* リクペラ・コン・ブルー 第15話 * | |
朝が訪れていた。 目覚めても隣にアドルフィトはおらず、また自らの客間だ。上半身を起こすと使用人がそろそろと室内を動いていた。呼び寄せれば、起こしてしまったのかと詫びながら前に来る。 「こちらこそ、いつもごめんなさい。アドルフィトが連れてきてくれたの?」 「はい。また様子を見に来ると仰っておりました」 「ありがとう。……もう少し、休んでいていいかしら?」 「どうぞごゆっくりお休みください」 使用人の微笑にシャルネも同じ笑みを返す。横になると静かに息を吐いた。 ……島にいるのも、今日が最後。 怒涛の五日間だった。柔らかな羽毛の枕に顔を伏せて、濃密な時を反芻していれば自然と眠りに落ちた。 次に目を覚ましたのは昼前、アドルフィトが様子を見に来たときだ。慌てて着替えを行ない、演劇祭明けの昼食会に赴いた。王妃や残っていた貴族からは、昨夜の唄を褒められ労われた。ハイアード王国の株も上がったようで、アドルフィトに貢献できたことを誇らしく思った。 昼食の後、日陰を辿りながらアドルフィトと離宮の庭を散歩した。直射日光に負けない夏の花々は香りが強い。ハイアード王家の香りについてシャルネが訊ねると、この内の一種は調合に使われていると彼が教えてくれた。 「ハイアード王国も、花の種類はたくさんあるの?」 「ロッカ王国ほどはないな。俺の国は冬が長いから、花というよりは森林が豊富という感じだ」 「雪も降るの?」 「降るよ。すごく積もる地域もある」 「そうなのね」 北の国はシャルネにとって未知の大地だ。ラエル共和国もロッカ王国も基本的に雪は降らない。降っても山間部の頂くらいだ。 「興味があるか?」 彼の言葉に純粋な気持ちで頷く。シャルネは降る雪を観たことがないのだ。 それを伝えようと口を開く寸前、離宮の使用人があらわれた。王子へ丁重な挨拶をして、シャルネを見る。 「王妃様が、シャルネ様をお呼びでございます」 「彼女だけを? 王妃が?」 訝しげなアドルフィトに、年配の使用人が「はい」と答える。 「個人的に御礼をお伝えしたい、と」 「それでしたら、お伺いいたします。アドルフィト、いい?」 強引な要望を王妃が伝えてくることはないはず、と信じて視線を投げる。アドルフィトもシャルネの思いを察したようだ。「いっておいで」と王妃の下へ向かうよう促す。 シャルネは使用人とともに、王妃がいるという部屋へ向かった。一階の廊下を渡り、一番奥へ辿り着く。 冷ややかな空気を感じながら、開けられる扉を見る。すぐ壁を覆う本棚が目についた。高い位置にある書物を取るための梯子や長椅子にテーブル。図書室なのだろう。 豪奢な机の向こうには王妃が立っていた。深緑のクラシックなドレスに金糸の美しいコルセットを合わせ、優雅さを引き立たせている。 「王妃様。このたびは、本当にありがとうございました」 部屋に入り、頭を下げた。 「こちらこそ、いつにも増して思い出深い祭典となりました」 王妃はシャルネに改めて感謝と労いの言葉を返し、ゆったりと歩きながら口を開いた。 「貴女と出逢って、唄のもつ力を再確認いたしましたの。この演劇祭は北部が主体となっておりますけれど、今後は南部にも重点を置いて、唄を披露する祭典も新たに設けようと思います」 突然の話にシャルネは驚いものの、すぐさま嬉しい気持ちを表に出した。自分の働きから国家が動いてくれるのだ。 「お心遣い、感謝いたします! 南部の皆さんも喜ぶと思います」 「そのときは出ていただけるかしら、シャルネ」 「光栄です」 目の前に立った王妃は、弾むようなシャルネの返答に微笑んだ。 「こちらへ、ともに座りましょう」 言われたとおり長椅子に腰をかける。王妃と同じ椅子に隣同士で座るなんてことははじめてで、変な緊張感に包まれた。 「貴女のお顔をよく見せて」 はい、と答えるしかなく、彼女を見つめた。 マルグレッタ王妃は三〇以上歳が離れたシャルネを長いこと眺めた。その間に、使用人がハーブティーをテーブルへ置いていく。 扉が閉まって、いてもたってもいられなくなったシャルネは口を開いた。 「あの、いかがされましたか?」 尋ねてみる。すると、王妃は神妙に頷いた。 「やはり、どこかで見たことがあるお顔。貴女にはなぜか親しみを感じますの」 その言葉に、ドキッと大きく鼓動が鳴った。彼女が視線を下げる。 「胸元にある蒼い石、見せていただけないかしら」 王妃の願いは絶対だ。大人しく首に下げていたものをはずして、色白く美しい手に渡す。 彼女は受け取ったものをまじまじと見つめた。裏返しにした後、細工された窪みに目を凝らした。 「エラゥル王国の方?」 マルグレッタの声に、大きく心臓が口から出そうになった。ロッカ王国出身ではないことを暴かれた不安より、現存していない『エラゥル王国』という単語が自然に出たことが衝撃だった。 「実は……申し訳ありません」 平静を努めて謝る。自国出身者ではなかったと知った王妃だったが、気にしていないようだ。首を横に振った。 「いいえ。いくつまで国に?」 彼女にとっては、エラゥル王国出身者であることに興味が向かったらしい。下手な嘘はつけず、伝えられることだけを簡単に話す。 「一歳になった頃に離れて、後はずっとロッカ王国に住んでいます。……なぜ、エラゥル王国だとわかったのですか?」 逆に問いかけた。エラゥル王国出身者だと当てられたのははじめてだったのだ。しかも、今は王政を廃してラエル共和国と名を変えているのに、王妃は旧体制の読み方をあえて使っている。不思議だと思ったが、王妃はすぐに明かしてくれた。 「これはエラゥル王国時代の旧字体なのですよ。この、彫られている部分」 人工的に彫られた窪みを、桜色の爪が指す。金粉を埋めた模様のことに違いなかった。 「記号だと思っていました」 自分の国であったはずなのに、何も知らない。 シャルネは恥ずかしく思い、頭を垂れる。その姿に王妃は微笑んだ。 「エラゥルの子でも知らないのは仕方ないことです。旧字体は二百年前に改変されているのですから。読めたのは、古文書を扱う専門家だけだったと聞いています」 「お詳しいのですね」 「ええ、文学も好きですから。ことにエラゥル王国は文学に長けた国でしたの」 エラゥル王国が文学に優れていたことも、はじめて知った。 ……私、祖国の文学なんて一度も読んだことはないけれど。ローランはどうだったのかしら。 育て親であるローランのことを思う。彼女は元女騎士だが、学問でも良い成績を取っていたと聞いたことがある。 ……帰ったら、ローランに色々訊いてみよう。 「エラゥル王国の古典詩は特に美しいですよ。もうあまり知られていませんけれど。原本は旧字体で、今どれだけ現存しているかも不明ですし」 「そうなのですか」 「旧字体の古文書解読院は王宮のお抱えでしたから。国交があった頃は解読された書物をいただいたりしていましたの。亡くなられたエラゥルの王妃様はおやさしくて繊細な方で、芸事を大切にされておりましてね」 亡くなられた王妃のくだりで、シャルネは息を詰めた。 ……お母様の話を、ここで聞くとは思わなかった。娘である私も、どんな方だったかほとんど知らないのに。 身を固めて黙っていると視線を感じる。 マルグレッタ王妃が話を止めていることに気づいた。 横をおそるおそる見やる。 ひどく真面目な女性の顔があった。 「貴女、おいくつになりましたの」 口を開いた王妃は、先程の柔らかな話し方とは違っていた。 何かに気づいたらしい。 真実を探るような声にシャルネも、観念して答える。 「今年で、十八になりました」 単に年齢を伝えただけだが、彼女は美しい瞳をさらに大きく広げた。 もう一度、長く見つめ合う。 シャルネは王妃からの言葉をただひたすら待った。 「そう……そうだったの」 ようやく漏れた呟きは、少女のような可憐さがあった。遥か昔を思い出して、答えを導きだしたようだ。 「生きて、いらっしゃったのですね」 輝いた瞳に、嘘では答えられなかった。 「……はい」 本名を明かすまでもなく真実を共有する。彼女も詰問することはなかった。 「命を、大切になさい」 シャルネの翠眼を見て、王妃は言った。 「貴女を守り育てられた方に敬意を称します。どうぞ、宜しくお伝えください」 同時にローランのことも労われ、シャルネは返す言葉もなく深くお辞儀をした。
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