉を信じたい。
 言葉を咀嚼して、静かに頷く。シャルネの合図に、彼も微笑んだ。
「時間がない。急いで手配しよう」
 深夜だからといって暢気にかまえてはられない。改めてユーノスを呼び出し、楽士に来てもらうよう連絡をした。王妃付の臣下に会いたいと使用人に話したアドルフィトは、その十五分後に「話をしてくる」と部屋を離れる。一人になったシャルネは目まぐるしく翻弄される自身に深く息をついた。また思い悩んでしまいそうな心を手で抑える。
「アドルフィトに、お任せすれば大丈夫」
 口にすると、ざわめく胸はスウッと落ち着く。まるで魔法の呪文だ。
 ……明日は、祭典よりも練習をしなくちゃ。セリアとニルダには悪いことをしてしまっているわ。
 でも、味方がそばにいてくれる心強さを知っている。一人ではないと思いながら目を閉じれば、瞬く間に意識は落ちた。
 触り心地の良いものに覆われていると感じて、ふと瞼を開く。目の前に広がっていたのは天蓋の内側だ。知らぬ間にベッドへ移動していたことに気づき、身体を起こす。
 シャルネの客間だった。使用人が気づいて近寄る。
「起きられたのですね、シャルネ様。お着替えいたしましょう。湯浴みもされますか」
「ええ、ありがとう。あの、王子は?」
「すでにご自身の客間へ、引き上げています」
 彼が眠っているシャルネを横抱きにして連れてきてくれたのだろう。昨夜と同じ展開に、申し訳なく思いながら使用人の女性にも声をかける。
「こんな夜中に、ごめんなさい」
 すると、彼女は笑顔で顔を横に振る。
「この期間は皆様、昼夜逆転されますから」
「まだ演劇祭はしているの?」
「はい。空が闇の色から群青に変化する頃まで」
 本当に長い演劇祭のようだ。最終日に自身が出ることになってしまったのは棚に置いて、シャルネは寝支度を済ませようと使用人の手を借りた。湯浴みして着替えをして、カモマイルティーをいただく。
 ……もう一度、ゆっくり眠れそう。明日のためにもしっかり休まないと。
「明朝、アドルフィト様がお訪ねに来るとのことです。ゆっくりお休みください」
「ありがとう、貴女も」
 翌日、アドルフィトとともにセリアとニルダと会った。彼女たちは晩餐会のときと同様素敵な相談役になってくれる。
「最終日までわたしたちも離宮に泊まるから」
「不安になったら、すぐ呼んでよ!」
 明るい二人に励まされ、依頼のとおり二曲を選ぶ。食事を終えると早速練習がはじまった。演劇祭二日目を返上して、ハイアード王国の曲を練習する。アドルフィトも心配になったのか、何度も練習部屋に顔を覗かせて様子を見守っていた。
 演劇祭が夕刻からはじまることは好条件だった。三日目の朝、特別にリハーサルをさせてもらい、そこからまた部屋に籠もって最後の調整とドレス選びを行なった。
 ……本番の舞台に立ったけれど、あまりに広くて圧倒されてしまった。あの場所から何千もの目が私を見つめるのね。
 そう思うと身震いしてしまう。が、リハーサルのときにアドルフィトが座る位置も確認できたのだから、不安に駆られたら彼だけを見つめていればいいのだ。
 ……アドルフィトもセリアもニルダも、ちゃんと見守ってくれる。なんとかなる。なんとかするのよ。
 開演前、マルグレッタ王妃がシャルネのいる部屋へ顔を出した。朗らかな王妃から「楽しみにしています。貴女もどうぞ舞台を楽しんで」と労いの言葉をもらう。王妃は純粋な気持ちでシャルネの唄を演劇祭会場で聴きたいようだ。芸術を好む彼女の想いに応えたい、と素直に思えた。
 一緒に待機しているセリアとニルダは、シャルネの後ろについて演奏してくれることになっている。舞台裏にいても心細さはなく、場慣れしている彼女たちの会話を聞く。
 楽士二人は音楽院で学んでいた頃に大きな舞台を何度も経験していた。詳しく聞けば、二人とも飛び級したほどの腕前で、大人たちに混ざって王家主宰の式典や舞踏会で演奏していたのだという。
「実は、堅苦しいお城の楽団とはあんまり肌が合わなくって。アドルフィト様にくっついて船に乗るようになったんだ」
「一応、まだお城の楽団の一員なんだけどね。国に帰るとお城で演奏してるし」
「そうなの。二人とも本当にお墨付きの楽士なのね」
 三人で雑談をしていれば、会場の担当官から名を呼ばれる。
 ビクッと肩を震わせたシャルネは、試験を受ける学生のような気分になった。後ろにいる二人は、音楽院のコンクールのほうが緊張すると言っていたが、シャルネにとっては今が技能試験のようなものだ。
 演劇祭はスケジュールどおりに進んでいた。ハイアード王国の来賓枠でシャルネが登場する時刻が迫る。
 ドキン、ドキン、ドキン、と今までにない鼓動が身体中に鳴り響いていたが、頭は不思議なくらい冴えていた。
 ……いつもどおりに。私は、求められるまま唄を届けるだけ。
「楽士の方、用意してください」
 セリアとニルダが声に合わせてスッと動く。彼女たちは普段と変わらず、喋らなければ淡々としたものだ。裏方から合図が聞こえ、司会がシャルネの時間を口にした。
「このたびは、ハイアード王国から特別ゲストを招いております」
 他国の来賓でありながら、ロッカ王国最南部出身だという説明がはいった。出生を隠蔽できる大々的な嘘が今は有難かった。アドルフィトが気を利かせてくれたのだろう。
 シャルネは促されるとおりに階段を上がった。そして、ゴドール出身の歌い手として舞台に登場した。
 夜の色彩は野外の客席をぼんやりとさせていた。おかげで収容人数より動員が少なく見える。すり鉢状の一番手前側は貴族と王族の席だ。
 その極小エリアに、アドルフィトが座っていることを確認した。彼もシャルネと視線が合ったと確信したのだろう。軽く手を挙げてくれる。それだけでフッと気持ちが落ち着く。激しい鼓動も落ち着いた。
 しん、とした中でリュートの音がする。セリアの笛がはじまると、二日間かけて調節したハイアード王国の曲を披露した。
 自然と歌うことだけに集中できたシャルネの声は、柔らかく島の空気と触れ合った。会場は音を美しく反響させる。静かな観衆の瞳は星のように瞬いた。
 シャルネはその中にいる一等星、アドルフィトを見つめ続けた。変調する旋律とともに唄の佳境で手を差し出す。
 ただただ彼を想って歌った。リュートの音色は止まることなく、続けてこの国の南部に伝わる童謡がはじまる。北部の人間でも、唄好きならば聴いたことのあるメロディーだろう。
 二曲目を歌いはじめると、会場が少しだけホッとしたような雰囲気になった。シャルネもアドルフィトから目を離し、上部の観客へ視線を投げる。遠くからでも女性の口が動いているのが見えた。この曲を知っているのだ。
 ふと、歌う喜びと安堵感が溢れた。自分の声を認めてくれているような心地になった。
 あっという間の二曲。演奏が止む前、たくさんの拍手がすり鉢状の会場を駆け下りた。
 ……終わった。無事に、間違えることもなく歌うことができた。
 深く一礼をする。止まない拍手がふたたび緊張感を連れてきた。視界の挨拶が終わるやいなや、シャルネは振り返ることなく舞台袖へ戻る。そのまま、誘導されて会場の裏口付近へ行き着くと、すぐにアドルフィトがやってきた。
「シャルネ、素晴らしかった!」
 満面の笑みで駆け寄る王子に、緊張の糸がプツンと切れる。言葉を返すことなくよろめいたシャルネを男の腕が慌てて支えた。
「大丈夫かっ」
「え、ええ。なんだか、腰が抜けてしまって」
「それならいいんだ」
「御疲れさま、シャルネ。早く休んでね」
「今日の唄、すごくよかったよ」
 驚いた楽士二人も声をかけてくる。下半身に力が入らないシャルネをアドルフィトはやんわりと横抱きした。
「心配かけてごめんなさい。セリア、ニルダ、ありがとう」
 演劇祭を最後まで観ていくという二人に挨拶をして、離宮までの馬車に乗る。
「さすが俺の歌姫だ。美しかったよ」
 高揚した様子のアドルフィトが何度も何度も褒める。狭い車内で、離宮に着いてからは彼の客間で。シャルネは嬉しさよりも大役を果たせた安堵に包まれて彼に身をゆだねた。



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