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* リクペラ・コン・ブルー 第17話 * | |
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 晩夏の森。 果実摘みを兼ねて慣れた土壌を踏みしめる。町ではそろそろ収穫祭の準備がはじまる頃だ。 ゴドールに戻るという決断について、シャルネは後悔していなかった。ローランと再会できたときは、海での日々を吹き飛ばすほど嬉しくて仕方なかった。ローランは、シャルネが船旅をしている間も変わらずゴドールの町人たちとうまくやっていた。今日も主要メンバーの一人として祭りの会合に参加している。 酒場の女将からは帰郷と無事を喜ばれ、早速歌い手家業の再開を乞われた。リュート奏者のカロイスにはかなり厭味を言われてしまったが、町の人はシャルネの唄を純粋に待っていたようだ。久しぶりに酒場の舞台に立ったときは、出入り口が閉まらないほどの大盛況だった。酒場に行けない奥方や子どもたちも、収穫祭でシャルネが唄うことを楽しみにしてくれている。 唄を求められることは素直に嬉しい。シャルネもまたすんなり町の中に溶け込んで、望まれるままに唄を歌っている。 しかし、歌えば歌うほどアドルフィトの思い出が甦ってきてしまうのだ。最近では、一人になると気持ちが塞いでしまうようにもなっていた。 ……森は美しいけれど、海のにおいはしない。 今日も飽きることなく反芻する、色鮮やかだった船での生活。後悔はしていなくても、想いは彷徨う。 彼はもう、ハイアード王国に戻っているのだろうか。 美しい紫青の瞳に見つめられたい。とりとめのない話をして笑い合いたい。 アドルフィトのことが恋しい。 小瓶に分けられたハイアード王家の香りは、彼を強く思い出してしまうから棚の奥に封印した。ローランにもまだ嗅がせていないし、まして海での生活もほとんど話せていない。胸の内にあるアドルフィトへの想いを打ち明けるなんてもってのほかだ。抱えている感情を曝け出せるのは、歌うときとこうして森の中を散策するときくらい。 大きく吐いた溜息の数だけ、そっと息を吸う。 様々な色で綻ぶ野花。食べ物を探す動物たち。頭上を見れば、空の色が少しずつ変わりはじめている。 ……もう、おうちに帰ろう。 草木を避けながらようやく脚は帰路を示す。考え事をしていると時間が経つのはあっという間だ。 途中、シャルネは自生しているベリーを見つけて、最後の摘み取りに勤しんだ。小さな籠に入れながら、アドルフィトにも食べさせてあげたかったな、と思う。 ……ベリーの焼き菓子は好きかしら。船では、寄港しないかぎりドライフルーツがメインだったもの。森の新鮮な果物も食べさせてあげたい。 何をするにも、彼のことが真っ先に思い浮かぶ。まるで患った病のようだと自嘲していれば、モゾモゾとジャンパースカートの裾を動かす感触に気づいた。 若いリスだ。シャルネの肩に乗って挨拶をすると、膝元に置いていた籠に飛び移った。 「少しだけよ」 溜まったベリーをいくつも掴んで口の中に押し込んでいく姿を、シャルネは微笑んで見つめた。この森の小動物たちはシャルネに警戒心を抱かない。同じ仲間だと思ってくれているのだろう。 ……アドルフィトも海も愛しい。けれど、この森も町も好きなの。 最終的に思うことを今回も心の中で唱えて、ベリーを小さな籠いっぱいにすると場を離れた。 シャルネには、簡単にアドルフィトを選べない事情がある。 ただの町人で、ただの歌い手であればどんなに楽だっただろう、と幾度となく思う。廃した王家の生き残りという枷があるかぎり、自由になりたくても、なれない。身分を隠してなるべく密やかに生きなければならない。 ……航海は楽しかったけれど、対外的に目立つことも多くやってしまった。 アドルフィトの船に乗らなければ、エラゥル王国をよく知っていたロッカ王国の王妃に素性を暴かれることはなかっただろう。王国時代の財宝が狙われていることも知らなかっただろう。 胸元にあるネックレスは、町に帰ってから常にブラウスの中に仕舞っている。酒場のときは胸元が開かれたドレスを着るため、インナーにポケットをつけたり、布のベルト型の簡易ポケットを手づくりしたりして、どうにか隠し持つようにしている。シャルネがトレードマークを表にしなくなったことをカロイスから目ざとく突っ込まれてしまったが、気分の問題と言って片付けた。代わりに、アドルフィトからもらったアクセサリーは堂々と身につけるようになった。 エラゥル王国の秘宝の鍵が、シャルネの持つブルーステラだと誰も思っていないだろう。今のところ不穏な情報は入ってきていない。シャルネは収穫祭が終わるまですべてを胸の内に留めると決めた。ローランも収穫祭の準備で毎日忙しいのだ。エラゥル王国のことに関して敏感に反応する彼女に、心労を重ねることは言えない。 ……収穫祭が過ぎたら、海賊から聞いた話とか少しずつきちんとお話しよう。 帰ってきてから一度、ローランにはブルーステラの裏側にある金字の記号が何なのか訊ねたが、わからず仕舞いだった。エラゥル王国時代の旧字体であることは知っていたけれど……彼女はもう王国のことを話したくないようなのだ。王国が崩壊する様を目の当たりにしたトラウマがローランの心を深く巣食っているのだと思うと、無理はできない。 シャルネは大きく深呼吸をすると、気持ちを切り替えて森を出た。小さな家には灯りがついている。ホッとした気持ちでドアを開け、夕食の準備をするローランへ「ただいま」と挨拶をした。 収穫祭を七日後に控えた午後。 朝晩に涼しさを感じるようになり、秋の気配を見つける前にシャルネは大きな籠を持って森へ入った。 ……あと少しで、泉に入ることもできなくなるかしら。 ゴドールに住みはじめてからずっと続けてきた夏一番の楽しみは、水浴びだ。森の中にお気に入りの泉があって、暇ができると度々向かっている。今年はアドルフィトと航海に出てしまったため、まだ一度しか赴いておらず、本日がようやくこの夏二度目。 ……明日から、本格的な唄の練習とお手伝いがはじまる。バタバタしていたらあっという間に秋になってしまうし。 歩いて十五分も経たず小さな泉に着く。シャルネが住む家を五つ分あわせたくらいの面積がある広い泉は、底から地下水が湧いていて常に新鮮だ。泉は森にいくつもあるが、シャルネは青い彩度を放つこの泉を好んでいた。泳ぐには少し狭く適さないが、中心部はそれなりに深さがあるし草木が生い茂る感じも良い。 いつも籠を置いている木の根元で大きく伸びをすると、水温を指先で確かめて用意をはじめた。 この地域では、大人になってから森で水浴びをする者はほとんどいない。子どもの遊びだと思われているせいだ。子ども扱いされるから、ローラン以外でこのことを知る者はいない。 ……沐浴も良いけれど、自然の中で恵みを感じながら水浴びするのも素敵なことだと思うのに。 エプロンとベルトをはずし、ジャンパースカート、ブラウス、靴、下着と躊躇いなく脱いでいく。シャルネは再度大きく伸びをした。晩夏の風がやさしく皮膚を撫でる。 髪をまとめ、木の幹に手を添える。ゆっくり片脚を差し入れると柔らかい水がまとわりついた。泉は歓迎するようにシャルネを包む。お腹まで隠れる水深で落ち着き、身体を屈めてうなじまで沈めた。底がよく見えるほどの清らかな泉。心まで潤してくれる。 ……いつ来ても、ここは美しい。 鳥の囀りに顔を上げる。木漏れ日がそよぎ、幾種もの鳴き声がこだまする。生き物のざわめきは、まるで音楽のようだ。 自然とシャルネの口元からもメロディーがこぼれた。森を礼讃する唄。 泉水を掬い、手で遊びながらいくつもの曲をくちびるに乗せていく。リスやタヌキなどの動物たちも、シャルネの歌声に興味をもったように近づいてくる。変わらない森の風景。 しかしつかの間、何かの弾みで鳥たちが羽ばたく大きな音が聞こえた。驚いて唄を止めたシャルネは、小さな危機感を抱いて泉の中央へすすっと泳ぐ。胸まで水で隠すと、今度は近くでガサッガサッと音がしたのを耳にした。 ……鹿かしら。熊はさすがに見かけたことがないのだけど。 不安を覚えて息を潜める。近づいた音は、草を分け終わると同時に止んだ。 あらわれた人物に、シャルネは唖然とした。 「ここにいたのか」 狩猟姿のアドルフィトが立っている。 翠眼を大きく広げ、幻でも見ているのではないかと凝視していれば、彼は笑顔になって泉を見渡した。 「あちらから、泉に入れるんだな」 そう言って彼は草の中にまた身を戻す。 消えたアドルフィトにシャルネは詰めていた息を取り戻した。 ……私、とうとう幻まで見るようになってしまったのね。 「シャルネ」 「うひゃあ!」 突然響いたアドルフィトの声に、変な叫びを上げてしまった。途端に彼の笑い声が響く。 「ア、アドルフィト、本物なの!」 バクバクと大きく打ちつける心臓の音。 シャルネはようやく彼が幻でないことを知り、水を慌てて掻き分けた。 「俺に代わりがいるものか」 「どうして……国に帰ったのではないの?」 「君が恋しくて」 言葉を返すアドルフィトが上下に視線を動かす。つられてシャルネも自身の姿を見下ろした。 浅瀬から晒された柔い肌。裸体であることをすっかり忘れていた。 「きゃあっ」 ザバッと飛沫を上げて、泉に座り込んだ。胸のドキドキが別の感情へと摩り替わっていく。 「ここの泉は心地良いのか?」 彼の問いに、身を屈めたまま頷く。 「ええ、とても」 「俺も入ってみよう」 てらいなく続けてきた言葉に驚いてアドルフィトを見る。王子はすでに衣服を脱ぎはじめていた。 胸が高鳴った。ゾクゾクと異様な痺れが肌を通り抜ける。 ……どうしよう。こんなことになるなんて。 とぷん、と音がした。アドルフィトが泉に入ってくる。 「思ったより、水温が低くないんだな」 顔を見ることができず、背中で声を聞く。恥じらいと緊張で、勝手に脚が奥へ動いていた。 「この泉は、底から水が湧いていて。他の泉よりも不思議と温度が少しだけ高いの」 答えつつ、胸の位置まで水が迫るところで立ち止まった。 「そうなのか。さすが、詳しいな」 すぐ後ろで聞こえるということは、彼もついてきているのだろう。黙っているとハイアード王家の香りが伝わってきた。心臓の音もさらに大きくなる。 肌が触れ合った。ビクッと震えたと同時に、後ろからぎゅっと抱き締められる。 「会いたかった」 鼓動は弾けた。たまらず自分に回されたアドルフィトの腕を掴む。首を背けて紫青の瞳を見上げた。 町に帰ってきてから、ずっと想っていた愛しい人。 「私も、貴方に会いたかった」 想いをかたどった薄紅のくちびるに、アドルフィトのそれが重なった。 ◇ 夕暮れがはじまっていた。 アドルフィトにおぶわれて家に戻るなんて、思いもしなかった。彼のぬくもりに包まれている幸せをかみ締める。 ……アドルフィトがいる。私なんかのために、本当に嬉しい。 「この方角で合っているか?」 「ええ。こんなことをさせてごめんなさい」 「いや、これくらいはさせてくれ」 「ありがとう」 ……でも、こんなに早く、貴方がここまで来るなんて。 感謝と喜びの中から生まれていく冷静な心。 シャルネは目を逸らすことができず、ぎゅっと彼に掴まる。 アドルフィトも同じように自分を想ってくれていた。しかし、どれだけ愛し合っていてもシャルネには悩ましい事情と町のことがある。 家は暗かった。会合で遅くなると言っていたローランは、まだ帰ってきていない。 「おうちの鍵、開けるね」 ゆっくり降ろされたシャルネは、彼の腕で支えられながら家のドアを開けた。数年前から住んでいる小さな家。ハイアード王国の第三王子であるアドルフィトには経験のない狭さだろう。 片やシャルネは、内部の権力争いと民衆のクーデターで滅亡したエラゥル王家の生き残り。血族にも国民にも裏切られた廃家の王女だ。 ランプをつければ、余計に彼との身分の差が浮き彫りになった。 「粗末なところでごめんなさい」 気品ある彼の香りにもふさわしくない。安易にハイアード王家の香り水を欲しいとワガママを言った自分が愚かに思えた。 アドルフィトはシャルネが謝った意味を理解できないようだ。強く抱き締めてくる。 「俺は、シャルネに会いにきたんだ。どんな場所だろうと」 熱っぽく紡がれる。けれども、シャルネの頭は冴えていた。彼は単独で勝手に来たわけではないだろう。どこかに従者を控えているはずだ。 紫青の瞳が翠眼を見つめる。 「我が父からの許しも得た」 単刀直入の物言いだった。 彼は、約束どおり迎えに来たのだ。しかも、王家の了解を得て。 「ハイアード王国へ、俺と一緒に来てくれないか」 その瞳には、ハイアード王家の一員になってほしいという希望に溢れていた。 アドルフィトの行動の早さに、シャルネは嬉しい気持ちよりも戸惑いが勝った。今この瞬間に返答はできる話ではない。 少し時間が欲しい、と言いたかった。けれど、言葉が出てこない。 アドルフィトの愛と地位を簡単に受け入れられる立場にいないことを、シャルネ自身も心のどこかでわかっていた。 ……ハイアード王国の王子様を、私の都合でお待たせさせるなんてできない。 長い葛藤は沈黙という名で続いていたが、見つめられていた瞳をそっと伏せたことで、アドルフィトの手が肩から離れた。 「それが君の答えか」 表情と小さな仕草で、彼自身もシャルネの葛藤と決断を受け取ったようだ。シャルネはどうすることもできず項垂れた。 「わかった」 凛とした声に落胆も怒りもない。あっさり諦められたのかと、自分のしたことを棚に上げてシャルネは傷ついた。彼の顔をそっと覗く。 アドルフィトはとても寂しそうな瞳をさせていた。 見なければよかったと思った。それでも彼は気丈に微笑んで、シャルネの頬をそっと指で撫でる。 「愛しているよ」 さようなら、ではなく愛の言葉を口にしたアドルフィトは、それ以上何も言わず、立ち上がって小さな家を出た。 あっけないお終い。 心はぐちゃぐちゃだった。 ドアが閉まる音が聞こえると同時に、ボロボロと涙が滑り落ちた。 震える胸に嗚咽が漏れる。一人きつく身体を抱き締めても、違えてしまったものは還らない。 ローランが帰ってくるまで、シャルネは裂けてしまった心を抱えて泣いていた。 驚いた彼女に心配されても声は発せず、水晶のように生まれ続ける涙だけが、行き場のない想いを明確にさせていた。 
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