* 独白(或いは私室)【第3話】 *


 部屋の外からドアを小突く音が聞こえ、私は机から顔を上げた。姉さんだ。
 三本の指先で木扉を突く音は、爪が伸びていれば特徴的な音をさせる。今は手の甲を使うノック音よりも鈍い響きがした。こうした叩き方は、姉の詩帆がするものだ。
 その音は、爪の伸び具合をはかるものになっていた。爪は簡単になにかを傷つける。姉の爪は危険なものとして、家族間で注視されていた。彼女の爪を切るのは私の役目で、三日前に整えたばかりだ。
 私が返事をするまでもなく、カチャリとドアノブが鳴り、隙間を開けた姉が言った。
「真琴、勉強中?」
 ときどき、姉はこうして私の部屋へ訪れる。同じように私も姉の部屋へ入ることがあった。姉妹の間でだけ、互いの部屋は行き来自由だ。両親にはない絆があった。
「ううん。今は休憩中だよ」
 ノートを閉じる。整理し終えた英文法を、今は眺めているだけだった。姉は安心したように頬を緩ませた。
「そうしたら、入っていい?」
「別にいいよ」
 細い体がするりとドアの隙間を抜けていく。私は椅子に座って姉を見ていた。
 白いワンピースが跳ね、まるで天使のようだ。彼女はいつ見ても、自分の姉かと錯覚してしまうほど容姿端麗なのだ。
 私たち姉妹は、本当に似ていない。互いが姉妹だと口にしなければ、他人がわかってくれないほど似ていなかった。背丈も顔のかたちも、髪質まで異なっていた。
 姉のストレートでセミロングの細い髪は、今年の春まで腰の位置にあった。私は彼女の長い髪が好きだったが、夏の装いが増すようになったある日、彼女は自分の手でザックリと切ってしまったのだ。そばにハサミがあったのがいけなかった。
 彼女の周囲に刃物を置いてはいけない暗黙の了解があったのだが、最近の安定ぶりから、父親が片づけすることを忘れてしまったのだ。それでも、切ったものが皮膚でなく髪の毛だったことに、家族一同は安心した。
 姉は今、私と同じ髪型になっている。それでも、似ている点は少なかった。手のひらがちいさいところと、パッチリした瞳が似ていると言われたことは何度かある。私たち姉妹を見る人々は毎度、無理に似ているところを探しているように見えた。
 本当に、この人と同じ遺伝子を持っているのかな。
 それは、中学校の頃から心のどこかで思っていることだ。姉のヒステリックな行動が見慣れた頃に、彼女の容姿の良さを、世間というフィルターに通して眺めてみたのだ。モデルになれるような容姿を持つ人だったのだ、と、改めて気づかされた。
 それは私にとって自慢のひとつにもなったが、自分にはなぜそれが引き継がれなかったのか、母親たちをますます恨みがましく思う結果となった。私はあの人たちからなにも与えられていない感覚があった。姉は違う。
 私の隣に立って、彼女は机にあるものを見つめる。その横顔を見上げれば、姉が視線に気づいて笑いかけてきた。
 二重の瞳は黒く澄んでいて、それが彼女の最大チャームポイントだと思う。右目の近くに泣きぼくろがあって、顔の印象を甘くさせていた。
「なんにも、してないの?」
「うん、今日する分の勉強はある程度終わってるし、」
「続けてていいよ、あたし、ちゃんと静かにしてる。お勉強する、真琴、見るのが好きなの」
 そう言いつつ、彼女がすぐ脱線させることを私は知っている。それでもかまわなかった。勉強よりも姉と話しているほうが好きだった。
 私は彼女の動きを見つめる。姉は私の机の向かい側にある本棚の前に立って、本を一冊取り出した。
 見慣れた文庫本の表紙だ。サン・テグジュペリの『星の王子さま』だった。幾度となく、彼女が手に取って読んでいる本だ。彼女のもう一つの愛読書である、キリスト教の旧約、新約聖書に匹敵するほどのバイブルとなっている。
「真琴、この本のこと知ってる?」
「知ってるよ。良い話だよね」
 姉は、この本を私の部屋に置いた当人だ。そのことも、こうした会話を一〇回以上繰り返していることも忘れている。
 私は、ベッドに腰を落とした彼女を眺めながら苦笑した。挿し絵の多いページを指でなぞる仕草は、我が姉ながらかわいらしい。
「あたし、こんなひとに、なってみたいって、思うの」
彼女は、星の王子さまを見つけるたび、独り言のようにそう口にするのだ。私はこの世界の中で詩帆姉さんが一番星の王子さまに近い、と、この言葉を聞くたびに思った。
 私は椅子を引いて立ち上がる。姉の側に行き、同じように腰を降ろした。
 彼女の体温は冷たく、甘い花のにおいがする。
 姉は昔から極度の寒がりで、夏でもかまわず長袖を着る人だ。物心ついてから、彼女が学生服を着ていたとき以外で、半袖でいるところを見た記憶はほとんどなかった。今の姉は、ほぼ空調の効いたところでしか活動しないため、毎日長袖を着付けている。
 私は姉が見つめる紙面に視線をあわせる。なぞる指は華奢で白い。彼女が顔を上げた。
「真琴、あのね、」
「どうしたの?」
「今日ね、ひとりで電車、乗ったの」
「午前中のこと? 病院だったの?」
「病院は、違う。朝から、行ったの」
 淡々と話しはじめた事柄は、彼女の中で終わったことを消化できている証拠だ。対処できなければ、状況や感情を言葉にできず、うなり声しか上がらない。
 いつもであれば外に出ることを嫌がる姉が、なぜそんな所に? と、思った最中で、彼女がまれにどこかへ出かけたがる癖があることを思い出した。そうしたときは、天候や気温がとても良い日であることがほとんどだ。
 今日は明るい秋の暖かさだった。私も校舎の窓から、心地よい日差しに頬を緩ませていた。休日ならば、私も外出したことだろう。
「大丈夫だった?」
 姉は笑顔で頷く。彼女にお金の概念はない。
 通院の日も、母親からは治療費しか渡されず、電車での行き来は専用のカードを持たされた。姉はある日を境に、改札機にタッチするだけで通過できるカードを気に入ってしまった。財布を持っていないのに、パスケースは大切に持っている。私がデザインを選んで買ったものだ。
 彼女は母親の許可を得て、気まぐれにどこかへ出かけて行く。そして、かならず正午過ぎに帰宅してくる。外に出したら行方知らずになるのではないか、他人だらけに混乱して暴れるのではないか、と、家族はいくらか心配していたが、そうしたことは一切起こらなかった。
 逆に、彼女は道中ではぐれても、かならずなにかしらの方法で喫茶店の前にたどり着いて佇んでいるのだ。帰巣本能は動物並だった。迷子になって帰ってきた日は、それから数日外を怖がって自室からでてこない。捨てられる恐怖でもあるかのようだった。
「朝、ひとがたくさん、いるところを見つけたの。みんな、あたしを見てた。顔に、なにかついてるのかって、鏡を見てもないの。変なひとたちから、紙切れをもらって、なんだろうね」
 ワンピースのポケットに手を突っ込み、ゴソゴソと動かせながら彼女は言った。
 その発言だけでどこへ行ったのかわからないが、姉はおそらく繁華街に向かったようだ。いつもならば郊外へ向かう電車に乗って、付近を散策するだけで帰ってくるのに、人のいる繁華街を選んだのは珍しかった。
 皆が姉を見たということは、服装に問題があるわけではないだろう。きっと容姿の良さで目を引いてしまうのだ。
 私も過去に、姉と一緒に街を歩いたことがあって、彼女がいろいろな人から声をかけられていたことを知っている。モデル並みの体型をした人なのだ。あのときは、ふつうの人だと思って話しかけてくる彼らから、姉を引き離そうと躍起になった。しかし、姉本人はまったく気に留めず、勧誘にも応えることなくマイペースに歩いていた。
 私たち家族ですら、彼女の歩みを止めることは難しいのだ。多くの人は立ち止まらない彼女に辟易して、名刺を渡すだけに留まる。
「ハイ、これ」
 その通り、彼女は六枚の名刺らしきものをポケットから引っ張り出して、私に渡してきた。その印刷内容を見れば、水商売よりモデル事務所のような会社が多い。夜の世界という雰囲気にしては、姉は透明感がありすぎた。派手な衣装が似合わない顔立ちなのだ。
「……姉さんがきれいだから、こういうものをくれるんだよ」
「そう? でも、男のひとは、話しかけにくいって、いった。ふつうの、感じじゃないって、……なんだろうね。あたし、よくわからなくて、いつも、こんな感じですって、答えたの」
 曖昧にほほえんで彼女は言った。私には、男の人の言いたいことがよくわかる。
 彼女がふつうの人と違うことは、雰囲気からして明らかだった。ふつうの人にあるはずのものが、彼女にはない。ごっそり消え失せているのだ。姉は、彼女自身で好んだ倫理感や知識でしか物事をとらえない。
 それを助長するように、彼女はキリスト教の教典を愛していた。まるで修道女のような潔癖さがあった。過去に布団にくるまってブツブツ独り言を吐いていた内容が、キリスト教書物の暗唱のようだったこともある。彼女の好きな人は、すべてなにかしらの聖者だった。読書にのめりこんでいるときは、聖書や関連書であることがほとんどだ。
 しかし、彼女が教会に赴くことはない。どれだけ私が付き合うと誘っても拒まれた。その点が、一般的な信仰にたいする考え方との違いなのかもしれない。
 姉の雰囲気には、どこか近寄りがたい鋭利な冷たさもあった。家族以外の他者を映す瞳は、ガラス玉のように凍っている。空気に敏感な人は、彼女に見惚れたところで話しかけられないようだった。それに、根気とコツを知らなければ、彼女との会話は成立しない。大概無視されるのだ。唯一、喫茶店で近づけるくらいだろう。
「真琴、今日も、学校だったの?」
 姉のもとに返そうとした名刺を手で制され、代わりに彼女は口を開いていた。
 姉は、私がこの家にいないときの活動内容を聞くのがとても好きだ。私の勉強を脱線させる原因がこれだった。
「今日も学校だったよ」
「学校のお話、聞きたい」
 彼女が瞳をキラキラさせると、私も変哲ない学校生活について妙に話したくなる。彼女は私が友人と遊んだときの話を聞くことも好んでいた。
 両親は、私のプライベートに頓着しない。学校の卒業式すら来ようとしなかった人たちだ。その分、姉が私のことを気にかけて私の話を聞いてくれるのは嬉しかった。彼女は世間的にまともな精神をしている人ではなかったが、本当に私の心を理解してくれるひとだった。
 私は姉に向けて、最近起こった学校の話や友人のことを話す。通う高校は、名門大学へ進学させるためだけのような施設だったが、クラスメイトには恵まれていた。私の性格に合った友人が多くでき、この学校を選んで本当に良かったと思う。それは一種の救いだ。
 姉が私の話にちいさく笑う。すると、外からノック音が響いた。ドアのほうへ二人して目を向ければ、父親の声がした。途端に、姉は少し緊張した顔持ちになった。
「おとうさん、入ってもいいよ」
「……真琴。詩帆もいるな。会社帰りにケーキ屋で二種類のムースを買ってきたんだ。今、食べるか?」
 眼鏡をかけた父が、ドアを開けて娘二人を見ている。私は姉を見て答えた。
「食べる。すぐ行く。紅茶の用意とかは?」
「母さんがお湯沸かしてるんじゃないか。したら、リビングで待ってるな」
 はあい、と、返事をすれば、父がドアを閉める。彼は長女とあまり視線をあわせない。間近な姉の視線に気づいた。
「真琴、行っちゃうの?」
「姉さんも行くんだよ。リビング行きたくない?」
「ううん、続き、聞きたい」
「それなら、リビングでもできるよ。それでも、いい?」
 彼女は、いいよ、と、言って立ち上がった。私は姉から本を受け取ってベッドに置く。
 姉は自分の思ったとおりにしか動こうとしない人だが、私の願うことは大方聞いてくれた。だから両親は、姉にまつわることとなれば、かならず私を頼った。そうした負担を感じるのは嫌だが、姉のことは放っておけない。彼女に罪はないのだ。
「真琴のそばは、落ち着くね」
 廊下へでた姉が、すぐ側で私にほほえんでくれる。
 それは、私にとって少なからず『幸せ』と、呼べるものだった。
 高校二年の秋になり、進路のことを考えなければならない時期は近づいていたが、私は漠然と姉を助けられるような職につきたいと考えていた。日々はこの先も、同じように流れていくものだと信じていた。
 しかし、どこかで戸惑いもあった。
 このままの状態がいつまで続くのか、そして、私たちはこのままでかまわないのだろうか。
 家族の間で、皆が密かに考えていたのだと思う。姉ですら、あの精神の中で考えていたのかもしれない。
 それは、すべてが過ぎてから思えることだ。


 私はそのときまで、この家族が抱える暗がりを知らなかったのだ。彼らには、未だ隠し事があった。離婚話だけが姉の心を砕いたのではなかったのだ。
 両親と姉の三人は、穏やかな生活が続くかぎり、私に洗いざらいのことを話すつもりはなかったはずだ。  私がもっと早く察すれば良かったのだろうか。
 そうすれば、よりよい家族関係が築けたのだろうか。
 姉がおかしくなってしまった時点で、すでに後に引けなくなっていたのか。
 姉を中心とした世界を乗り越えることなど、私には考えられなかった。ずっと、この中でひっそりと生き続けるものだと思っていた。
 彼女を失うまで、そう本気で思っていた。



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