* 独白(或いは私室)【第5話】 *


 姉のもとに父を置いて、私たち母子は車で帰宅した。
 二十四時間出入り自由の新しい葬儀場は、姉をおくるのにふさわしい清潔さで満ちていた。両親は慌ただしく手配していたが、良いところを見つけたものだ。
 大切な娘のために、たくさんの花を飾られた。菊の類が多かったものの、蘭や百合もあった。姉の好きな花ばかりだった。
 家の玄関ドアを開けて、私が先に住居へ入る。玄関の奥は物置部屋があり、その先へ進めば喫茶店にあたる。生活の場はその手前にある階段を上がるのだ。
 明かりを灯しながら、私は家の隅々を眺める。
 まだ、姉の気配が残っていた。今は不調で入院しているのだ、と、自分に言い聞かすことが簡単なほど、姉を失った実感は乏しかった。喪服の代わりに高校の制服を着ていたせいもあるだろう。
 住居は三階立てだ。三階部分に、私と姉の部屋があった。広いバルコニーも備えているが、姉の精神状態がおかしくなってからドアに鍵がつけられた。彼女がなにもしでかせないように、両親は少しずつ家に手を加えてきた。それも、もう必要がない。
 早く三階に行きたい。自室に戻りたい。母親に問いただしたいことがあると理性が訴える一方で、母親がこれからなにを切り出すのかを恐れる感情が私の胸を巣食っている。
 自分の部屋に戻ろうと思えばいくらでもできる。ドアを閉めて、耳を塞いでしまえばいいのだ。良い話でないことは察している。だが、それがどういった内容なのかまでは考えられなかった。
 階段から響く母の音は、淡々としていた。姿が見えなければ、上り下りの音は同じだ。どちらも踏み外せば、転げ落ちるだけなのだ。喪服姿の彼女が現れた。
「真琴、疲れてない?」
 姉がいなくなり、母親の声が妙に近い。慎重な声色に、彼女の気遣いが感じ取れた。私はかぶりを振った。
「おかあさん、話ってなんなの?」
 姉を亡くしたばかりのこの状況で、持ち出される話などかぎられている。私は耳を澄ませて、彼女の言葉を待った。
 母は、真琴、と、私の名を確かめるように呼んだ。
「突然の話だけど、今、あなたに伝えておくわね。……私たち、これを機に、離婚しようと思うの」
 母親が切り出す話は、ろくでもない内容だと、端から思っていたのだ。
 だから、目の前で突然出された両親の決断に、もう一人の自分が、思った通りだとすぐさま笑った。しかし自嘲したところで、身体の自由が利かなかった。
 現実の私は、掲げられた黙示録に立ちつくしていた。
「詩帆ちゃんがいなくなったばかりで、あまりにも突然な話なのはわかっているわ。けれど、これは詩帆ちゃんのためにも、早いうちに決断しなければならないことなのよ。詩帆ちゃんが望んだように、」
 凛とした母親の言いぐさは、すべてが嘘のような響きを持っていた。しかし、目が冗談でない。
 姉さんが、なにを望んだ?
 淡々と話す母親がひどく別人に見えた。それこそ私や、詩帆を生んだ人間ではないみたいに感じられた。
 なぜ、こんな簡単に言いのけてしまえるのか。
 姉も、離婚話を教えてくれたときは、とても淡々とした語り口だった。彼女がはじめ両親から聞いたときも、こうした感じだったのだろう。
 そして、この女は、それを私の目の前で再現している。
「……アンタに、」
 意識なく口から出た言葉に、母は顔を上げる。私は確信を帯びたように続けた。
 こんな理由とやりかたで、この親は姉を壊していったのだ。
「アンタなんかに、詩帆姉さんのなにがわかるっていうのよッ!」
 押し寄せてきた感情は、コントロールできないほどの怒りだった。
 この人はなにもわかっていない。私たち姉妹を産んでいながら、まるでわかっていなかった。
 血のすべてが頭に上ったような錯覚で目眩がした。吐き出した言葉が止まらない。母を面食らったような顔をして、私を見ている。
「そうやって、アンタは子どもたちを何度も追い込んだんだ! あのひとは……姉さんは、自殺未遂までして、心までも壊したっていうのに!」
「真琴、それは、」
「それはなんなわけ? 離婚話以外で姉さんの右腕にあんなひどい傷をつくる理由があったわけッッ!」
 永劫に眠る姉の左手首にあった傷は、疑いなく自殺するための傷だった。自傷にしては深すぎた。あまりにも深すぎた。
「なんか言ってよ! なんで私はいつも置き去りなのッ、私もあなたたちの娘じゃないの!」
 詩帆姉さんが死にたいと思った原因を、つくったのはこの両親だった。それが悔しかった。私はなにも知らず、のうのうと一緒に暮らしていたのだ。姉に寄り添っているつもりでいた。
 怒涛に溢れる想いを叫んだ。目の奥が真っ赤に染まっているのに、視界は広かった。
 この家では、姉の面影を探すことが容易だった。ひょいと物陰から現れそうなくらいだったのだ。なのに、もう居ない。
 姉は二度と私たちの前に現れない。
「詩帆は、腹違いなのよ」
 母が濡れた声でつぶやいた。
 私は、目の前の人を凝視した。私の思考を停止させるには十分すぎる発言だった。単純に、母親がなにを言っているのか理解できなかった。
「ど、どういうこと?」
 我ながら零した言葉は間抜けていた。
 母の言葉を反芻すれば、簡単に意味がわかる。私は、理解したくなかったのだ。それを、母親は言葉通りに受け止めていた。
「あの子は、父親が違うのよ。それも、お父さんには前もって話してたのだけど……、」
 あの子には高校になるまで、言えなくて。
 そう母は小さく呟いて、無意識に俯けていた顔を上げた。私の表情が変わったことなど気づいていない様子だった。
「で、でも、それだけじゃないのよ。ほかにもたくさんのことがあって亀裂ができてたのよ、……お父さんとたくさん話し合った結果、やっぱり離婚を決めたのよ。昔もこういうのが、……もしかして詩帆ちゃんから聞いていた? あのときの、」
「それは、聞いてる。姉さんは、……そのことも知ってたんだ」
 母親に全部を言わせたくなくて、私もたまらず声を出す。目を伏せて頷く仕草に、私の怒りは唐突に萎えた。
 姉と父は、血がつながっていない。
 それは本当に知らない話だった。おそらく何度聞いても整理できない。大体、この夫婦は姉さんの妊娠を機に結婚していたはずだ。意味がわからない。考えたくもない。
 しかし、その一方で、ストンと合点がいくところもあった。
 姉と私は似ていない。父と姉もあまり似ていなかった。私と父もさほど似ていないが、姉の顔の造作には私の父母から引き継いだものとは明らかに違う部分があった。姉は頬骨が高かった。鼻も高い。私の親戚にもほとんどいない顔立ちだった。
 私は今まで、三人と比べて自分が似ていない部分だけをあら探ししてきた。そして、この家で私は実は血のつながっていない子なのではないか、と、被害妄想に近いことを考えていた。疎外されている理由を探していた。
 だが、それは姉のほうだったのだ。
「あの子は、本当にいい子だったのよ。あんなに、あんな脆い子だとは思っていなかったの。あの右手、初めて裂いたのはそれを話した日の晩だった。隠していたことは本当に悪かったと思ってる。でも、離婚するのはそれだけじゃないって、ちゃんと話したのよ。だから、そんな風に、……あのときはそんなショックを受けただなんて、微塵も感じられなかったのに……!」
 震える手を握り締めて、私と詩帆のおかあさんは話を続けていた。
 姉を失った直後よりも取り乱す母親を、私は黙ったまま見つめていた。真実の重さについていけなかった。
「ち、血まみれの詩帆をお風呂場で発見したときね、あの子、あんなに狂気的な瞳を持っていたなんて、おかあさん思わなかった。わたしが姿を見つけたときね、あの子恐いくらいやさしく笑ったのよ。……あたしが死ぬまで、この世界を壊さないで、って、笑って、」
 私だけが知らなかった話だ。当時八歳だった。おかしな状況に陥っていく家庭を、不安な瞳でただ見ていたのだ。夏休み前のことだった。
 終業式の日は、そのまま列車に乗せられて祖父母宅へ向かった。それから始業式の前日まで、家に帰ることはできなかった。だから、その間のことも知らなかった。
「右腕があんなことになったのは、その夏に真琴をおばあちゃんたちのところへ預けてからよ。真琴と自分を引き離したと勘違いして、あの子は大暴れした後……あんなふうに、腕を、」
 母親の喉が引きつった。彼女はハンカチも出せずに泣いていた。
 私が泣きたかった。
 悲しかった。こんなにも悲しいと思ったのははじめてだった。怒鳴ってもわめいても、胸に突き刺された悲しみは取れない。
「なん、で……教えてくれなかったの?」
 嗚咽を押さえるように口を覆った母を見た。彼女が娘の問いに答えようと、呼吸を繰り返す。
「真琴に、教えること、……詩帆ちゃんが望むと思った?」
 私は言われた言葉に、なにも返せなかった。
 あの姉ならば、それを望むはずがない。姉は家族四人で暮らすこの世界を愛していた。たとえ偽りのものでも愛していた。
 ……過剰なほど、依存していたのだ。
 彼女にとって、家族は『世界』そのものだった。
 家族のかたちを壊したくなかった姉にとって、私が真実を知ってしまうことはあまりに不都合だった。
「詩帆はこの数年、本当に死ぬことを考えなくなっていたのよ。それだけは信じてほしいの。でも、こんなのはずっとは続かない、……そんなに長くはないと思っていたはず、」
 それは母親の言う通りかもしれない。彼女にとって、家族のかたちを失うことは『死』を意味していたのだろう。そうだとすれば、彼女は生きるためになにをしたのか。両親は娘の『死』を回避するためになにをしたのか。
 私が行き着いた憶測に、母親の言葉が重なった。
「わたしたちにできたことは、できるかぎりこの生活を長らえさせることだけしか……ッ」
 次に続く言葉は、私が敢えて塞いだ。
「もう、いい。おかあさん、もうなにも言わなくても」
 これ以上、聞くに堪えられなかった。
 どう考えても、まともな結果に行き着かない。母親の苦しそうな姿からどうしても逃れたかった。
 私も苦しい。胸が苦しい。
 結局は誰も、詩帆姉さんを救うことなんてできなかったのだ。
 滑り落ちた涙を拭う。リビングから駆けだした私を、母は止めなかった。



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